山道のてんぷら
私の名は千本橋京子。27歳独身。
今は山道を歩いている。例によってペットの猫又、にゃんぱちも一緒だ。
どこの山道かっていうと、私たちの住む能名市の近郊にそびえ立つ能名山。要するにすぐご近所にあるどうでもいいような山を散策中ってわけである。
別に目的はない。たまには自然の中を歩いて多少は浮世離れをした気分になりたかったってだけである。あ、それが目的か。もちろん、本当にその目的を果たすなら最近世界遺産登録されたあの山にでも行くのが正道かもしんない。けれど、別にそこまでの労力をかけて浮世離れしたいわけではなく、ちょっと普段行かない近場に散歩に行きたいと思っただけっていうか。
まあどうでもいい。とにかく、山に散歩に出たんである。
近くの山とはいえ、歩いてみると意外と高さがある。既に、山に入ってから三十分は経っていた。険しいほどの道ではないが、それなりのアップダウンはあるから、疲れは出る。
ふと、隣を歩いているにゃんぱちの方を見た。やはり体が小さい分私より消耗が激しいのだろう、案の定、すでにぜえぜえと言い出していた。
「あんた、大丈夫?」
「疲れたにゃ」
そう言ってにゃんぱちは、私の肩に飛び乗った。
「なっさけない。もうへたったってわけ」
「無理なもんは無理ですにゃー」
「やれやれ」
私はにゃんぱちを肩に乗せて歩き出した。幸い、こっちの体力にはまだまだ余裕があるのだ。とはいえ、いつまでも楽をさせてやっているつもりもないので、
「次の広場までだからね」
と、釘を刺しておいた。
「にゃーす」
と、分かっているんだか分かっていないんだから不明な返事が返ってきた。まあ、いい。嫌がろうとも次の休憩所が来たら振り落としてやろう。
そこからまた、十分ばかり登った。傾斜がだんだんとゆったりになり、やがて、広々とした休憩所が私たちの眼前に現れる。
「降りな」
私がそう言うと、にゃんぱちは素早く降りた。
「あらま素直ね」
「変にねばって振り落とされるよりはマシだからにゃ」
「ちったあ学習能力があんのね」
調子に乗った時には、いつも痛い目にあわせているから、最近では素直な時は素直になってきているようである。さておき私は、休憩所内を見回した。ふと、一軒の小さな小屋が目にとまる。「茶屋」という旗が立てられた和風の古ぼけた小屋だ。にゃんぱちの方も、小屋の存在に気づいたらしい。
「なんか飲むか食べるかしてこうにゃー」
「ま、悪い提案じゃない」
私としても疲れてないわけではないから、特に反対する気もなかった。
「こんにちはー」
と言いながら、小屋に向かって歩く。すると、小屋の中からぬっと一つ目の人間が顔を出した。
「わっと」
と思わず小声で叫んでしまう。が、すぐに失礼に気づいて口をおさえ、
「すいません、急だったもんですから」
とだけ言った。店主が妖怪だったからと言って、むやみに驚くのは失礼に当たる。なにせ彼らは、バケモノではなく同じ社会の成員である知的生物なのだ、現代においては。幸い、気難しい相手ではなかったようで、一つ目の店主は、
「いいえ、気になさらずに」
とにこりと答えてくれ、
「なんになさいます?」
とおしながきを取り出した。団子やらお茶やら、このお店の風情にふさわしい物の中に、オレンジジュースのようなあんまり和風小屋にはふさわしくないものも並んでいる。もっとも、山中に建った小屋であることを考えれば、渇を潤すためにジュースのようなものを頼む人間を多く見込むのは当然である。実際、私の口から出てきたのも、
「オレンジジュースください」
の一言だった。
しかし、にゃんぱちの方は違ったようだ。私がオレンジジュースを頼むのとほぼ同時に、
「ひとだまてんぷら一つね」
と、店主に言った。店主は、
「はい、分かりました」
と言い、店の奥に引っ込んだ。そして、すぐに、オレンジジュースのビンと空コップを持って戻ってくると、私のそばに置いた。
「てんぷらの方はちょっと待ってくださいね」
と言い、また店の奥に姿を消す。
私はジュースを飲みながら、にゃんぱちは何度も喉をごくりごくりと動かしながら、ひとだまてんぷらが来るのを待った。
私がジュースを飲み終わる頃、店主が再び、店に姿を現した。手には皿を持っており、その上には三つ、丸い形のてんぷらが載っている。
「お待ちどうさまです」
そう言って店主は、にゃんぱちのすぐそばにてんぷらを置いた。にゃんぱちは、「いただきにゃす」と言い、てんぷらの一つをぱくりと飲み込む。するとたちまち、恍惚とした表情になり、ぼおっとした顔になる。
「ちょっと、にゃんぱち。どうしたのよ」
一分ばかり、時間が経った。やがて、にゃんぱちがはっと目を覚まし、
「いやーえがった。よし、次を……」
と言いながら、残り二個のてんぷらにとりかかろうとする。
「ちょい待ち」
私はてんぷらの載った皿を取り上げた。
「にゃにすんだよ」
「そんなにいいの? このひとだまてんぷらってやつ」
「絶品のエクスタシーにゃ」
「……一つ、よこしなさいよ」
「頼んだのはぼくだにゃ」
「稼いでるのは私よ」
「……んじゃ、一個だけなら」
「よし決まった」
そういうわけで話がまとまり、私とにゃんぱちは同時に、たましいてんぷらにかぶりついた。てんぷらの味自体は淡白なものだ。魚のてんぷらによくありそうな味。でも、腹に入ってからが違った。
目の前が一瞬に暗転し、次の瞬間、私は高い空の上にいた。
私は目をぱちくりとさせた。そして、自分の体を見てみる。
――ない。
本来私の体のあるべき場所にはなにもなかった。ただ、私の意識だけが、遥か上空のこの場所に飛んできているようだった。こうなれば、なにもぼやっとしていることはない。
私は、飛んだ。雲と雲の間を駆け巡り、山に急降下し、ビルの合間を抜け――気づくと、私は、さっきいた元のお茶小屋へと戻っていた。
「どうだ? いいにゃろ?」
私より一足先に自分の体に戻っていた――としか形容できない――にゃんぱちが、にやにやとしながら私に言った。
「うん。最高。これなら私も頼んどけばよかった」
「それはやめた方がいいと思うにゃ」
「なんでよ?」
にゃんぱちは無言でおしながきの「ひとだまてんぷら」の欄を指した。そこには一皿三千円と書いてある。
「なるほど、確かにこんなもん何皿も頼めない……って、あんた、こんな高いもん、私に無断で頼んだの?」
「いやー、ははは、珍しいもんだからにゃー」
「このバカ!」
「あんぎゃ!」
私の制裁の拳が、にゃんぱちの顔面に炸裂した。
こうして、私の山登りは、ちょっとしたトリップと無駄な臨時出費を伴って終わった。
よかったのと悪かったのが半々、と言ったところか。ひとだまてんぷらの値段を前もってしった上でなら、よかったのが七割だったかもしれない。でも、その場合、頼ませなかっただろうなあ。