病院から帰った話
ブウーーーーーーーンンン……。
柱時計の鐘の音で、私は目を覚ました。辺りを見回す。
だだっぴろい病院の待合室である。ひとけはない。私と、ペットのにゃんぱちが、ソファに座っているだけだ。
院長の趣味なのだろう、置物の日本鎧がロビーの端に不気味に鎮座し、異様な雰囲気を形作っていた。こんなことだから客が来ないのだろう、と思いつつ、私自身はこれに慣れてしまっているので気にもならない。
にゃんぱちが、私に言った。
「よくお眠りだったようで」
うん。よく眠ったと私も思う。
「うーん」
と、私は伸びをして、にゃんぱちに言う。
「処方箋は、まだ出てないの?」
「呼ばれたらひっかいて起こしてたにゃ」
どうやら、まだらしい。
さて、今の状況を再確認しよう。
私の名は千本橋京子。二十七歳独身。かかりつけの病院にやってきて、診察が終わって。今、薬の処方箋と会計を待ってるところだ。
ペットの猫又、にゃんぱちと一緒に。
猫又。そう、長生きして尾の別れた猫。これがしゃべるなんてことは、いまさら説明するまでもないだろう。こいつが私のペットである。猫又だの尾の多い狐だのを飼うことは、今の世の中そんな珍しいことでもない。
「千本橋さーん」
受付から声がしたので、私は、
「はーい」
と言いながら立ち上がり、そちらに向かう。
受付では、魚の顔と人間の体を持つ看護婦さんが、私を迎えてくれた。これも妖怪の一種であるが、そんなことより、見かけない人であることの方が気になった。
「1400円になります」
「あ、はい」
私はズボンのポケットから財布を取り出し、千円札二枚を取り出した。
「細かいのないんで、これでお願いします」
「はい、はい」
魚の顔の看護婦さんは、慣れない手つきでレジを開け、百円玉を六枚取り出す。胸を見ると「研修中」と書いた名札が貼ってあり、ああ、やっぱりと思った。
ともあれ、看護婦さんは苦戦しながらもお釣りを取り出し、
「はい、お釣りです。処方箋はいつも通り」
と、お釣りと、あと処方箋を手渡してくれた。
「どうも」
私は頭を下げると、看護婦さんの前から去った。
向きを変え、病院の入り口まで歩き出す。歩きながら、にゃんぱちを手招きしてやった。にゃんぱちはソファを飛び降り、私の後をついてくる。
コツ、コツと足音の反響するロビーを横切り、私は、ドアから外界へ出た。
「あっちー」
と、病院から外に出るなりにゃんぱちが叫んだ。
確かに、暑い。酷暑の太陽の日差しに肌が焼かれるような気分である。
「さっさと薬屋さん行ってかえろーよ」
にゃんぱちが言う。
「言われるまでもない」
私はそう返し、病院のすぐそばにある薬局に向かい、そのドアを開けた。ドアを開けると、涼しい風が私たちを優しく包み込み――はしなかった。
「すいません、エアコンが壊れてるんですよ」
と、薬局の奥の方から声がした。
薬剤師さんだった。この人は、少なくとも見た目には普通の人間の男である。しいていうならちょっとメタボってるくらいか。
ともあれ、壊れているからと文句を言っても仕方がない。一番辛いのはここで働いてる薬剤師さんたちなんだし。
私とにゃんぱちは、汗をふきふきレジに歩いた。
「これ、お願いします」
古ぼけた狭い薬局の中を歩いてレジにたどり着くと、私はさっき受付でもらった処方箋を薬剤師さんに渡した。すると、薬剤師さんは眼鏡を直しながら処方箋を確認する。
「はい、はい。かけてお待ちください」
私は言われるままに、レジのすぐそばの古ぼけたソファに座った。その横の空いたスペースに、にゃんぱちもぴょこんと飛び乗ってくる。毛が触れて暑苦しい。
「邪魔」
私はにゃんぱちの首根っこをつかむと、床に軽く投げ捨てた。当然、にゃんぱちはくるりと宙を舞う。
「動物虐待にゃんだぜ、そういうのは」
と、床に着地しながらにゃんぱちは言う。
「このクソ暑いのにひっついてくるからよ」
「ふん」
にゃんぱちはそっぽを向くと、床の上で丸くなった。
――オレンジ色のフローリングの床の上は、ひんやりとして気持よさそうだ。
などと思っていると、にゃんぱちがひとりごとめかして、
「あー、涼しい。べたべたしたソファなんかと違って涼しいにゃー」
と言う。だったら最初からそこに転がってろ、と私が返そうとしたところで、
「千本橋さん」
という声が、私の発言を遮った。私はにゃんぱちの方を向くのをやめて、立ち上がりながら、
「はーい」
と言い、レジに向かって歩く。
歩く、と言っても椅子からレジまではほとんど距離もない。ほとんど、ただ立ち上がっただけと形容してもいい程度である。まあ、立ち上がったか歩いたかなんてどうでもいい、とにかくレジにたどりつき、薬を受け取る段になった。
「お薬はいつも通りです」
「はい」
「お酒とは飲まないように。ふらふらになるから」
「はい」
「ではお会計です。三千五百円」
医者通いというのは、たいがい、薬代の方が医者代よりかかる。私の場合も例外ではなく、医者代よりも遥かに高額な値段を請求された。とはいえ、そういうものなんだから文句を言っても仕方があるまい。
「はい」
私は言われるままに財布から鐘を出し、払った。今度はぴったりで、お釣はなかった。
再び、外に出た。出ると同時に、エアコンが効いていないと言っても、薬局の中はすずやかだったのを思い知った。屋根のひとつがあるとないでは大違いである。照りつける日光が暑い。肌を刺してくる。
にゃんぱちもまた私と同じ感想であるようで、犬のように舌を出しながらふらついているから、なにか優しい言葉をかけてやろうかとちらり見てやったが、
「ふーん」
とばかりにそっぽを向いてきたので、こちらも無視してやることにした。どうやら、奴の中では先ほどのソファでの一件が継続中であるらしい。あれが継続中であるということは、つまり、私とはまだ戦争中ということである。こうなると、先に話しかけた方が負けな気がするので、話しかけるというわけにはいかない。
炎天下を十分ばかり歩いた。アスファルトが熱を反射してことのほかに暑く感じる。動くのすら面倒になってきたが、まだ、私の家までは、あと十五分はかかる。そんな折、にゃんぱちが、
「タイム」
と叫んだ。一時休戦しようというわけらしい。
「なに」
私は出来るだけ冷たい返事を返してやる。
「にゃんか飲もう」
名案である。私はうなずき、近場の自販機を探した。すぐに見つかったので、まず、清涼飲料水を一本。あとはあずきドリンクを一本。どちらが私ので、どちらがにゃんぱちのなのか、説明の要はないだろう。
「はい、あんたの分」
と言ってあずきドリンクを渡してやった時、にゃんぱちは不平千万の顔をしていた。
ざまぁ。
更にしばらく歩き、我が家に着いた。玄関をまたぎ、廊下を歩き、寝室兼書斎へと飛び込み、ベッドに横たわる。すぐさま枕元のリモコンを操作し、エアコンをつける。
ちなみに私は、自分とにゃんぱちとの一人と一匹暮らしである。だから家も大して大きくはなく、この寝室の他には台所とトイレと物置がある程度である。
それはさておき。ベッドに横たわり、待ち望んだ冷風を浴びる。にゃんぱちもすぐ横に飛び込んできたが、許してやった。しばらく、寝転がりながら冷風を味わう。
心地よい。その心地よさによって、やがて、眠気が襲ってきた――。
「さみっ」
と言いながら、私は目を覚ました。
冷房をつけっぱなしにしてうたた寝したせいで部屋と体が冷え過ぎていることに気づき、あわてて手元をまさぐってエアコンのリモコンを探し、電源を切る。
電源を切った後、窓から外を見た。既に空は暗い。夏場でこの暗さということは、それなりの時間だろう。そう思いながら壁の時計を見ると、既に午後七時を回っていた。
ベッドを見ると、にゃんぱちが横になっていた。まだのんきに寝ている。
「起きな」
首元にチョップを喰らわせてやった。
「あいててって、にゃんだよ」
寝ぼけ眼をこすりながらにゃんぱちも起きた。
「もうご飯の時間。ところが時間はない。さてこんな時には?」
「ソーメンはもう嫌でーす」
と言いながら、にゃんぱちはまたぱたりと倒れた。くそっ、こっちの魂胆を読んでやがる。もっとも、確かに四日連続でソーメンというのもなんだか体に悪そうだ。
「お寿司食べたい」
にゃんぱちが寝っ転がったまま言う。
「バカ言ってんじゃないわよ」
偽らざる本音だ。なんでなんでもない日にお寿司なんて取らなきゃなんないのか。
「じゃあソバがいいにゃ」
ソバか。まあ、平常食として取る店屋物としては妥当な線だ。それなりに悪くない妥協点というところだ。
「んじゃ、出前取ろうか」
私は携帯のアドレス帳から、近所のソバ屋を選んだ。
しばらく経って、ソバが来た。
窓を開け放しにして、ちゃぶ台の前にすわり、テレビを見ながら、にゃんぱちとすすった。軽い風が吹き、ちりんと、窓際の風鈴が鳴る。
ずーずーとソバをすすりながら、にゃんぱちが言った。
「昼間の件はさあ、やっぱ八割そっちが悪いよにゃ」
どうやら昼間の件を蒸し返すつもりらしい。しつこい猫だ。
「根に持つわね」
と、私もソバをすすりながら返してやる。
「だってよー」
「かもしんないけど、別に謝んないわよ」
「ちぇっ」
ずー、ずー、ずー。
ちりーん。