押開ける2
「こちら、輿石鳴子ちゃん。ほらツヅリ、ご挨拶なさい」
母にツヅリは背を押され、少女の方へと突き出された。ツヅリはそれでも母を見上げ、手助けを求めたが、母は笑ってうなずくだけで何もしてくれない。ぐっとつばを飲み込んで、ツヅリは震える声で少女に挨拶した。
「ぼ、ぼくはおしかわつづり。は、はじめまして」
「はじめまして! こしいしなるこです。よろしく!」
ぱっと花が散るほどのとびきりの笑顔で、輿石鳴子はツヅリの手を握った。暖かくて柔らかい手は、彼女の性格をよく表していて、肩口で揺れる髪が元気よく跳ねていた。
人体版の先駆者、輿石鳴子に会ったのは、幼稚園に上がる前の話だった。
「ツヅリはいつも本を読んでいるけど、やっぱりお母さんの影響?」
「父さんもだけど」
「へぇー」
「でも本じゃないよ、専門書だよ」
「ほえ?」
ぺたぺたと駆け寄り、ツヅリが読んでいる本をのぞき込んだ。彼女の頭で本が読めなくなったツヅリは、彼女の頭を乱暴に押しのけた。ほおをふくらませた彼女がごつん、と軽く頭突きをしてきた。
「何書いてあるのか全然わからない。私が読んでいるのとは全然違うね」
小学生に上がったばかりの彼女であるが、小説家押川家のと長く親交があるせいか、小学校中学年が読むような本に手を出していた。しかし本の虫というわけでもなく、社交性もそれなりにありツヅリのようにはぶられることもなかった。彼女は外でも遊び、ツヅリと違って少し黒かった。
「ツヅリも、将来は本を書く人になるの?」
「嫌だよ、絶対」
「何で?」
「父さんや母さんみたいに、いつも自分の好きな本で喧嘩するの、見てるのやだから。いつも俺に、どっちの本がいい? って聞いてくるんだ」
「こっちが好きっていえばいいじゃない」
他人事のように言う鳴子に、ツヅリは生意気にため息をついて見せた。そのため息をどうとらえたのか、鳴子は何よ、とほおを引っ張った。痛い、と彼女の手をはたき落とせば、鳴子は専門書を取り上げた。取り上げられた専門書を追おうと手を伸ばしたが、彼女は舌を出す。
「結局、ツヅリは将来何になりたいの?」
「俺は、そうだな……」
ツヅリは考え込む。なりたいものは決まっている。でも鳴子に言って馬鹿にされないのか、そんな気持ちがツヅリにあった。今から思えばそんな考えは取り越し苦労なのだったが、ツヅリは一生の覚悟を決めて、鳴子に向かい合った。鳴子もツヅリの雰囲気に押されて、正座になる。端から見れば小学生の子どもがお互いまじめな顔をして正座をして向かい合っている光景に、ほほえましい感情を抱くだろう。
「俺は、本を作る人になりたいんだ」
ツヅリの迫真の一言に、鳴子はぱあっと顔を輝かせた。
「おじさんやおばさんと同じじゃない!」
「え」
「え」
ツヅリはそこで、大いなる誤解を鳴子がしていることに気がついた。しかし、訂正しようにも、鳴子にわかりやすく伝えられる語彙が、彼の中にはなかった。
「将来の夢は、電子書籍の新媒体の発明家です」
周りのクラスメートが消防士、警察官、保母さん、といっている中で、小学3年生らしくない具体的な夢に、先生が妙に引きつった笑みを浮かべた。この女教師は後に、公務員って言っている世代と同じくらい、夢がないな、と思ったようである。至って子どもらしい夢を語ったクラスメートは、なんだそれー、とヤジを飛ばしたり、首をかしげたりしていた。そんな反応を示さなかったのは言った本人と、彼と長年一緒にいた輿石鳴子だけだった。
「じゃあ次は、輿石さん」
鳴子ははい、とはっきりした返事をして、立ち上がった。幼稚園時代より伸びた髪は二つ結びにされていて、ちょこんと耳の下に生えている。彼女は机に手をたたき、先生に身を乗り出すようにして宣誓した。
「私は、小説家になりたいです!」
先生が思わず目を見開いたが、彼女の真剣な笑顔に押されたのか、クスリと笑ってしまう。それは生徒に伝播し、何それー、とツヅリと同じような声が上がる。ツヅリのようにそれを無視しない彼女は、人に夢を与える職業なの、と子どもらしいたどたどした声で言った。彼女は再び叫んだ。
「ツヅリにはいつか、それの協力をしてもらうんだ!」
どっと教室がわいた。いったい何におもしろがっているのか、改めて考えても意味がわからないが、押川ツヅリは早く家に帰って、昨日来た本が読みたかった。
「登場人物の名前が複雑だし、読めないよ。後その複雑さと登場人物の過去の深さがいまいち合ってない。でも、なんだかんだおもしろかったよ。意味不明なところあったけど」
ずばしずばし、と言い切ったツヅリに、鳴子はむぅーと頬をふくらませた。赤ペンを耳に載せながら、もう一度精読している彼女の隣で、ツヅリも一週間前に買い与えられた携帯電話を分解していた。別に携帯電話を欲しいと所望したわけではないが、適当な電子書籍媒体が欲しいと言ったら、これが与えられたのだ。小学6年生だから遅すぎると言うこともないが、ツヅリからすればまだ必要とはしていない。
「ありがと、ツヅリ。やっぱりお母さんとかに出す前にツヅリに読んで欲しいんだよね」
「俺、忙しい中頑張って読んだんだから、もう少しおもしろいの持って来いよ」
「な、それってつまんなかったってこと!? さっきおもしろいって言ったばかりじゃない!」
「前よりってこと」
「あ、進歩はしてるんだ」
良かった良かった、と胸をなで下ろした鳴子は、赤ペンで書き込みはじめる。先ほど注意された点を中心に、もう一度誤字や脱字も含めて読み返す。と、急に鳴子は顔を上げた。
「ツヅリはどう?」
「む?」
「この前作ったポータブル書籍、出してみた?」
「今テスト試験中。まだ不具合たくさんあるから、駄目」
「そう?」
押川ツヅリは小学4年生のころから、一つの電子書籍専用の媒体を作り出した。まだ幼い彼には、通話機能をつけることもメール機能もゲーム機能も、付けるだけで頭がおかしくなりかねないほど難しかった。2年かけ、最近ようやく作られたポータブル書籍――――ネーミングまんまだな、と思っても、付けたのは鳴子――――は、いろいろ誤作動も多いのでまだ発明の研究室に提出する予定はない。といっても、最近は父が頻繁にそのことに文句を言うので、もうさっさと提出してしまいたい。提出する研究室の当てはあるのだが……。
「あのさ、あのさ」
肩を揺らしてくる鳴子に、ツヅリはにこやかに邪魔、と告げた。何よ、と烈火の如く怒った彼女は、伸びに伸びた黒髪を振り回し、ツヅリの目つぶしを狙う。地味に痛い。結構痛い。
「ツヅリが新しい媒体を発明したら、私はその最初の小説をツヅリのところで出版したいな」
「その前に何かの賞を取らないといけないだろう」
「記念出版でいいからさぁ」
適当な返事をするツヅリの手から、ドライバーを勝手に取り上げる。何するんだ、と文句を言おうとツヅリは顔を上げて、鳴子の久しぶりの笑顔に、毒気が抜けた。