おしの襖
「大丈夫か?」
一悶着が起きてから別室に案内された。この前案内された部屋かと思いきや、部屋のレイアウトが微妙に異なっている。そんなどうでも良いとさえ思える気遣いが、今は本当に嬉しかった。とはいえ。
「榊」
「何だ」
恵は部屋の扉のそばに立ったまま、動く気配はない。ツヅリに茶の支給をしてから恵は茶を飲む彼をただ見ているだけだ。その視線に耐えられなくなって、ツヅリは意を決して話し始めた。
「榊。君昨日、俺の家に来た?」
如実に恵が固まり、気配が張り詰めた。張り詰められた気配はツヅリの質問を肯定して、ツヅリは頭を抱えた。まさかとは思ったが。
「……榊、昨日何しに?」
言葉を慎重に選び抜いた末の発言がこれである。直球も良いところだ。これでは、お前そのために俺の家に来たの? と思われても仕方ない。しかし恵はそんな含みを気にしなかった。能面のような白い顔で、下手すればいつもと変わらないような表情で仕事、と答えた。
「君の家に来る理由は、仕事以外の何者でもない。それが?」
「あ、ああ」
あまりにも堂々としているからもしかして、というかすかな希望が芽生えた。恵と床をともにした、とすると精神的な問題が大きすぎる。立場の問題もあるし、もう地雷しか見えない。そもそも記憶に残っていないから相当酔っぱらっていたことも確かで、じゃあ必要最低限の処置をしたかと聞かれれば、そのときの自分次第、と答えるしかない。つまりこのまま気持ち悪いことに、あれは別の人間と床をともにし、恵はただ仕事で訪れそのまま去ったというのが一番の理想であることに今気づいた。
「そうか。それは、ご苦労様。迷惑かけたね」
重苦しくつぶやき、茶をすする。今日は温かい。
恵はいや、と答えて、真向かいに座った。いったい何を話すのかと身構えても、恵は特に行動をしない。しばらく指を組み替えて、目線を落としては上げてを繰り返した後、恵は爆弾発言を落とした。
「誘ったのは君だからな」
「……」
正直、吹き出しそうになった。もちろん笑いではなく悲しみに。気管に入りそうになった茶は幸いうまく処理された。しかし動揺はカップを持つ手に現れ、ばしゃばしゃとぬるいお湯がズボンにしみた。
「大丈夫か?」
何が大丈夫なものか、と叫びたくて仕方ない。なぜ彼女は平然としていられるのだろうか。そもそも彼女を押し倒したのか同意の上なのか、その件でもだいぶ反応は変わるが。
「……。何で君は受け入れたわけ。君は俺のことが好きなのか」
いわゆる反語的な質問で、いや、そんなことはない、という返答を想定していた。だから語尾に疑問系の要素は薄かった。しかし恵はここで焼夷弾を落とした。
「ああ、好きだ」
「え」
本格的に尋ねずには居られなかった。恵の一言は、自分の根底を揺らがし兼ねない一言だったからだ。がしゃんと、中身をこぼしながらソーサーに載せ、ツヅリはぐしゃりと髪をかき上げた。思い出すのは最後に見た同年代だった少女。
「……。榊、君とはそういう関係だったかな?」
出来るだけオブラートに包んだ言葉は、やはり包みきれずに中身が出ていた。恵はそうだな、と変わらぬ様子で言う。そう、普段と全く変わらない男のような口調で、昔の恵と寸分違わず。
「違うな。君は昔の彼女にとらわれて、私のことは見てもくれなかった。私も別にそれで良かったんだがな。やっぱり片思いというのはつらい」
そう告げると、これ見よがしに下腹部をさすり、ツヅリの頭に血が上った。ぐっと拳を握り込みそれをこらえ、波が収まるのを待つ。恵はひとしきりさすった後、にこりと、こちらはいつもと違う笑みで艶然とほほえんだ。
「君をしっかり運んで、いろいろ処理をしたのは私だが、私自身の処理はまだなんだ。まだ病院にも行っていない」
限界だった。
ソーサーにのったカップを力任せに払い落とし、立ち上がる。こちらを見上げる恵の目に反省の色はかけらもない。それがさらに、ツヅリの怒りを助長させた。
「君は、俺の気持ちを知っていて、のったって言うのか。……。何だ、何がやりたい。君と恋人にでもなればいいのか。俺に求めているのは何だ、嫌な脅しをしやがって」
「君はこれを脅しととるかい?」
「男に子どもが出来たと突きつけて詐欺をする、そういう女に見えかねない」
「見えかねない。君らしい良い表現だな」
はは、と笑う恵に、いったい何が彼女を突き動かしたのか、ツヅリにはわからなかった。彼女が自分を好いているという前提があってもなお、彼女が均衡を打ち崩したのがツヅリにはわからなくて。ブックカードはポケットにある。じゃあもしかして彼女は。
「君は昨日、ブックカードを持って行ったのか」
「まだそこらは思い出せていないんだな。その作業はついでだったがな。昨日君は倒れた。私はそんな君の容態を再確認するために来て、部屋に上がらせてもらったんだ。……珍しく、ね」
君は誤解のない応対しかしないからな、とあっけらかんに言う彼女に、昨日の自分を殴りたくなった。そしてもう二度とやけ酒をやめようと誓った。誤解のない対応と言うが、確かに恋愛感情を持っている女性に対しては徹底した態度だった。昨日が誤解のある対応だったといわれても、それは通常のツヅリの応対としては、であって、普通の男女間だったら…………訂正する、通常の男女間であっても誤解のある対応だった。
確かに昼間も恵を入れることはほとんど無く、入れても客室に案内どころか茶も出さず、一通り聞いたら無理矢理追い返す。彼女との会話は無視と説教の応報で、甘い雰囲気などかけらもなかったが、昨日は何を話したんだ。
「君とたわいない世間会話をした。たわいないがそもそも君が話しかけたこと自体、今までほとんど無かった。そこから特に進展はなく、フォレストの入館許可が出てブックカードを受け取って、なだれ込んだわけだ」
舌打ちを大きくすると、恵が肩をすくめた。自分は悪くない、と言いたげな態度がツヅリを行動に駆り立てる。彼女にぐっと肩をつかみ、揺さぶった。
「確かに君に誤解を与えかねない話をしたのかもしれない。だが俺が酔っぱらっていたのはどう考えても明らかなんだから、それにつけ込んですべてすっ飛ばして被害者面なんて、厚顔にもほどがあるだろう」
「こうがん? 厚顔ね。君は難しい言葉を使うな」
「難しくもないだろう。榊、君俺に何させたいんだ」
こういって、結局ツヅリは恵の答えを聞く前に自分の結論を告げた。
「言っておくが、俺は君を恋人にするつもりはない。そもそも君に恋愛感情なんて抱いていないからだ」
きっぱりと告げたツヅリの発言に、しかし恵は眉を動かすことはなかった。すっと立ち上がると、ノブに手をかける。おい、と声をかけたツヅリに彼女は振り返り、にやりといつもより数段ましの極悪顔で笑った。
「さあ、ここ数ヶ月の間、君も覚悟しといた方が良いかもしれないのでは?」
くすくすと手のひらで口を覆い、吐くようなジェスチャーをして出て行った。机に置かれていたカップが扉に砕け散ったのはその後だ。
おしの襖:夫婦仲がむつまじいようにと、オシドリの模様をつけた夜具。また、男女の共寝のたとえ。鴛鴦の衾。
http://kotobank.jp/word/%E9%B4%9B%E9%B4%A6%E3%81%AE%E8%A1%BE コトバンクさんより