教えの庭
フォレストの入り口はブックカードがなければ開けることが出来ない。一つ、窓口はあるが、すでに不良利用者として名を知られているツヅリが伺ったところで、まともな応対はない。それに再発行はフォレストの分野ではなく、パブリックライブラリーの管轄だ。パブリックライブラリーがフォレストの中にあっても、細々とした手続きは役所の仕事だ。
グランドパブリックは三権分立の政治を司る場だ。国民のよりよい生活を祈り、政策を打ち出し、実行する。その実行するための資料提供、詳細の計画の作成をになうのが、グランドパブリックの手足、グランドシリーズである。パブリックライブラリーは作られてここ10年ほどしか経っていない比較的新しいシリーズである。グランドシリーズの中ではパブリックファイナンスがもっとも権力が強いだとか、勤め先にはよろしいとか言うが、押川ツヅリにはあまり関係はない。関係したくもない。
パブリックライブラリーの入り口はフォレストから徒歩1分ほど。そういえば今日は夏休みが始まったばかりらしく、夏期修練の学生たちが大勢ライブラリーにいた。ライブラリーは普段は人が少ないため、グランドシリーズの中でも集団での訪問先として便利だったのだろう。
ブックカード再発行をするために受付にすすすと近づくと、トイレからふらりと最近よく会う知り合いが見えた。こちらに気づいていないようなので、ツヅリは近づき声をかけた。彼女に話せばある程度手間を省けるかもしれない。
「榊」
「ほぇあ!」
素っ頓狂な声を上げ、恵はツヅリから三歩ほど後ずさった。ハンカチを取り落とすほどの驚きに、ツヅリは少し呆れたように再び声をかけた。
「大丈夫か?」
落としたハンカチは拾われる気配がないので、ツヅリが拾ってやる。アルコールのにおいが染みついた、今ツヅリがもっとも嗅ぎたくない臭いだった。恵の顔を見ると、げっそりとやつれている。毎日疲れたように通勤している彼女を見てしまえば、彼女をむげに追い返す自分が悪人に思えてきた。罪悪感を振り払うように、恵にハンカチを渡した。
「あ、ありがとう。……、あ、これ、ブックカード」
差し出されのはぴかぴかの、再発行済みのブックカードだ。ツヅリはそれを認めると、目を輝かせて受け取った。
「あ、ありがとう。昨日無くして困ってたんだ」
「無くした?」
「ああ。酒飲んでてね。落としたのかな?」
恵はしばしば考え込み、ああ、とぽんと手を打った。
「落とし物として届いてね、拾ってくれた人に感謝するのだな!」
びしりと指を差した恵に苦笑し、そうだね、と返す。裏を返せば白いテープが貼ってあり、名前はまだ書かれていなかった。その行動に気づいた恵が、後、と付け加えはじめた。
「ICカードのスリ切れがあったのでね、交換しておいたよ」
先の顔と違い、一転明るく笑う彼女はやはりこちらの方がツヅリにとってなじみ深い。彼女は委員長タイプというには敵が多かったが、ハキハキと仕切る様は小学校だろうが中学校だろうが注目の的だった。
「ペンを持ってくる」
恵はそう言い残すと、節電の影響で薄暗い廊下の奥に向かう。ツヅリはロビーのソファにどっかりと座り込んだ。自然と顔を上げた目線の先は、未だ学生が特司書の話を聞いている。特司書の制服も学生たちの制服も、この暑い中真っ黒であの地帯は鬱蒼としているな、とぼんやりと思った。
特司書の制服は男女とも一般企業のビジネスパーソンとほとんど変わりがない。どちらも男性は背広にネクタイ――――クールビズの影響で外している人がほとんど――――で、女性はスカートかキュロット。話をしている特司書は生足で涼しげだが、大抵はストッキングだ。
しかしなぜフォレストが黒いドレスに白いエプロンと、貴族時代の使用人――――俗に言うメイド服――――なのかというと、それはフォレストの起源が少々特殊だからである。フォレストは元々、貴族時代の貴族たちの本の独占が原点であり、それを管理していたのがハウスキーパー――――メイドの中でも長年仕えたメイド――――であった。この国最後の合法的なメイド服と、一部の人からは名高いらしいが、ツヅリからすればあんな服装は冬ならともかく、夏は暑苦しくて見ていられない。ちなみに制服の影響もあってか、女性求人率が非常に高く――――フォレストは全部で六カ所なので需要過多――――男手を必要とする男性求人は少々低いのがフォレスト求人の特徴らしい。何年も通っていれば、こんなどうでも良い情報がわかってしまうのだ。
「はい、これ」
どうでも良いことをつらつら思っていると、恵が油性ペンを持って帰ってきた。さらさらと裏に記名し、シンナーの臭いが鼻につく前に恵に投げて返した。が、急に投げてしまったため、恵は受け取ることが出来ず逆にはじいてしまう。ペンは恵から少々離れたところに落ちた。
「あ、悪い」
素直に謝罪すると、恵はツヅリをにらみつけながらもペンの元にしゃがみ込んだ。恵の手が伸びる前に、そのペンを自然に拾い上げたものが居た。恵が顔を上げると、先ほど特司書が話していた学校の学生服を着た少年が居た。顔立ちから中学生くらいか。少年はペンを恵に預けると、恵の横をすり抜けた。
「こんにちは」
「こんにちは」
挨拶したのは久しぶりだな、とツヅリは少年の一挙一足を見守った。少年の腕が伸びて、ツヅリの襟元を引っ張った。ぐいっと引き寄せられ、引っ張り上げられたツヅリは、少年を見下ろす格好になった。瞬間的に閉まったのどに、息が無理矢理吐き出された。
後ろで恵が顔を青くした。昨日の自分もあんなだったのだろうか、と現実逃避気味の思考になる。遠くで聞き慣れない叫び声が聞こえた。
少年の目はどうすればいいのか、と不安に揺れている。衝動に突き動かされるままに、動いてしまった少年は首をつかんだまま動く気配がない。少年の肩に掛かっていた鞄が滑り落ち、中身がぶちまけられた。見覚えのある雑誌――――人体版の特集をしていた――――に、ツヅリは視界がぶれる。
「何で……」
その少年の声はどちらに向けられたものか。ふと、何かがうずく気がした。あり得ないはずの声がかすかに聞こえる。
――――――――なぜ見ない――――――――
服をつかむ手に触れ、無理矢理指をほどいた。少年はツヅリから一歩下がると、恵が彼を乱暴につかんで引き離した。ツヅリの身体は後ろに倒れ、ソファに座り込む。教師の叫び声が近づいてくる。
――――――――君が好きだ――――――――
教えの庭:教育する所。学校。学園。学びの庭。
http://kotobank.jp/word/%E6%95%99%E3%81%88%E3%81%AE%E5%BA%AD コトバンクさんより