推し当て
「榊君、昨日彼は大丈夫だったかい?」
そう声をかけてきた綺麗な頭の直属の上司に、自分はなんと答えたのか全く覚えていない。恵は彼のブックカードを差し出し、彼のフォレスト入館禁止を解除するように改めてお願いした後、事務仕事に励んでいた。いすに座るのはなかなかつらいが、自分のせいだと思えば我慢も出来る。ずきずきとする痛みにコーヒーを飲むことでやり過ごしながら、昨日のことをかすかに思い出した。
「彼は……大丈夫かな……」
思わず口に出ていたことに驚き、口をふさぐ。幸い、誰にも聞かれていないようだ。肩が落ちるほどため息をはき出し、机に突っ伏す。
彼には悪いことをした。
いろいろあれなことをして、結局風呂を拝借したとき食卓に大量にある酒瓶が見えて何となく理由がわかった。さっさと汗を流して服を着て、客室に戻って処理をして彼を寝室に放り込んで。ブックカードはあれほどの展開を迎えたにもかかわらず、しっかり机の上に乗っていた。客室をきれいに片付けて立つ鳥跡を濁さず、部屋を出た。後は彼の記憶が問題だ。彼と酒を飲んだことはないから酒癖もわからない。私はいったいどうすればいいんだ。
「榊君、これ彼に渡しておいてくれ」
上司からブックカードが返される。と、傷が無くなりぴかぴかの新品になっているのに気づいた。
「あの、これ……」
「ああ、長年使っているせいかICカードの機能が落ちそうだったからね。交換させてもらったよ。後ろの名前は彼にまた書いてもらうよう言っておいて。ついでに変えたことと理由も」
ICカードが駄目になるくらい持ち歩いて、使っていたのか。そう思うと恵はさらに憂鬱になった。なぜか下腹部痛がさらに強まってきた気がする。受け取ったICカードはしっかりポケットに入れ、恵はトイレに行くことにした。
目の前の自分はだいぶ隈が濃く、しかも化粧で隠し切れていなかった。朝はいろいろふさぎ込んで忙しく、何もかも適当にすませてしまった。そういえば家のクーラーはしっかり消しておいただろうか? 化粧道具を取り出し、コンシーラーをせっせと塗り込む。ああ、ニキビが一晩のうちに増えた気がする。それもせっせと塗り込み、ファンデーションで蓋をした。休憩時間は後数分ほどだからアイメイクに回す時間はないだろう。眉毛を適度に整え、汗で崩れた部分を直す。ようやくまともになった。やはり化粧は女性の利器だ。最後にグロスを唇に入れ、思わず指で触ってしまう。ようやくなじんだ感じだが、家に帰って通勤前に化粧をしたときは腫れていて、濃い口紅を塗ってきたのだ。腫れたと言っても、ちょっとふくらんだ程度だったか。いい大人なのに、何をそこまでやったんだ、と改めて正気に戻って沈没した。
「彼に会いづらいな……」
元々彼とは催促する側と催促される側という関係だ。一見借金した人を追い回すやくざのような立ち位置だが、これはあながち間違っていない。借金した人とやくざの間に恐怖と契約と怒り以上のものがあるわけはなく、恋愛感情が芽生えるなんて恋愛小説ですら失笑ものだ。今時ベタな設定に、だ。彼は昨日のように、思いを抱いている相手が居て、自分はそんな彼に片思いをしている。それだけだ。
ひゅるっと、のどがしまった。改めて昨日を頭の中に再現すると、自分のばからしさと空回りに思わず涙を流したくなる。何を必死に、と突っ走る自分を羽交い締めにでもして止めてやりたい。
「押川君……」
記名されていないブックカードを握りしめ、鏡に手をつく。曇り一つ無く磨き上げられた鏡に、ずるずると下に落ちた手の跡がべたりと残された。
「……、うーん」
身体はだるくて仕方がない。なんか様々なところが記憶と食い違っていて、なぜだろう、嫌な想像と結論しか出ない。が、自分に限ってそんなはずはない。というかあり得ない。
酒も抜けた、と自分が信じたい正午頃、風呂に入った。その矢先である。服を脱いでシャワーを浴びてぼおっと出て、首にある赤いものが目についた。
「……」
ぼりぼりとかいたが、かゆくはないから虫さされではない。とすれば結論は一つだが、それではいろいろつじつまが合わない。
「昨日……俺何してたんだ?」
心からそう思うしかない。防犯カメラを設置していたらまた変わっただろうが、そもそも独り身の家にそんなことしても無意味でしかない。推論では出ている、そう。
「昨日誰か抱いたのかね……」
にしてもデリヘルは風俗上犯罪だし、電話番号を知らないから酔った弾みで、も無理だろう。居酒屋の帰りならお持ち帰りという案もあったが、いかんせん宅飲みではお持ち帰りも何もない。まさか外に出てわざわざ誰か引っかけて連れてきて、という三重苦を犯したのか。しかもお金を払った記憶もないし、財布の中身も減ってない。金庫の番号の中には通帳だけで、後に残高を確認したところ使用された形跡もない。自分に痕跡はあるのに、周りに痕跡がないため確定できない。遠回しの示唆をされているようで、ツヅリは気持ち悪さと酒酔いに吐きそうだった。
「本気でなんなんだ……ブックカードもないし……」
ボタンをぷつぷつと止め、山と積まれた洗濯物の中からズボンを取りだして酒瓶を片付ける。昨日まではあれほどおいしくて楽しいと思っていた液体が、今は悪魔か魔王かにしか見えなかった。
「…………あ――――――――――――!」
頭をかきむしって瓶を放置したまま、玄関に走る。もう無くしたブックカードはがたがた言っても仕方ない。再発行は手間がかかるし、身分証明が必要だし、申請期間あるしでもううんざりだが、自分の責任は自分で取るのだ!
「ん?」
あれ、この単語、なんだか聞き覚えが……って、昨日の昼のことか。
「昨晩じゃないのかよ……、あれ、昨日誰か……」
来たような。
頭をかいて酒瓶のラベルを眺める。ラベルに描かれたろうそくと、揺れる白煙をじっと眺めても答えは出なかった。
「……。まぁでるか」
時間は13時過ぎ。今日は全体的に曇りで蒸し暑いらしい。直射日光がない分、帽子を被らなくてすむ。実際は紫外線がどうのとか言うが、髪の毛がどうなろうとツヅリの知ったことではない。……髪の毛?
「…………髪の毛、髪の毛」
髪の毛が無くなったら困るのは自分、だな。
訳のわからない結論に落ち、ツヅリは頭を振って家を出た。曇りに覆われた天気でも、蝉が輪唱する鳴き声がよく聞こえた。
推し当て:当て推量。推測。
http://kotobank.jp/word/%E6%8E%A8%E3%81%97%E5%BD%93%E3%81%A6 コトバンクさんより