押し売り
「今日も暑いな……」
35度を超える猛暑日。アスファルトに覆われた地面にたまる空気は陽炎に揺れ、花は疲れ切ったようにしおれている。等間隔に植えられている木下には、ランニングの避暑や、子どもを待つ母親などが集い、満員御礼状態である。視界に見えるフォレストの建物が、とんでもなく遠くに見えて、ツヅリは熱のこもったため息をついた。
つばの広いハットを被り、長袖のシャツを肘近くまでまくり上げた。肌がじりじりと焦げる。帽子は嫌いだが、日傘はもっと嫌いだ。日傘は屋内に入ればじゃまになるし、女のようでみっともない気がする。帽子は髪の中に汗がたまるし、髪がぐしゃぐしゃになるから嫌いだが、日傘の比ではない。
「ふぅ……」
フォレストの扉を開ければ、ロビーが広がり、改札のような、いわゆるバリケードがある。最近ツヅリが引っかかっているのは、このバリケードである。今日は、いつもと違った。
フォレストはパプリックライブラリーの管轄である。グランドパブリックの手足は、パブリックライブラリーだけでなく、パブリックサイエンス、パブリックファイナンス等々、グランドシリーズはこのビルに何かしらのフロアを得ている。といっても、このビルはほとんどパブリックライブラリーの『フォレスト』で占められてはいるが。
「……」
ロビーにいたダークスーツの男が複数、こちらに向かって歩いてきた。暑さによるものではない冷や汗が、背中を伝う。まずい、逃げなければ。
後ろ手に外への扉を開け、ノブを下に落とす。がちゃりと音を立てて扉は開いたが……。
「押川ツヅリ様ですね」
扉は開けたが、逃げる前にツヅリを囲むように複数人が前に立った。実質上は扉の外に人がいるとは思えないから、逃げようと思えば、逃げられたかもしれない。だが彼は自分の体力や脚力をよく理解していた。
「……、何か」
「少々お時間、いただけますか?」
有無を言わさぬ質問だった。
白い清潔な部屋に、黒塗りのソファ。そこの上座に案内されたツヅリは出された冷茶を飲んでいた。
フォレストのロビーから10分ほど歩いた先の、グランドパブリックの管轄下の部屋。それなりの客をもてなすための高級感溢れる部屋だ。カーテンはきっちり閉め切られているが、白いカーテンから漏れる自然の光は柔らかく暖かい。蛍光灯は要らないな、とすすりながら上を向いた。
現実逃避しているのは理解している。だが、そもそも話の内容は考えるまでもなく、いいえ、である。
「失礼します」
率先してツヅリに近づいた、先のダークスーツの男がぺこりと頭を下げた。細長く影のように黒い男は、ツヅリの前にゆっくりと座った。続いて黒いジャケットの女がダークスーツの男の前に冷茶を置いた。
「お久しぶりです、押川様。1年ぶりですか?」
「そう、かもですね」
実質初対面だと思ったのだが、会っていたらしい。その事実にいたたまれなさを感じ、冷茶をすすることにした。ずずずといわゆる品のない音が、沈黙をある程度打ち消す。
「押川様。近頃身辺はいかがでしたか?」
「変わりはないです」
「そうですか。それは何よりです。……申し上げにくいのですが、ご両親の、ご容態は?」
「……、そちらも、変わりはないです」
冷茶が切れた。追加を入れようとした矢先、男が率先して茶を入れる。それに小さく会釈し、ツヅリは茶をすする。
「……、そういえば使いの者が何回か追い返されたそうですね。不快な思いをさせて申し訳ございません。断られた時点で、別の使いを寄越すべきでしたが……」
「いえ、そちらは関係ありません。元から別の使いを寄越されても、来る気はありませんでした」
きっぱりと断ると、男はこめかみをもんだ。しばらくうなると、身体を前に倒しツヅリを見上げるようにのぞき込む。男が今かと本題を出しそうな雰囲気に、ツヅリは警戒心を隠さず見据えた。
「サイス……パブリックサイエンスから要請がきております。受ける気はありませんか?」
「俺はもう、研究には戻りません」
「待遇はいかようにも」
「研究をする気がないんです。研究をしないなら、籍を置いても仕方がない。名簿の欄の無駄です」
怒濤の攻め込みに、ツヅリは冷たく突っぱねる。もっときつくても良いかもしれない、と思うほど、男はためらう姿勢を見せず勧誘を続ける。
「籍を置くことは、将来あなたの実績を簡単に証明することが可能ですし、それは世界でのあなたの名声の向上につながるはずです」
「名声はもう良いです。十分すぎるほど受け取りました。もう静かにしていたいんです」
二杯目の冷茶がつきた。人とこんなに会話するのは久しぶりだ。恵との会話はいつも恵が一方的に話しかけてくる形式なので、ツヅリは必要最小限の返事のみだ。しかも無視という返事も多い。無視が返事かどうかはさておくとして。先日の恵との会話だって、ここ最近を見れば多く会話した方だ。
三杯目のお茶を男はつがなかった。なら自分が、と手をのばしたところ、急須の重みがない。なるほど、男はこれを知っていたのか。嫌なやつ、と男と視線を合わせると、男の熱のこもった目がツヅリをばっちりと見据える。男は昨日の恵のような嫌らしい笑みを浮かべながら、こう告げた。
「あなたは発明の責任を取らなければいけないのでは?」
湯飲みを持つ手がゆるみかけた。ぶるりと冷房に震えたツヅリは、男から目を逸らした。視線の先は男の薄い唇だ。細長く、大きな口が彼に追い打ちをかける。
「あなたは自ら引きこもり、隠居をすることで責任を取ろうとしているのかもしれませんが、それはあなたの自己満足です。本当の責任とは、あなたの場合、本にしてしまった人間を元に戻すこと」
そう、ツヅリは未だ、人間を本に閉じこめる手段を作り出してしまったままで止まり、人間としての時間に戻すことを発明していない。
「あなたはもしかしたらその発明を、自らの家で行っているのかもしれませんが、機械が不備です。いつまでたっても完成することはないでしょう。あなたの本当の望みは、研究所に来て整備された機材で実験を行い、生への喚起を発明することです」
勝手なことを抜かしやがって。
そう心は思っているが、頭の冷えた部分はそれを当然のように受け止めていた。そうだ、確かに元に戻す方法を模索してはいる。しかし、そもそも本にしてしまった現象ですら、まぐれ当たりの奇跡。もう二度と無いと自分ですら思ったこと。まさか、同じ奇跡が、しかも億分の一と呼ばれるほどの奇跡が、再び自分に訪れるわけはない。なら地道に、整えられた環境で努力を重ね、戻す発明をするべき。そう唯一冷静に働く頭はそう計算する。しかし心はそれに添えない。
二度と研究したくないと、二度と本の分野には戻りたくないと、二度と、その象徴であるここに来たくないと。
「……」
がしゃんと遠くに音が聞こえた。気づけば視界が狭まり、暗くなっている。続いて吐き気が引き起こされた。ぐっと手で押さえれば、のどに逆流しかけたすっぱみが残っていた。
「大丈夫ですか?」
いけしゃあしゃあと。
立ち上がれた。ぱりんとスリッパが何かを踏む。異物感に足を上げれば、スリッパの裏に粉々になったガラスがあった。少し視界が晴れれば、それが先ほど自分が飲んでいた花の飾りが入った高そうな湯飲みであることも、男の顔がどこか心配そうにゆがめられているのもわかった。
「……」
ふらりと入り口に近づくと、時機を計ったかのように扉が開き、恵が入ってきた。
「だ、大丈夫……ですか?」
男がいるのがわかり、すぐさま敬語に直す恵に、男は疲れたような声を出した。相変わらずツヅリの身体は揺れ、恵の横を通り過ぎようとしたときに肩にぶつかり、はねとばされて扉にぶつかった。
「押川様をご自宅まで送って差し上げて。お辛いようなら、別室を用意するように」
男はてきぱきと恵に指示を出すと、割れているガラスを拾い上げた。それは格下の恵の仕事だったが、やるべきことを混合するつもりはない。あとで応援を頼もうと誓い、恵はツヅリの背を支えた。いつもなら振り払われてもおかしくないが、それはなく、逆に恵によりかかるように入り口へと向かった。屋内にいたのだから熱中症はないだろうし、おそらく精神的な問題だろう。恵はそう結論づけ、常に職員用に待機してある入り口のタクシーにツヅリを押し込んだ。
フォレストから押川邸までは車で数分ほど、徒歩にして10分過ぎだ。タクシーにはタクシー券で精算し、肩を貸してやりながら玄関まで彼と連れる。ツヅリは鍵をまさぐりながら、しかし手を恵から離した。先は真っ青だった顔はようやくましになっている。ツヅリは恵に小さく礼をし、鍵を開けてはいる。恵も跡を追おうとしたが、入ってくるなと言うばかりに鼻先でぴしゃりと扉を閉められた。
押し売り:①強引に売りつけること。また,その人。
②無理じいすること。
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