教え
『科学論文』を返却する帰り道、フォレストのロビーで会いたくない人物にツヅリは会ってしまった。季節は十一月。読書の秋にしてはそろそろ肌寒くなってくるころ。それでもキュロットスカートにストッキングと、少し目に寒い格好で歩いているのは、目の上のたんこぶ以上に煙たがっている、榊恵であった。
「こんにちは。君は相変わらず目の間のしわが取れないな、彼女が出来てもそれとは。彼女の行く末が心配だ」
「お前に心配されなくとも……」
「彼女は人体版について本でも出すのか? そういう噂が立っているが」
確かに、彼女が体験したことは、普通の二十代の人間にしては奇特な体験だ。小説家として本が出版されることを夢見る彼女にとっては、この奇特な体験を是非生かした話を書いてもらいたいものだが。
「いつか書くが、ドキュメンタリー仕立てにはしたくないと」
「ああ。犯罪者でもかけるしな、そういうのは。あれでは彼女の文才が殺されてしまいそうだから正しいな。彼女の話は面白い」
妙に気にかかる発言に、ツヅリは今更ながらに聞いてみることにした。
「彼女の作品を読んだことあるのか?」
「と言うか、もらったことがある、昔」
「もらったぁ!?」
自分でもそんなことは一度もなかったのに、よりにもよって恵が! 自分より一歩先んじられたようなその衝撃的な話に、ツヅリは口をあんぐり開けた。恵は愕然としているツヅリを見て、ちょっと意味合いが違うな、と訂正を入れた。
「彼女が自主的にくれた訳じゃなくて、私がいつか前所望したんだ。それに君も、話は知っていると思うが」
「はぁ?」
「きっかけは、小説によくある叙情的な文章を書いてみようとか、創作意欲をわかせようという、中一秋の授業だ。ほら、小説書いただろう」
そういえばそんなことが。ツヅリも書いたがいかんせん、黒歴史に近いような代物だ。後々両親がスクラップしたのを見て、こんなものまでとっておいてくれたのかという感動と、こんな恥ずかしい文章をクラスで回し読みしたのかという苦しみのダブルパンチでうちひしがれていた。
「そのとき彼女はちょっとした推理ものを書いていてな。と言っても、温泉湯巡りレベルではなくクラスのなくしもの規模の小説だったが」
確か原稿用紙10枚以上という制限付きで書いたが、鳴子曰くうまくまとめられなくて40枚以上になりそうなこと。それで結局時間が足りないのとアイデアつきて、ちょっぴり尻切れトンボで終わってしまった。と言っても、ちょっとした伏線の回収ともう一つのどんでん返しを削っただけ、とのことだが。
「彼女の小説を読んだのはそこが初めてで、あそこまで大見得切ったのだからと興味津々で読んで続きが気になってな。ほら、あれちょっと伏線残ってただろう。だから本人様に聞いたら、今度書くね、と笑顔で約束されてな」
熱心に所望した恵はあぐらをかいた作家様に筆を執らせる衝動に駆り立たせ、それから一ヶ月後に手渡されたらしい。
「この時期になるとその小説が読みたくなってな。決して彼女が有名になったら売り払おうとか、そんなことは考えてないから心配いらない」
「それって……。それって……」
どれの話だ?
そう絞り出したように言ったツヅリに、恵は呆れたように首を振った。
「そうか。君は日常のようにそれを繰り返していたな。いちいち覚えていないのも無理はないな」
「悪い、気になるから寄越せ。いや、貸してくれ」
「腰低いな。まあ、ファイルから出してやるから、後で彼女の前編の原本を貸してくれ」
「断る」
「君は結構わがままだな」
問答の末、前編は彼女が残していたらお互いに貸しあうという約束で終わった。ひとまず彼女の小説については。一番問題なのは恵との関係だが。
「君のことだから何かしら手を打つと思っているのだが、いったい何するつもりだい」
「……。いや、本当に子どもが出来ていたらどうしようかと」
「あ、ああ。そういえばそこで止まっているのか。ここで話すのも何だが、あの日は何もないぞ」
あの日、いろいろ心当たりがあるが恵が言及するのだからハッキング事件より一夜事件だろう。ツヅリは勝手に7・25事件と名付けているが。
「何が何もない、だ。何かしかなかっただろう」
「何何と抽象的会話だが、少なくとも、うん。君に抱きついたりしただけだ。比喩的な意味ではなく本当の意味で」
恵はそこで言葉を切ると、あまり言いたくないがな、と前置きした。
「セックスとかはしてないぞ。私が帰った後に呼んだなら、話はまた変わるが」
「はあ!? じゃあ何であんな意味ありげに出て行ったんだ」
「意味ありげ、何の話だ」
「意味ありげは意味ありげだ! まるで恐喝するようにっ」
「……。あ、あ、ああ……そうだったかも、しれない」
「ほら見ろ!」
「と言うか、場所変えて良いか?」
至極常識的な恵の提案に、ツヅリは改めてロビーでとんでもない話をしているのに気づいた。司書や子ども連れの母親が形容しがたい顔でこちらを見つめていた。
「男の君にはちょっと伝わりづらいかもしれないが。あのとき腹が痛かったんだ。ものすごく。後気持ち悪かった。薬飲んでなかったからな」
「……。やっぱり」
やっぱりそうなのかよ、と突っ伏している。おかしい。何で彼はそんな反応をしているのだ。近くにある騒がしい喫茶店に場所を移し、改めて話を始めるとこうだ。いったい彼は何に今泣きそうな顔をしているのだろう。
「君はどうしてそんな顔をして居るんだ」
「結局、直接的に言うと、君を妊娠させてしまったってことだろう」
「おい、それは遠回しの嫌みか。私の腹がそんなにふくれて見えると、そういいたいのか」
「君は何言っているんだい」
「君がだ」
話がかみ合ってない。ここに彼女でも居れば、と思うが絶対に彼は呼ばないだろう。こういうのは女を仲介役にすればわかりやすく説明できるのではないか、と恵は思うが。
「あの日は私が君の世話で忙しかったのだ。ちょうど時期が悪くてな」
「……。だから妊し」
「だから。私は妊娠してない。そこまで腹がふくれていない」
「別に腹は最初はふくれないんだろう」
「何で君の保健体育知識はこうも中途半端なんだ。君は一度保健体育の教科書(高校版)をしっかり読んでくれ」
中学生の保健体育は少々削っているところもあるから高校版はおすすめする。写真付きで性交渉までその年頃の学生にしては少々グロテスクに詳細がある。
「読んだが、いまいち覚えてない」
「是非買って保管してくれ、今後の彼女のためにも」
そこで恵は一つ咳払いを入れた。これはいろいろ彼の知識不足があるのだろう。確かに彼は高校に行っていないからそこら辺の詳細説明は聞かされてないだろうし、恵も大学時代につきあった人間はいたが妊娠まではしていない。しかし多少はドラマからも察することが出来るだろう、と言いかけて、彼はドラマどころかテレビすらろくに見てないだろうという結論に行き当たった。
「君の言う気持ち悪いって言うのはつわりでね、だいたい妊娠初期、一ヶ月過ぎてから出る。さすがに君とあれこれしてそういう結果になったとしても、明日には出ない。そんな人類の神秘は私にはない」
「へぇ」
「ふくれるのはどうこう言いたくないが、まあ三ヶ月過ぎてからだろう、もうそろそろだが。と言うか私は妊娠していない」
「さっき君は痛いとか気持ち悪いとかいっていたじゃないか。妊娠じゃないのか」
「本当に知識が偏っているな。確かにそれもつわりの現象だが、そうすると私には夫がいるのに君と不貞を働いた云々になる」
「そうだな。俺じゃ時期が遅いってことになるしな」
「そうだ。……、そうか、君はあまりそっちの話はされなかっただろうしな」
妊娠はある程度男と関わりがあるから保健体育でも話されることだが、恵のあの症状はもちろん違う。相手など居ない。
「私はあのとき月のものだったんだ」
「ツキ……」
「……。わかった、もう包むのはやめよう。生理だった。これで良いか?」
不審そうに見つめられ、これは結構末期だな、と改めて思った。学校教育はここまで大事だったとは。自分に子どもが出来た暁には不良でも義務教育は終了させようと心に誓った。
「病気と認定されるほどひどくないが、それでも同年代にしてはちょっとつらい方でね。いつも薬で抑えてたんだ。CMでもあるだろう、生理痛専用の、痛んだら? コーラルぅーっ。て最近人気のアイドルが叫んでるあれ」
「ああ、あれ……」
「そう、あれ。二日目だ。だから君とは無理だ。もっとも、生理中でもセックスをするカップルもいるみたいだからそれだけの否定はしないが。そもそも私が否定しているのだから、君がこだわることもない。あの日は別に月のものが来ようが来なかろうが、酒に酔っている君をわざわざ誘うほど悪女でもない」
君に彼女が居たのは知っていたんだから、と締めくくった恵に、ツヅリは黙り込んだ。無言の彼に何か声をかけようとも思ったのだが、彼が非常に真面目な顔でコーヒーをかき混ぜているのを見て、とりあえずもう少し黙っていることにした。
カチャンとソーサーにスプーンが置かれた。二個目のシュガーを投入すると、彼は再びかき混ぜた。もう三分の一ほどまでに減ったコーヒーにシュガーを入れるという行為は、ブラック党の恵からすれば暴挙に等しかったが、彼はほとんど機械的にこなした。
「つまり、君と同衾することはなかったと」
「そうだな。せいぜい君に抱きついただけさ。跡もそのときかな、彼女に悪いだろう」
彼がため息をついた。どうやら彼には変な勘違いをさせてしまったらしい。確かにあのときは本当に気持ちが悪かったし腹痛もひどかった。彼の態度をいちいち観察する気力はなかったから、彼の暴走を止められなかったのはほんの少しだけ、責任があるのではと恵は思った。と言っても、彼の知識のなさも少しは攻められてしかるべきだとは主張したい。あときついものはきついのだ。隠して振る舞うのが社会人であるが。
「わかった。ごめん」
「はぁ」
ツヅリに謝られ、恵は曖昧な返答をする。彼が謝ることは今まで無かったので、なじみがなかったからだ。
「なんか君には割と失礼なことをいった気がする」
「まぁ、少し、な。許せるし、許すつもりだよ」
「あと、君が俺のこと好きだとは思わなかった」
「だろうな」
好意で接しても、彼からすれば鳴子以外の行為はそれほど目にとまることはなかっただろう。しかも彼とは最初の受けが悪かった。人間、初対面が悪いと後々ついて回るのだ。これは人生上の証明だ。
「でも、別に君のこと、最初はそんなにすきじゃなかったけど、まあ…………良い友達だとは、思えると、思う」
恵を伺うようにいったのは、気を遣っているのだろう。今までそんなこと一回も言われたこと無かったし、気遣われたこともほとんど無かった。現金だが、思わず心が温まる。恵は苦笑し――――しかし言われたことはなかなか刺さる――――少し残ったコーヒーをすする。彼も自分のコーヒーを飲んで、そこでまずそうに顔をゆがめたのはシュガーの量だろう。ほぼ同時に立ち上がると、彼は当然のように伝票をとって確認した。
「君が払うのかい?」
「君にはいろいろ迷惑かけたからね」
割り勘でも良いけどさ、と平気で言ってのけても、結局はぽんと現金を出して払ってしまう。しがない特司書一人の給料と彼が一生に稼いだ特許等のお金では消費できる気軽さが違う。
ちりんちりんというベルの涼やかな音、店員の、ありがとうございました、と言う明るい声を背に、喫茶店の前で向かい合った。
「君も、これからはちゃんと丁寧に、注意されることなくフォレストを使ってくれよ」
「努力するよ」
冗談交じりで笑うと、ツヅリは改めて恵を見た。引きこもっていた彼を連れ出そうと、恵がやってきた時に迎えられた目とは違う、鳴子のような、温かい目。黒くて明るい、子どものような目。
「今度は、プライベートで遊びに来なよ」
鳴子の小説はそのときに。
そう言い残すと、じゃあね、と手を振って住宅街へ歩く。フォレスト、人体版、天才発明家、と彼を目立たせる――――悪く言えば孤立させる――――要素がふんだんにちりばめられた街を、彼は平気で歩いている。いつもは顔を隠すような帽子を被っているのに、それもなく。何十年と店を広げている床屋のおじさんやここ数年開けたようなスーパーの店員が彼を見ても、彼は何も反応しない。
彼はようやく、外に出られるようになったのだ。
教え:1 教えること。教育。
2 教える事柄・内容。教訓。戒め。
3 宗教の教えるところ。教義。
http://kotobank.jp/word/%E6%95%99%E3%81%88 コトバンクさんより




