押しかけ
肋骨が一本、完全に折れていたらしい。折れた、なんて単語を聞いたのは生まれて初めてで、引きこもり続けて半生、もやし人間には大けがと思っていたのだが、担当医の心配事は内臓を傷つけなかった肋骨の骨折よりも殴られた際に打ち付けた側頭部らしい。CTスキャンを撮ってようやく異常はないと判断され、担当医は自分から離れた。
しばらくの間は担当医が誰も部屋に入れない、いわゆる面会謝絶の状態であったらしいが、もう良いですよ、とにこりと笑った担当医の笑顔を最後に、ここを訪れる人間は誰もいない。個室の部屋をあてがわれたため、病人の談笑や看護師の声かけも壁の向こうだ。一枚挟めば、自分になじみのある会話も別物だ。ほとんど音の届かない病室で、押川ツヅリは本を読んでいた。
差し入れと言うことで、これも担当医が持ってきてくれた雑誌である。しかしわがままを言ってはいけないのはわかるが、定期購読中の『科学論文』ではなく、『週刊工科』だったのはどうも、こう……。
「惜しい、惜しいよ先生」
週刊工科を置き、剣葉賞を取った小説が全文掲載、と言う文字が踊る新春文藝を手に取る。あまり好きではないダークの雰囲気を押し出した、人間描写の小説であるが、読んでいくうちにどんどんはまっていく。やはり自分も相当小説に毒されて居るんだなと思う。最後に小説を読んだのはいつだったか。彼女が本になってからも新春文藝は時々読んで、そのたび彼女を思い出してやめてを繰り返して、完読できた試しはない。
気づけば同じ部分で止まってしまったようだ。もう暫くは目を通す気にはなれなかった。結局10ページ読んだだけで雑誌を脇に除け、積み上げる。暇をもてあまさないようにと持ってきた雑誌はどれも的外れで、的に刺さったものは全部読破してしまった。カーテンを少し開けると、強い緑が目に入った。コの字型の病院は、緑がそれほどあるわけではなく、その少ない緑が自分の目の前にあることは幸運だろう。風に揺れる動きを只見詰め続けて。
自分の扉の前で止まった足音には気づかなかった。
がらりと引き戸を開く音。珍客か、と珍しく振り返ったツヅリは、そこに立つ少女の姿に絶句した。
ポニーテールの髪は今はサイドに結ばれ、あのときと違い可愛らしい髪飾りがついている。黒髪は若々しくつややかで、肌は健康的な温かい白。セーラー服を身にまとっていたその身体は今は、うすオレンジのワンピースに包まれている。パンプスは恵とは違い、ヒールが低いサンダルのようなものだった。
ツヅリは口を開かない。ようやく絶句から立ち直ったが、口を開いては閉じるばかりでなにも言えない。出してしまったら、消えてしまいそうな。月並みに言えば、夢のような出来事で、信じられない。夢かもしれない。頬をつねれば痛みが直に伝わる。それでも夢と思わずには居られない。彼女は動けない、彼女はこうして自分の前に立つことはない、微笑むことも、人間のように振る舞うことも、あそこから抜け出すことも出来ない。
「お久しぶり。会いたかった」
十年ぶりの声は、予想以上に高かった。女子にも多少の声変わりがあるらしいのだが、予想以上の高い声にツヅリはなおさら間違えではないかとさえ思う。
「ツヅリ?」
「どうして……」
彼女――――輿石鳴子は微笑んだ。
「年取ったね、と言うか、ちょっとは外出るようになった?」
気がつけばベッドの上から滑り降り、彼女に駆け寄る。腰にある両手をつかめば、それは華奢な、しかししっかりとした実態を持って存在している。ぐっとつかむと、彼女は痛いだろうに文句を言わずにただ受け入れている。彼女は腕を捕まれたまま、手を引き寄せる。前のめりになったツヅリは、彼女が自らの手ごと自分の頬にすり寄せている姿が大きく映った。甘える猫のような行為は、まるで恋人のようで。
「私が暴走した結果、大変だったみたいだね。ごめん。あなたに、多くの迷惑をかけてしまった」
そういう彼女が一番迷惑をかけられたはずなのに。彼女はなぜそんなことがいえるのか。
「ごめんなさい」
ぎゅっと柔らかい感触がする。そこで初めて、彼女が自分の手ごと唇を寄せているのがわかった。ついばむ仕草に、ツヅリはなにも言えない。彼女の閉じられた目から一筋の涙が流れ、手に落ちる。生暖かいそれは、彼女が本当に生きていることがよくわかって。
「……」
彼女を引き寄せ抱きしめた。暖かい。今年の照りつけるようなギンギラの熱も、暖房のような人工に作り出された熱も、人間のものとは違う。ものでは作り出せない暖かさは、彼女が帰ってきた証で。
「ごめん、ごめん。今まで、ずっと君を、ずっと君を……」
何で彼女がここにいるのかわからない、夢だとしてももう構わない。ただ、これだけいえる。ずっと彼女を一人にし、閉じこめ、モルモットのように扱わせた罪は二度と贖うことは出来ない。
「でも、あなたの発明品はまだまだ爪があまかったみたいだね」
似つかわしくないからからかうような声に、ツヅリは顔を上げた。微妙にゆがむ笑みを浮かべた彼女の話は、人体版のことを指しているようだ。
「ツヅリの発明品は、永遠に本に閉じこめる、にしてはあまりにも短かったね」
短かった。どういうことだろうか。
「あなたの発明品は、本を開けば開くほど、人体版の人間を封じ込めるチップの強制力は薄くなっていく。で、毎日定期的に開かれている私は、十年足らずで人体版として解放された」
まるで他人事のように言う彼女。それが本当なら、彼女はあのとき、はじめての人体版の被験者になった輿石鳴子そのものだ。青春期の少女の十年は特別だ。もっとも人格形成に大事で、教育上重要とされている中学、高校、大学で消費されるはずの、十代の十年を奪われた。そのことに絶望や怒りを抱いても、まるで悟ったようにしている彼女がよくわからない。
自分の十年は本当にあっという間だった。人体版を発明してから数年は怒濤のゴシップや追っかけ、罪の呵責に潰され、環境の変化に追いつくのが精一杯で。残りは彼女を元に戻すための治療をするために費やした。本当にあっという間だった。
「どうして、君はそう平気なの。まるで大人みたいに。俺のこと、怒って、文句言って、詰って良いのに。君は何で……」
彼女を確かめるために、強く抱きしめる。彼女はようやく抜け出した右手を、ツヅリの後頭部に置く。後頭部を押され、ツヅリの首が前に傾く。彼女のつま先が伸びて、唇が触れた。一瞬の出来事。離れた彼女はもう一度、ツヅリと唇を重ねる。
「ツヅリのことが、大好きだからだよ」
彼女はそう平然と言った。恥ずかしがることもなく、にこやかに。夢という逃げ道を潰すように二度キスをした彼女は、きっぱりと言った。
「愛しているから、ツヅリが私のせいで傷ついて、つらい人生を送るかと思ったら、本当につらかった。本の時も、意識がない訳じゃなかった。あの瞬間から、君が慌てる声がして、怒濤のような勢いでフォレストの展示が決まって、それからもずっと音のない世界を生き続けていた。鳥の鳴き声が時折聞こえて、足音が聞こえて。そして、君の声が聞こえた。しょっちゅう司書と喧嘩していた、君の声。フォレストの中でも、君の声はずっと聞こえてたよ。だから、寂しくはなかった。君が、私以上の思いをしているのに、私はこうして幸せでいいのかなって」
「幸せじゃない、幸せじゃ。楽しいと言っていた中学校も卒業させてあげられなかった。行きたがっていた高校も、ましてや大学だって。大事な十年を潰して、君より僕がつらいなんて、そんなことあるわけ無い。君は、何でそんなに……」
彼女の手がツヅリの背中に回った。ぎゅっと胸が閉まったツヅリは、彼女を見下ろす。目があった。
「お返事は?」
「え」
「お返事。さっきの。愛してる、の」
「え」
間抜けな声を出したツヅリに、もう一度鳴子は、愛している、と言った。
「でも、俺は君を」
「君がきっと、私のことに罪悪感を抱くのはしょうがないし、やめてとは思わない。だから、ね、これから、君と一緒に居られなかった十年より多くの時間を、一緒に、居たいな、なんて……」
真っ赤に顔を染めた彼女は、もう一度押すかのように言った。
「無くした十年分の、それ以上に、あなたに、愛して欲しい、って、思っちゃ、駄目ですか……?」
涙をためながら、身体を震わせながら鳴子が言った。血の気が無くなるほど捕まれた右手を優しく持ち、唇まで持って行った。彼女の顔は火を噴きそうなほど赤く、ここまで女の子に言わせるのは男としてどうだろうと彼は思った。
「嫌じゃなければ、ずっと俺と、一緒にいてください」
「愛して、る?」
「君と会った時から、ずっと、愛してる」
そこで彼女は、ようやく安心したように、花がふくらむ笑みを浮かべた。
押し掛け、押掛け:おしかけること。
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