押し切る
長い黒髪の少女の右手には包帯が巻かれていた。それを取るよう指示されたツヅリは、相手を刺激しないように慎重に、丁寧に包帯を取る。するすると、傷口に張り付くこともなく滑り落ちた包帯のしたから、赤い一本の切り傷があった。傷口は1センチほどの短い傷で、刃物で付けられたものであろう。そしてその傷口にへばりつくように、忌まわしい黒いチップがあった。チップにさわろうとした瞬間、隣でそれを見ていた男がツヅリの手をつかんだ。
「それを外してくれ!」
せっぱ詰まったように言う男に、ツヅリは無言だ。というか何を言って良いのか、彼はとまどっていた。いきなり誘拐まがいのことをされたかと思えば、自分の目隠しを外してみせられたのは、人体版の少女。てっきり身代金関係かと思えば――――そもそも身代金を運ぶ人の当てがないが――――要求されたのはツヅリをだしにした金でもなく、ツヅリ本人の技術と知識だった。
少女のチップに触ろうかとも考えたが、誘拐をするほどせっぱ詰まった男にその行為は危険かと思った。男はツヅリのその様子を見て、お願いします、と頭を下げた。誘拐という行為から全く考えられないほどの礼儀正しい男に、ツヅリは何も言うことが出来なかった。
しかし自分がとんでもないことをしでかした、ということはわかっていたのか、男はツヅリと少女を見守りながら、スタンガンをちらつかせた。男をここまで駆り立てたと言うことは、この少女は男の娘か。ツヅリがそんなことを考えながら、とりあえず振りだけで少女を見た。はっきり言って研究所でもないただの地下室で、ツヅリが出来ることなど限られている。ただでさえ人体版の被験者を元の人間に戻すことは、現在もっとも盛んに進められている研究で、作り出したツヅリでさえまだ戻すことは出来ない。研究所で日夜進められている研究が、よりにもよって機材がろくにない地下室で可能になるなんて、誰も考えやしないだろう。もちろん、ツヅリもそう思っている。
ツヅリがどうやってここから逃げだそうか、目的は何か、どのくらい閉じこめられるか、を考えている最中に、地下室の扉をたたく音が聞こえた。近くにいた男が扉を開けると、男と違ってやけにがっしりした、ツヅリでもわかるくらい身体を鍛えたような大男が入ってきた。地下室は意外に広い。奥のベッドに座らされている少女を見ているツヅリからは、入口の声が聞こえない。かすかに漏れ聞こえる言葉の断片を追っても、意味のわからない会話である。
結局男は何か食い下がっていたようだが、大男に突き飛ばされるような形で追い出された。なにやらとんでもなく嫌な予感がする。不穏な気配を殺さずまとったまま、男が近づいた。
「……」
「……」
無言で見つめ合う。怖くて仕方ない。何されるのか、誘拐された先でされることなんてリンチ、監禁くらいしかツヅリの少ない発想力では浮かばない。だがどれにしてもろくでもないことなのは確かだ。男がツヅリの腕をつかみ、立たせた。ごくりと自然にのどが鳴ったツヅリは、男に顔を近づけられ、次の瞬間思いっきり殴られた。近くにあった壁に側頭部をぶつけた彼は、一気に意識がもうろうとした状態に落とされた。くらくらと、どこか宙で星が飛んでいる。痛む頬をおっかなびっくり触れば、もう腫れ上がっていた。何とか壁に手をつき、立ち上がろうとしたが、視界に男の足が入った瞬間、足の力ががくりと抜けた。ずるずると滑りながら座り込み、第二波を避けようと頭をかばった。が、次に攻撃を受けたのは脇腹で、わかりやすいくらいに骨の折れる音が聞こえた。腹部を押さえると、男が首元をつかんで引っ張り上げた。あの少年と同じような状況と言うことに、ツヅリはふと思い出した。
「こいつを治せ」
そういって少女に向かい合わせると、少女の手を引っ張ってチップをツヅリの眼前に見せた。
「この子を治せ」
男の目には怒り、憎しみ、不快な感情など、あらゆる最悪の感情を混ぜ合わせたような瞳で、それはどれもツヅリに対して向けられていた。
「で、あ……」
でも、と言いかけた。しかしここで、でも出来ない、といったらどうなるか。まだ会話一つしていないツヅリにここまでの暴行をした男は、殺しをしかねない。ツヅリはそう思った。確かに自分が悪いかもしれない、でもいきなり殺されるのはごめんだった。
「や、ってみます」
やります、と言わなかったせいか、男は折れた脇腹に靴を食い込ませると、痛みに悲鳴を上げるツヅリを見下ろし、絶対にやれ、と念を押した。男はぼろぼろの彼を置き捨て、いらだちを扉にぶつけるように乱暴に出て行った。そのときになってやっと、この部屋の中に監視カメラがあることに気づいた。監視カメラはおそらくツヅリがこの少女に何かをするかもしれないことを事前に防止し、ツヅリの治療の過程を観察することも兼ねている。
「ってぇ……」
ずきずきと胸の周辺が痛む。息をするだけでつらい。いくらもやし男だと思っていても、骨ってあんなに簡単に折れるもんなんだな、とツヅリは独りごちた。やらなければいけない、少なくとも誰か助けが来るまでやっている振りをして、少なくない結果を出さなければいけない。ツヅリは少女の容態を見て、次に何が必要かを近くに置かれているメモに書き記した。
彼の失踪に気づいたのはやはりというか、当たり前というか、榊恵だった。元々恵の家路はツヅリの家のすぐ近く。彼の家を通れば3分ほどのロスは生じるが、3分を惜しむような生活は送っていない。恵は少し早い7時頃に家路についている時に、彼の家を通りかかって少し、首をかしげた。彼の家の明かりがついていないのだ。元々彼の家は部屋数の割に住人が圧倒的に少ないこともあり電気がついていない部屋が多いが、遠くに見える図書室は深夜過ぎまで電気がついている。彼の活動の拠点はもっぱらそこだと言っても良い。彼にいつの日か、一日の予定を聞いたことがあったが、彼の予定というのは一般人からすればニート、隠居人としか思えない予定であった。
「今日は早いな」
日中食事も図書室で取るほど離れない彼だが、今日はもう寝ているのか。彼にあったのは今日の午後2時頃。わずか5時間後に寝ているとは、と恵は不審に思った。ここで、隠居人はうらやましい、ときって捨てることも可能だったが、恵は何か胸騒ぎがし、呼び鈴を鳴らした。
「押川、押川君」
門は開いている。錠と言っても外から開けられる程度の錠だが、いつもちゃんと付けている彼にしては珍しい。胸騒ぎはますますひどくなる。門を開き、1メートルほど離れた家の扉をたたいた。ノブに手をかけて引けば、何の手応えもなく開いてしまった。ついているのは廊下と玄関の明かりのみ。奥の部屋に明かりはついていなかった。
「押川君」
扉を閉じ、急いで二階の図書室に向かった。二階すべてが図書室の扉を開くと、電気はおろか天窓からさし込む月の光さえなかった。そういえば、今日は新月だ。奥に向かっても何もない。いや、消えたものはあった。今日の昼、彼の家に訪れた時まではあった、積み重ねられた雑誌、それが無くなっている。
一階に下りてすべての扉を片っ端から開けまくり、榊恵はまだ仕事をしているだろう上司に連絡し、次に警察に連絡をした。ツヅリの携帯電話に電話をしなかったのは、図書室の机に無防備に携帯が置かれていたからだ。
押川ツヅリがフォレストにも居ない、と言うことが確認されて、何らかの事故に巻き込まれた、として捜査が始まった。
押し切る、押切る:①押し当てて切る。
②(障害を乗り越えて)最後までしとおす。困難に打ち勝ってする。
③「切る」を強めていう語。断ち切る。
http://kotobank.jp/word/%E6%8A%BC%E3%81%97%E5%88%87%E3%82%8B%E3%83%BB%E6%8A%BC%E5%88%87%E3%82%8B コトバンクさんより




