押し迫る
「この前のハッキング事件、犯人は君だろ」
いつも通り要請という名のおつかいに来た恵は、こともなげにそう告げた。恵のようなパブリックにつとめる特司書からすれば、一ヶ月前のハッキング事件は触れてはいけない、誰にも伝えてはいけない禁忌と化している。確信を持って尋ねている恵に、ツヅリは繕うことをやめようかと思ったが、彼女はおそらくカンというやつでツヅリに尋ねているのだろう。
「いったい何の話だよ。さて、ハッキング事件でも起きたのか」
「ああ。一ヶ月ほど前、フォレストのセキュリティ警備会社がハックされてな、みんな怯えていたよ、何が盗まれたんだ、とか、いったい何が目的だったのかとか」
「何が盗まれたんだ? もちろん、在庫と突合させたんだろ」
「盗まれたものは何もなかった。加えて指紋も。なかなかの切れ者だ、君みたいな」
じっと座っているツヅリを見下ろす恵。探るような恵の視線に、やはり物証はつかめていないことがわかったツヅリは、早々に恵を追い出すことにした。なにも、別に都合の悪いことはない、という見栄を張り続け、恵をいつまでも家に置いておくこともない。本来の自分なら、もう少し前に追い出しているだろう。
「わかった。とりあえず帰れ。そんなにハッキングされたのが問題なら、もう少しセキュリティのレベルを上げたらどうだ? あそこの雑誌が借りられなくなったら、生活に支障がきたすし、彼女が盗まれでもしたらどうなるか」
「……。まぁ物証はない、だから今はあきらめるが、犯罪はやめておけ。君が犯罪を犯したら、彼女がどう思うか」
「君が彼女を語るなよ」
予想以上に物騒な響きを持った声にツヅリも驚いた。恵は言わずもがなで、ツヅリの顔をじっと見たまま動かない。恵はきゅっと唇をかみしめると、きびすを返す。まるで負け犬のように帰る彼女は珍しく、図らずも見送ってしまったツヅリは、手の中の本に目を落とした。
恵が帰ると、自分の上司と、その上司の上司が待っていた。珍しい組み合わせ、そしてとんでもなく刺さる視線に恵は身体を小さくする。呼び出しを食らい指定された部屋に来れば、相変わらずのダークスーツとグレースーツの男が二人、先述した状態で待っていたのだ。恵は特司書として数ヶ月、当たり前だが普通の大学を卒業して就職した恵は、未だ戦力的には使い物にはならない。つまり、たいした仕事を任されていないはずの恵が呼び出しを食らうと言うことは、ひとえにに勤務態度が問題だ、と暗喩されかねない。呼び出し=説教ではないのだが、恵からしても急な呼び出しは少し心臓に悪い。
「彼は?」
「いつも通りですよ、安定しています」
「そうか。あのことは教えないように」
「はい、わかっています」
とりあえずハッキング事件をばらしたことは言わないでおく。言ったらきっと雷が落ちるな。グレースーツの直属の上司は、残暑真っ盛りの今日、涼しげな頭を拭きながらよろしく頼むよ、と一言だけ言った。
呼び出しは数分で終わった。ダークスーツの男がなぜわざわざ呼び出したのか、疑問に思ったが、グレースーツの上司はああ、と理由を説明してくれた。
「ここ一ヶ月ごたごたしているからね。彼にそれが知られていないか、心配なんだろう」
あの人も大概慎重だ、といわれて、恵は納得した。慎重というか配慮がうまいというか、あの人は部下の受けが良い。失敗に対する保険や、部下の性格の把握、使い方、あの人はそれが特にうまいとされている。が、押川ツヅリにはそれが鼻につくらしく、実は彼が赴くことはツヅリにとっては嫌で仕方がないらしい。
「彼がいろいろ行動に移しかねないし」
確かに。しかし既に行動に移した後だ、といえばこの幸薄そうな男はどう思うだろうか。
雑誌をしっかりと結び、ビニルひもをハサミで切った。外れないことをしっかりと確認した後、ツヅリは雑誌を持って外に出た。日が傾きつつある中、ゴミ捨て場に向かう。引きずってのんびり歩くと、何人かの近所の人と出会った。買い物帰りの主婦はツヅリの顔を見ると、ちらちらと視線を向けたまま通り過ぎた。久しぶりにたまりにたまった半年分の雑誌を捨て、ぐっと背を伸ばして腰を揉む。額に浮かんだ汗をぬぐったところで、後ろに影が出来た。何だ、と振り返ると見知らぬ男だった。
「だ……」
誰ですか、と問おうとした瞬間、突き抜けるような強烈な痛みに悲鳴も上がらなかった。一瞬で視界が暗くなり、まるで夜になったかのような……。猛烈な吐き気を自覚してから、地面にたたきつけられ、世界が途絶えた。
押し迫る:間近に迫る。
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