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きみのための雨ぼくのための雨

掲載日:2007/02/07

「ねえ、わたしのために雨はふると思う?」

唐突にそう言い放ったユカリは僕のほうを見ると、薫るようなため息をついた。今にも泣きそうに潤んだ眼が僕をみつめてゆれている。ユカリは何故、雨など気にするんだろう。

「僕は、遠い空からふった雨が、ユカリの頭の上に落ちるのなら、それはユカリのための雨だと思う」

ユカリの頭。黒くて長くてさらさらの髪。それが雨に打たれたら。それはとてもきれいだろう。

 と、ユカリはさっきまでのメランコリックな表情から一転してサディスティックな顔になり、こう言った。

「バカじゃないの?だいたい、何度言ったらわかるの?僕、なんて言わないでよ。気色悪い。あんた、女でしょ?」

 ユカリが僕をののしるとき、僕は僕でなくなる。ユカリに「僕なんて言うな」って言われるとき、僕は僕でもわたしでもなくなる。

 僕にも「わたし」という一人称を使っていたころがあった。一人称を使うとややこしくなるから、ここでは自分のことを名前で呼ぼう。

カナコは自分は人並みではないにしろ幸せだと思っていた。ユカリと出会うまでは。

九歳のユカリの髪の毛は腰まで伸び、絵本やアニメの中のおひめさまのようだった。

そう、ユカリは美しかった。美しい、なんてことばはユカリが微笑みかけたとたん枯れてしまうぐらい。果てなく美しくて、途方もなくわがままで、神のように残酷だった。

一方、カナコは醜かった。誰がどう見ても醜かった。幼いころから自覚していた。その醜さが、事故などによるものではなく、生まれつきのものであることも、カナコのコンプレックスを肥大させた。

カナコはやさしい子供だった。

見えているのかどうかわからないような細い目で笑いかけ、歪んだ唇からこぼれるのはいたわりのことば。そんなの当たり前だった。だって、カナコは自分の顔を知っていたから。鏡を見るたびに、悲しいひとの気持ちがわかった。

 カナコが十二になったある日。ユカリは言った。

「死になよ、あんた。なんで死なないの?信じられないよ。だいたいさあ、そんな汚い顔、どうしようもないじゃない。ねえ、いいものあげる。これで洗うと顔がウソみたいにきれいになるよ。バースデープレゼント。受け取って」

 戸惑うカナコに、ユカリは小さな瓶をひとつ渡した。うらに小学校の名前と、「理科室」と書かれたシールがはってある。

「硫酸だよ」

そういうと、ユカリは微笑んだ。この世のものとは思えない、美しい笑み。

 カナコは硫酸の瓶を自然と受け取ってしまった。怖くなったカナコは硫酸の瓶を持って走り去った。

 その日の夜、ユカリは交通事故でかけがえのない美貌を失った。残ったのは歪みきった性格と、美しく黒い髪だけだった。


 それから、ユカリはカナコとよく一緒にいるようになった。

 ある朝、カナコが早く学校にきて、机に突っ伏して寝ていると、教室にユカリが入ってきた。ユカリは鋏を取り出し、カナコに近寄り、カナコの髪を切り落とした。

少し茶がかかったぼさぼさの髪が好きで無かったカナコは、一瞬だけ、ふうわりと空に浮き上がるような不思議な感覚に陥った。

 でも、すぐにその浮遊感は憎悪になった。

 ユカリは笑っていた。泣きそうにも見えたし、恍惚としているようにも見えた。カナコはユカリが何を考えているのかまったくわからなかった。ただただユカリが憎かった。ユカリはカナコの鞄の中に、もうぐしゃぐしゃになった髪の毛を勝手に詰め込み、自分の席にゆったりと腰掛けると、文庫本を読み始めた。ユカリはドストエフスキーが好きだった。その瞬間から、カナコは、「わたし」から「僕」になったのだ。美しくない髪でも、カナコにとってはユカリと違う、「自分」だったから。


 中学に入って二回目の冬が終わろうとしているころ、ユカリはケータイ越しにカナコに叫んだ。

「カナコ、ききなさい!整形よ!整形手術よ!」

 どれぐらいたっただろうか。カナコにはあっというまだった。

 ユカリが堂々とした表情でカナコの前に再び姿を見せた。ユカリはまたもとの美しいユカリになった。

 元に戻ったともいえるユカリは穏やかな、やさしい少女になっていたのだ。

 物憂げな表情でいかにも少女らしいことを言うユカリは、陳腐な表現だけれど、天使みたいだった。

 僕が自分のことを「僕」と呼んだときだけ、ユカリは昔の残酷なユカリになる。

 カナコが僕になった日を思い出すのかもしれない。

 天使のようなユカリは、あの日のことをどうおもっているだろう?


いつものように二人で学校から帰る。誰もいない公園を近道のために歩いていた。

僕は無言だった。

今日は、ユカリの誕生日だった。


「ねえ、ユカリ、雨をふらせてあげる。ユカリのための、雨を」

そういうと僕は、ユカリに、ユカリのための雨を降らせた。

 十二のときにユカリに渡されたのよりずっとたくさんの濃い硫酸が入った瓶。

それを右手で握り締め、左手でふたを開け、ユカリの髪に、顔に、腕に、胸に、足に、雨を降らせる。

 ユカリが笑ったような気がした。今まで見たなかて一番きれいな笑顔のような気がした。

「ありがと。愛してるわ」

そうユカリは言い放った。僕は、いや、わたしはたじろいだ。

 うふふ、と科白みたいにユカリが笑う。うふふ、うふふ、うふふ。わたしはこわくなって瓶を投げる。

 ユカリは涙を流しながら笑う。

 わたしは知った。あ、これ、愛だ。憎しみだ。恐怖だ。憎悪だ。嫉妬だ。

 やっぱりあいだ。

「ねえ、わたし、あんたのこと、あいしてる」

 そう、最愛の人に言い放って、わたしは夕焼け赤く染まる公園から走り去った。


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― 新着の感想 ―
[一言]  不思議で、そしてとても怖い。深いような浅いような、霧雨を彷彿とさせる曖昧な雰囲気を感じる、なんとも形容しがたいお話でした。  ただ正直、好みがかなり分かれそうとも感じました。雰囲気に偏って…
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