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ふしだらな魔女

 もう何年、檻の中に閉じ込められているのだろう。がんじがらめに縛られ、息苦しく上手く歩くこともできない。部屋の机に就いたまま、じっとパソコンに向かい続けるだけの日々が続いていた。

 それは正平しょうへいが大学に合格した頃からだった。合格したと言っても、母親の芳子よしこは喜んではくれなかった。父親の真二しんじは丁度その時、長い海外赴任で家にはおらず、何も語ってくれなかった。

 大学に合格した。しかしそれが第三志望の私立の二流大学ともなると、母親の笑顔を期待するどころか、自分でも嬉しくは思えなかった。


 向坂さきさか正平は芳子の笑顔が好きだった。小さい頃から、自分を見つめる芳子の明るい瞳の輝きを感じるのが好きだった。幼稚園に入園が決まったとき、初めてその輝きの魅力を知った。

 そしてその魅力に憑かれてしまった正平は、その魔法の輝きを追い求めた。幼稚園や学校の先生も芳子の美しく優しい言動に敵わなかった。自分が成績を上げればママは輝いてくれる。塾でも学校でも成績も上げる。大人しく品行方正にしていれば先生や他の親達の評判もよく、鼻を高くする芳子の瞳の輝きはますます煌く。


 そうした正平の母親芳子の輝きの中で、父親の真二の影は薄れていた。殆ど毎日、正平の起きる前に出勤しており、帰宅するのは正平が寝てしまう頃だった。週末も正平が塾に通っているとますます真二を見ることが少なくなった。


 時折寝そびれて、部屋のベッドで暗闇を見つめながら耳を澄ますと、階下の食堂から二人の話し声が聞こえてきた。

『正平君、今度学年で一番になったのよ!』

 微かに上擦った言葉の響きは嬉しさだ。芳子は正平が自慢でならない。

『ああ、そうか。正平はお前に任せているから』

 真二の言葉で芳子はますます自分の輝きを確信する。正平が輝けば自分も輝けるのだ。

 聞き耳を立てて聞く正平は、そうした正平の知らなはずのところで語られる評価がますます彼を喜ばせる。

――ママ……

 そうして安心して眠りにつく。

 

 私立の中学に合格すると、芳子の輝きは瞳や笑顔の中だけでなく、その姿の背後にオーラとして感じた。ただその頃には正平には母親に隠さなければならないことができた。その体の異常はだんだん黒々としてきて恥ずかしい。ただ普段服を着ることでそれを隠すことはできたので問題はなかった。唯一お風呂に入るときは芳子から自分を隠すようになった。恥ずかしいことは隠さなければならない。


 高校も第一志望の学校に合格した。ちょうど真二はこの頃から海外勤務を命ぜられて、お盆と年末にしか顔を合わせなくなっていた。

だから喜んでくれたのは、母親の芳子だった。誰かに喜んでもらえることは、人間にとって至上の幸福である。


 また時折父親が帰ってきても、芳子と二人でどこかへ出かけ手いることを知ると、母親を奪われたようで嫉妬心がわく。だからできるだけ父親はいない方がよかった。


 高校生生活が始まると、正平は普通に恋をした。同じクラスの隣の席の女の子、恵美えみだった。ある時正平が昼食用のパンを買うお金を忘れてきた。机に着いてカバンの中やブレザーのポケットなどを探していると、恵美が声を掛けてきたのだ。

「向坂君、お金忘れたんでしょ。貸してあげるよ」

 笑って話しかけ財布を探る恵美の瞳に、正平は芳子の瞳のに似た輝きを見つけた。それ以来、その女の子のことが気になった。そして家に帰って母親を見ると、恵美の笑顔と輝きを重ね合わせた。


 ある日、正平はそんな気になる恵美の夢を見た。品行方正であるはずの正平は夢の中で恵美とふしだら関係を結んだ。その途端、罪悪感から目を覚ました。そして恥ずかしい身体を隠すはずの着物、下着が、恥ずかしい事をさらけ出そうとしているかのように、濡れていた。正平は、外は薄暗かったがいつもより早く起きだして、着替え、濡れた下着をそっと洗濯物の奥に隠したのだった。

――きっと、他の洗濯物と一緒に洗ってしまうだろう。

 正平は何気ない風を装うことでまんまと隠し通せたと思った。

 ところが、その日いつも起きる時間になって階下の食堂に入ろうとすると、台所の隣の洗濯場で洗濯機に向かう芳子が見えてしまった。芳子は正平の下着を、まるで汚い汚物を触るように指で摘み上げ洗濯機の放り投げたのだった。

 正平はその汚い下着と自分を重ね合わせた。

――ママに見つかってしまった!

 正平は芳子の輝きを自分が失わせてしまうように思えた。正平の追い求めるママの輝きを鈍らせてしまっているように思えた。

 すると、クラスの恵美の姿もよどんで見える。あの汚物を前に顔をしかめた母親のように、彼女のちょっとした憂鬱そうな表情が正平を避けているように感じる。


 夢の中の恵美はふしだらで、そんな恵美を夢見た自分もふしだらで、そんな自分は母親の芳子の輝きも鈍らせてしまう。

 正平自身の身体も心も、時間とともに成長し変わり行く。そうした罪悪は隠さなければならない。


 思春期に誰もが思い悩むことを、正平も普通に悩んだはずだった。

その悩みが、勉強の妨げになる。しかし理由は隠さねばならない。勉強を理由に自らを部屋に隠す。正平の罪を重ねさせてしまう恵美の存在を心の奥に隠す。学校でも恥ずかしい自分を探られないようにクラスから距離を置いた。勉強を理由に部屋に自分を隠しても、勉強は身につかず、成績は次第に落ちていく。


 そうした成績の数字を見ると、芳子の輝きも鈍り始めた。芳子の輝きを鈍らせているのは正平だった。


 そうして、大学受験を迎えると、結果は第一志望第二志望に落ち、結局第三志望にぎりぎり受かった。

「正平君、やっぱりだめだったね」

 母親のその言葉は正平には審判が下されたように感じた。今まで隠し続けた罪を暴かれ、受験という法廷で裁かれ、有罪判決が下されたのである。


 正平は芳子の輝きがなくなったことで、大学生活に魅力を感じることができなくなった。その罪は全て自分にあると心の奥で思い、自分を嫌い、そしてそんな罪多き自分を部屋の中へ、小さな牢獄へ押し込めた。


 ずっと自分の部屋に閉じこもるようになり、トイレや風呂は芳子が寝てしまった頃に、そっと階下に降りてきて隠れるように済ませる。食事で顔を合わせるのも嫌い、心配した芳子が部屋に届ける。


 久しぶりに父親の真二が帰国し家に帰ってくると、いがみ合いが聞こえてくる。するとまた家庭での裁判が始まる。

「病気よ。病気。正平はきっと病気なのよ。テレビでもそう言っているわ」

 芳子は正平の実力の無さを認めるより、病気であるほうがあり難い。正平は本当は力のある子なのだから、それを世間で言う引きこもりにさせてしまったのでは対面上恥ずかしく、病気という理由が一番ありがたかった。


 正平は芳子が、今はもう冷めた視線で接してくるに違いないと感じていた。あの輝きはもう無い。その理由は正平にある。しかし芳子はその理由を病気にしてしまおうとしている。芳子は正平の弁護士なのだ。正平の無罪を信じている。無罪にするには精神鑑定が必要なのだ。


 真二の声は低く、部屋で耳を済ませてもはっきりとは聞き取れない。

「正平は、あなたの子よ。あなたも何とかしてよ」

 真二の休暇中、何度かそうした夫婦のいがみ合いが続いた。そして時折、父親が正平の部屋の扉を叩く。

「正平、ドアを開けなさい」

 正平が無視すると、ドアを叩く音はすぐに収まる。正平にとって真二の行動は芳子に促されてやっているように思えた。だから真二への信頼は沸かない。むしろ妻である芳子の輝きを奪った正平を法廷で糾弾しようとする検察の人なのだ。

――ママ、ごめんなさい。

 正平は幾度も幾度も自分に罪を感じ、自ら狭い牢獄に引きこもった。


 そして再び真二は家を後にし仕事の世界へと消えていく。牢屋に閉じこもる正平と、不安に打ちひしがれる芳子の暗い生活が繰り返されるのである。


     *****


 半年も経ったある日、再び真二が帰ってきた。正平はその音を部屋で聞きながら、また裁判が始まるのかと神経を尖らせた。ところがいつまで経ってもいがみ合いの裁判が始まらない。それどころか、微かに芳子の笑い声さえ聞こえてくる。


 しばらくすると芳子が階段をあがって来る音が聞こえた。そしていつものようにドアの前に食事のお盆を置く音がした。

「正平君、食事、ここに置くから。パパね、今日、帰ってきたよ」

 芳子はそっと様子を伺う優しい声でドア越しに声を掛けた。正平はいつものようにそれを無視して答えない。階下へ降りていった音を確かめると、正平はそっとお盆を部屋に引き入れ、パソコンに向かって食べる。そして終わるとまたそっとお盆を部屋の前に置き、パソコンでゲームに熱中する。ふしだらなゲームは罪深い正平を正当化させてくれる。音が聞こえないようにヘッドフォンを着ける。すると外部の音は聞こえなくなり、ますますゲームの中の小さな世界に自分を閉じ込める。

「正平君、お母さんたち、もう寝るから」

 芳子がお盆を下げに来たが、正平は答えない。

「正ちゃん、もう寝たの?」

 やさしく赤ん坊を寝かつしけるような声で言う。それでも正平は答えない。すると芳子は足を忍ばせて階段を下りていった。


 ゲームは女を裸にさせていくゲームだった。ゲームに登場する女を裸にさせると、機械がかわいい声を上げる。くだらないと思いながら、次々とゲームを変え、嫌がる女をいたぶる。いたぶる女のキャラクターを選ぶとき、正平はいつの間にか母親似の恵美をイメージしている。しかしそれで性的興奮を感じるよりは、気持ちが晴れ晴れするといったほうがいい。


 そうして夜中になり、寝ようとヘッドフォンをはずす。そしてトイレに行きたくなると、椅子から腰を上げた。父親の真二が帰ってきているとなると、いつも以上に用心して階段を下りないと、見つかってしまう。なにせ四つの耳が階下の夫婦の寝室に控えているのだ。正平はドアのノブを回す音さえ慎重に隠し、廊下に出た。そして足を忍ばせ、階段は一段一段確認しながら手すりの力を借りて降りる。


 階段を降りきるとトイレに向かって廊下をそっと歩く。特にトイレまでの途中に母親と父親の寝ている寝室の入り口があるので念入りに足音を忍ばせなければならない。今にも、

『正平』

 と、父親の声がしそうな気がする。だからいっそう耳を欹てる。すると微かにうめき声が聞こえたと思った。そのうめき声が漏れ聞こえてきた方を確かめてみると、寝室のドアが少しだけ開いているのである。ノブの閉まりが悪くそれまで何度も寝室の中を覗くことができた。その夜も開いているのである。


「あぁ……」

 押し殺したような呻き声はゲームで何度も聞いていたが、実際の声は小さく聞かせまいと押し殺しているようでリアルなのだ。

「あ!」

 正平はドアの前で足を止め、暗闇で凍り着いたように立ち止まった。

「ん……」

 かみ締める声ごとに正平は身体を少し動かし、ドアの隙間から寝室の中を伺った。仄かな枕もとの読書灯が寝室の中の様子を浮き立たせている。

「あぁ……」

――ママ!

 秘密を隠し切れずに漏らしてしまう喘ぎ声は、正平のママの声だ。

隙間からベッドの上の二人が見て取れた。芳子が仰向けに倒され、その上に真二が身体を伏せるようにして責め立てているのだ。

――ママ! ママが苛められている。

 正平のママ、芳子は滑稽で醜い格好で足を広げている。まるで仰向けにされたカエルのようだ。そのカエルが何かを嫌がるように悶え苦しんでいる。

――ママ! 助けなきゃ。

 所がママの身体は嬉しそうに踊っているようにも見える。正平は踏み込もうとした身体を押さえた。真二はいつもの様に無言で芳子を押さえ込むように肉弾で責め立てている。これでもかこれでもかと責め立てる。

「ううん……」

 ママが悶えながら髪を振り乱し、嫌がるように頭の向きを変える。正平は見た。秘密の悶え声を漏らしてしまう半開きにした口はだらしがない。閉じるほどに空けた目は、邪悪な喜びに潤んでいる。頬は紅潮しているのが見て取れ、媚びるような引きつった笑いを見せている。

「あ、あ、あぁ……」

 両生類か魚類の生き物が苦しむように身体をくねらせて悶えている。それまで正平が見たことのない、美しく清廉でやさしい正平のママの、みだらで破廉恥な姿がそこにある。身体を使って責め立てる父親が、その女神の隠された秘密を暴き出しているのだ。王子が邪悪な魔女を相手に戦っている。蛇のように柔くくねる体を硬く重みのある肉体が責め立てる。正平には始めてみる男としての父親、真二であった。

――パパ……

「あ、あ、あぁ!」

 魔女の身体は感電したように痙攣し、大きく息を吸って声を詰まらせ、あごを上げた。

「う!」

 父親の最後の決め技が利いたようで、魔女も気を失ったかのように静かになった。


 するとがんじがらめに縛り上げていた魔女の魔法が解けていくように、正平は開放感を感じた。それまで魔女が化けていた美しく優しいママの裏に秘められた醜さには驚いたが、今、魔法の夢から解き放たれたのだ。魔女の掛けた理想の自分が消えた。


 正平はそっとトイレに入ると、小便を流す音をわざと大きく鳴らした。

――ハハハ

 正平は声を出さないように笑いを堪えた。そして水洗の流れる音は魔女への復讐の音であり、魔法を解く最後の鍵で、魔女への決別の音だった。抑圧された自我を解き放つ。父親と母親に対する自分の存在の無言の主張であった。

 正平はそのままそっとトイレを出て、何事も見なかったかを装いながら、暗闇の階段を上がり部屋へ戻った。


 次の朝、正平は階下のダイニングに下りてきた。すでに朝食の準備が始まっており、芳子が台所で鼻歌交じりに立ち働いている。真二は用意が整うのを待ちながら新聞を読んでいた。すでに出かける服装で降りてきた正平をみた二人は、同時に目を見張り、動きが止まった。そして芳子が震える声でやっと声を掛けた。

「正平君、どう……」

 正平は母親の言葉を無視して食卓に向かうと、新聞を折り目を上げて正平を見守る父親の前の席に座った。

「しょ、正平……」

 夫婦は、引きこもっていた正平がやっと家族の食卓に降りてきた驚きと、昨晩の秘め事の後に響いてきたトイレの水の音で察せられる見られてしまったという恥ずかしさで、揺れていて言葉を選べない。

「正ちゃん……」

 正平は少しだけ振り返ったが、頬で微かに笑うだけで、再び父親を見た。そして真二が話の方向を示すように切り出した。

「正平、お父さんな、今度、本社勤務になってな。これからはここでみんなと一緒に暮らせるよ」

「ああ。昇進?」

「いやぁ、まだまだ。これからだ。おとうさん、がんばるぞ」

 真二の声は嬉しさで力がこもっていた。昨夜正平が見た逞しい父親の声だった。真二は照れるように視線を落とし、折り曲げた新聞を立てた。芳子はもはや魔法を使えなくなっており、ただ食卓の二人をじっと見つめるだけだ。

「親父。俺、もう一度、大学、やり直すよ」

「そうか」

 父親の低い落ち着いた声が朝のダイニングに響く。正平は大人になった。



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