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板チョコ

作者: 猫田たい子
掲載日:2026/10/04

 子供って正直。だから残酷。

 叔母から母の死の知らせを受けたが、母とはもう十年以上会っていなかった。


 母は高齢で私を産んだ人だった。


 幼稚園の頃は母が大好きだった。

 一瞬たりとも離れたくなくて「ママ、大好き!」が口癖だった。


 小学生になると、同級生の母と自分の母が違うことに気づいた。

 クラスの男子が母のことを「おばあちゃん」と呼んだのがきっかけで、私は母を避けるようになってしまった。


 父は母より一回り若かった。

 大学生だった父はアルバイト先で正社員として働く母に一目惚れをした。

 半ば強引に求め、卒業と同時に結婚を決めた。


 母が私を産んだのは四十歳の時だった。


 私が母を避けるようになった理由の一つに、父の母への態度があった。

 生まれてからずっと父が母を汚物のように扱う姿しか知らなかった。

 それでも母はいつも笑顔で私と父に接してくれていた。


 小学三年生のある日、父に一回り年下の新しい恋人ができ、母に別れてほしいと強く迫った。

 父から「おまえはどっちにつく」と尋ねられ、私は迷うことなく父を選んだ。


 その時の母の悲しそうな顔は今でも忘れられない……。


 母は慰謝料も求めず、すぐに家を出て行った。

 別れの言葉を私に向けたが私は冷たくあしらった。


 父と一緒に母を粗末に扱った代償のように、新しく母となった女性は私をまるで存在しないかのように扱った。


 子供ながらにその態度に戸惑いながらも次第に慣れてしまい、私は誰とも口を利かなくなった。

 

 いつの間にか、家の中で自分の存在が消えていくのを感じていた。


 数年後、妹が生まれた。

 妹は父に愛され、私はますます汚物のように扱われる存在になった。


 自分の居場所を失った私は、中学を卒業すると同時に家を出た。

 その時一瞬だけ、出て行った母に連絡を取って一緒に暮らせたらと思った。

 母に会いたいわけではない。寂しいわけでも懐かしいわけでもない。生活を何とかするための常套手段として、仕方なく連絡を取ろうとしていただけだった。

 結局――父と共に母を傷つけたただのいじめっ子の一人にすぎなかった。


 二十歳を迎え、私は社宅を出て一人暮らしを始めた。

 二十代という未知の時空に身を置くと、「大人」という言葉が常に頭の中を巡った。


 叔母から母の死を聞かされても、冷たくあしらった記憶しかないのでどう対処したらいいのか分からなかった。


「お母さんの猫を引き取ってほしい……」


 母の猫の名前は私と同じだった。

 それを「気持ち悪い」と思ってしまう冷たい自分がいた。


 私は猫の引き取りを断り、二度と連絡をしないでほしいと叔母に告げた。


「あんたらが殺したようなもんや! どんな気持ちで自殺したか!」

 背中に叔母の捨て台詞が突き刺さったが、私は無視した。


 しばらくして、会社近くの公園に子猫の姿が現れた。

 弱々しく今にも命が途絶えそうな姿に母の姿が重なった。


 仕事中もなぜか子猫のことが気になった。

 

――こんな気持ちは生まれて初めてだった。


 今さら母の猫を引き取りたいなんて叔母に言えない。


 それでも、あの子猫を保護すれば……少しでも母の役に立てるのではないかと、偽善者めいた気持ちが心を過った。


――急に人間らしい感情が芽生えたような気がした。


 会社帰りに急ぎ足で公園に向かうと、甘える子猫を撫でている男の子がいた。

 見覚えのある子だった。近くの雑貨店に住む子供だ。


「僕、どうしたの?」

「あっ、お姉ちゃん。この子猫、僕のだからね」

「えっ?」

「後でお母さんと一緒にお家に連れて帰るから」

 子供相手に子猫の引き取りを強く申し出ることはできず、私はそのまま引き下がった。


 でも、心配だった……。


 私は雑貨店に足を運んで男の子の母親に確認した。


「子猫を引き取るんですか?」

「そうなんです。夕方に迎える予定です」

 母親の笑顔を目にした瞬間、子猫の保護は諦めた。

 同時に、母の死のせいで自分の行動を正当化するように無理に子猫を守ろうとしていた重荷が、肩から降りたような軽やかな解放感もあった。


 その夜、母の思い出を探してみたが一枚も写真は見つからなかった。

 代わりに父と一緒に写っている写真が数枚出てきたが、無意識のうちに破り捨てていた。


 数日後、スーパーマーケットで雑貨店の男の子と母親に出会った。

 私たちは互いに挨拶を交わした。


 男の子は購入前の板チョコを両手で抱えるように持っていた。その姿を見て、体温でチョコレートが溶けてしまうのではないかと心配になった。


「この子、板チョコが大好きなんです。一口も私に分けてくれないんですよ」

 私の視線に気づいた母親が微笑みながら説明した。


「お姉ちゃん、子猫の写真、見たい?」

「うん、見たい!」

 気になっていたので即答した。


 母親はスマートフォンを取り出し、家族に迎えた子猫の写真を見せてくれた。


――えっ?


 子猫は公園の子猫ではなかった……。


「公園の子猫じゃないの?」

 私は顔を引きつらせながら男の子に尋ねた。


「公園?」

 母親が不思議そうに私を見つめた。

「公園の子じゃないよ」

 男の子は笑顔で答えた。


 頭が真っ白になった。


「公園の子猫って何ですか?」

「いや、私はてっきり公園の子猫を……」

「うちの子猫は里親募集サイトから迎えたんですよ」


 呆然としている私に、男の子は板チョコを掲げるようにして胸を張りながら満足そうに言った。

「でも公園の子猫に、僕の板チョコ全部あげたから!」


 男の子は自分なりに正しいことをしたつもりなのだろう。


 私は二人に軽く頭を下げ、買い物かごに入れていた商品をそのまま放置して何も買わずに店を飛び出した。


 子猫を確かめたくて足早に公園へ向かったが、心臓が喉まで跳ね上がる感覚に戸惑った。


 息を切らせながら公園に辿り着き、すみずみまで子猫を探すと――そこには小さな目を見開いたまま冷たく、硬くなった子猫の姿があった。


 一瞬身動きが取れなくなった。


 助けられるはずだった命を、私はまた無視してしまった……。


 子猫は板チョコの上に横たわっていた。

 チョコレートは形を保ったまま、子猫の小さな体にぴったりと寄り添うように沈み込んでいた。

 その上に蟻の行列ができ、慌ただしく動く小さな生き物たちが子猫の亡骸を取り囲むように這っていた。


 蟻に囲まれる子猫を見つめながら私は不思議な感覚に陥った。


 男の子は誰にもあげない板チョコをこの小さな命にはあげられた。

 でも私は……母の時も子猫の時も、結局何もできなかった……。


 子猫の亡骸が母の姿に重なって見えたが、涙は出なかった。

 ただ……言葉にできない虚しさだけが胸の奥に残った。




 ジャック・ケッチャムの「Gone」読んで思いついた作品。

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