ピ ピ ピ
7月3日
キムラカイトのアパートの一室で電子音が聞こえた。
「ピ ピ ピ」
弱々しく3回。微妙に張りがない。
もう電池がないのかもしれない。
その音で19歳大学生のキムラカイトはバイト前の昼寝から目を覚ます。
音の正体はなんとなく予想できた。100円ショップで買った安い腕時計。タイマーか何かが誤作動しているのか、たまに鳴る。
なんで買ったか覚えていない。
どこにあるのかもわからない。
インスタか何かで見たやつが売っていたからノリで買ったんだと思う。
京王線百草駅の安いアパート。窓から京王線が見える。
7月の午後。
スマホを見たら16時14分。すぐに15分に変わった。
(変わる瞬間、初めて見たな)
とぼんやり考える。
カーテンを閉めてクーラーをかけた方がいいのは知っていてもなんとなく窓は広く開けておきたい。
大学生活も慣れて、物はそれなりに増え雑多な部屋で洗ってハンガーに吊るして干したTシャツを外す。
シャワーを浴びて。それを着た。
「バイト行くか」
シャワーとトイレが別で月4万5千円。築年数はそれなり。いやかなり?
駅前で選ぶとだいぶ都心から離れたが、大きな寺があるせいか治安もいいし生活には困らない。
隣駅の中の本屋が職場だ。
17時半から22時まで。自転車で向かっても時間は充分だ。
レジ締めしてると店長が声をかけてきた。
「キムラ君、Tシャツのユニフォーム、間違えて2枚渡しちゃったけどバイトは1枚らしいんだ。返してもらっていい?」
40代半ばくらいのおじさん店長のアヤセカズヒトが悪い悪いと手を合わせる。
「明日持ってきます」
そんな話をして仕事を終えた。
「ただいま〜と」
暑い。
と言いながら部屋に入りすぐクーラーを起動する。
「シャワーだシャワー・・・あ、その前に」
小さい冷蔵庫の上に無造作に置いたビニールに入ったままの紺色のTシャツを引っ張る。明日返すものだ。
その拍子に、何かが冷蔵庫の裏へ落ちた。
「ちっ」
舌打ちして冷蔵庫の上のものをどかし、少しずらして手を伸ばす。
ガサッとビニールに触れて引っ張り出すと微妙に賞味期限が切れたポテトチップスの袋だった。
「いつのだろ・・・」
友人が来た時の差し入れだろう。まだ食べられるかもしれない。
でも落ちたのはもっと硬い感じだった。
もう一度手を伸ばす。
それらしき感触。
「こ、これか」
明るみに出して何か期待したわけでもないがため息を吐く。
「なんだお前かよ」
100円ショップの腕時計だった。こんなところにあったのか。
Gショックを真似た安い作りの腕時計。
電池はとうとう切れたらしい。たくさんついたスイッチのどこを押しても画面には何も映らなかった。
捨て方もよくわからないので結局、冷蔵庫の上に置く。
(ゴミだったなあ)
いくらで買ったか忘れたが、100円ショップで買ったとは言え100円ではなかったはず。
無駄遣いだった。と、後悔する。
この物価高の世の中で小銭も惜しい。
ざっくりと適当なものを食べて
寝て、昼前に大学へ行って、夕方に帰る。
もうすぐ夏休みだ。
小さい山と緑があるからかあっちこっちでヒグラシが鳴き出す。
冷蔵庫を開いてペットボトルの麦茶を直接飲む。
そこに、
「ピ ピ ピ」
いつもの電子音がした。
カイトは驚いて冷蔵庫の上を見る。
腕時計は暗い画面のままだった。
「これじゃなかったか」
カイトは麦茶をしまいながら考える。
そうすると隣の人のだろうか。
右も左も人は住んでいるようだ。廊下側の窓に傘が引っかかっている。引っ越しの挨拶なんかはしなかった。
ありえなくはない。古い木造アパートだ。
スマホで時間を見た。
16時13分
昨日もこんな時間だったような。
細かくは覚えていない。
たぶんバイト前で昼寝をしてこのくらいの時間だった。
なんてことないバイトと大学の生活が続いた。
試験があったりしたが問題はない。
最近大きく変わったのはミサキとの出会いだった。
バイト先でよくシフトが被る年齢不詳、20代後半くらいのオノダリエが「17時過ぎるとパン屋が安くなるよ」と教えてくれたので、本屋と同じ建物で改札の横にあるチェーンのパン屋を覗いてから仕事に行くことが増えた。
パン屋のパンを3割引で買えるのはありがたい。
それに何より、パン屋にはミサキがいた。
最初のきっかけはレジで財布から100円玉が転がったことだった。
『あ!』
不運にも転がったのは確かなのに見当たらない。
「すみません」
ミサキは悪くないのに謝ってきた。
後ろに人も並んでいる。
「いいですよ、大丈夫です」
見つけようとするミサキを制して新しい100円玉を出した。
「探しておくので後日また来られますか?」
「あ、俺、あっちの本屋で働いてるんで。いつでも来られますから」
一応と名前だけ聞かれてペコペコと謝られた。
自分と同じ歳か下くらいだろうか。
まっすぐな黒髪を耳の下で切り揃えほんのりベリーレッドに染めていた。『君の膵臓を食べたい』の頃の浜辺美波にちょっと似ている。
それで終わったと思っていたが、
パン屋の閉店の19時過ぎにミサキがカイトのところへ100円を届けてくれた。
レジにいたら声をかけられて驚いた。
「すみませんお仕事中に」
カイトは素直に嬉しかった。100円と言えども100円である。
「あと、本の予約をしていいですか」
言われたタイトルを打ち込む。
「あ、これ俺も読んでます」
思わず言ってしまった。人気のライトノベル。待望の新刊。
バイト仲間でも何人かで初回特典を社割が効かないが確実な予約をするか、入荷数にかけるか盛り上がったあとだった。
なんだか親近感でつい話しかけてしまった。一瞬後悔したがミサキが目を輝かせた。
「え!そうなんですか!私の周り、本を読む人が少なくて」
客がいないこともあったのと、ポイントアプリに新規入会するとのことでその操作を簡単に案内したりして、雑談に花が咲いた。聞けば大学が同じだと言う。
イノモトミサキと打ち込まれた控えを渡す。
「大学で、もし見かけたら声かけてください」
そんなふうに女の子に言ったのは初めてだったが、ミサキは笑顔で「はい、私もぜひ」と言って去っていった。
後日、本当に大学で声をかけられるとは思わなかった。
インスタの交換をして、本の話をよくするようになった。育ちの良さがわかるってこういう感じかな・・・?と思うような、そんな人だった。
本以外の雑談でミサキはパン屋に月、火、金曜日の16時から19時の3時間だけバイトをしているとわかった。
「20時には家に帰ってないとダメで」
ずいぶん厳しい家だなとカイトは思った。
「ピ ピ ピ」
7月16日木曜日
久しぶりに聞いたなとカイトは昼寝から目覚めた。
前期も終わりに近づいてレポート提出に追われていた。昼には家にいてちょっとのつもりがだいぶ寝てしまったらしい。
スマホを見たら16:02。
16時過ぎているのか。
少し焦った。レポートを早く終わらせたい。
朝から振っていた雨が止んで、蝉が鳴き出す。
試験もあるし、バイトのシフトも多少減らしている。
しばらくはレポートと試験で忙しくなるが、それが終われば夏休みだ。
インスタの新着で、ミサキの新しい投稿の通知を見て開く。
カフェの新作ドリンクが映っていた。
ミサキはよく食べた物を投稿している。
駅前のケーキ屋のシュークリームだとか、都内のおひとり様ショートケーキだとか、いいねも押しやすいので見れば必ず押しておく。
今回のカフェは知らなければ場所は特定できないが、多分あそこだろうなと思った。自分の働く本屋に併設したカフェだ。
マンゴーヨーグルトティーとココナッツミルクティー、2つ並んでいるのがちょっと気になった。
一応ハートをタップしておく。
バイトがあってもなくても、家にいる時間が増えて電子音は「なんとなく16時」の目安だった。
7月19日日曜日
カイトは試験目前で数駅離れた駅前の図書館に午前中からいたが、人が増えてきたので15時過ぎに出て電車に乗り、途中の自販機でコーラを買う。
冷たい炭酸が喉を鳴らす。
(うまい)
帰り道ですっかり飲み切った。
「ただいまー」
空の缶を小さなシンクに置いた。
「ピ ピ ピ」
音がしてスマホを何気なく持つと15:59。
とうとう16時を切った。
そう思って、
ふと昨日のことを思い出す。
昨日は頭が疲れてきて、時計を見たら15時だった。
(ちょうどいい。15時半まで勉強したら30分休憩)
と決めて、スマホでタイマーをかけた。
15時半にタイマーが鳴って、そのあと30分を繰り返して、
スマホのタイマーをすぐに消したら
「・・・ピ ピ」
と聞こえたので16時ぴったりだったはずだ。
思い立って、カイトは15:59とスマホのメモに打った。
それは何気ないただの興味からくる小さな行動だった。
7月24日金曜日
『新刊の発売日ですね!試験中だけど、買っちゃおうと思います。お店には何時頃いますか?』
インスタのメッセージにミサキからそう届いた。
バイトは休んでいると聞いているのでわざわざ駅まで来るのだろうか。
『今日は人がいなくて16時半から入ります』
ミサキに合わせて、ですますで終わる文章が定着してしまった。
カイトは試験真っ只中であるにも関わらず、ミサキが予約本を取りに来ると見越してバイトのシフトを入れている。
アヤセ店長が「本当にいいの??」と心配してくれたが、「人もいないし、次の日が土日ですから」と言うと大変感謝された。
(そうだろうなあ)と内心思う。アヤセがたまたま近所の住まいで、人が足りない夕方や夜間に2度出勤しているのを知っていた。
知り合いの女の子が本を買いに来るから、なんて浮ついた理由で働くのがなんだか申し訳なかった。
15時半過ぎてバイトに行く用意をするかとシャワーを浴びる。
ドライヤーで髪を乾かしながら、スマホを見る。
15:49
服を着て冷蔵庫の麦茶を飲もうかと手をかけた時、
「ピ ピ ピ」
スマホは15:54。
カイトはスマホのメモに書いた。
そしてそのメモを見返す。
7/19 15:59
7/20 15:58
7/21 15:57
7/22 15:56
7/23 15:55
7/24 15:54
何か意味があるのか
何も意味がないのか。
スマホを紺色のチノパンの尻ポケットに突っ込んで、麦茶を飲んだあとカイトは家を出た。
ミサキは17時前に店に来た。
普段人の多い時刻だがさすが人がいないと言うだけあってレジはカイト1人だった。店的には嬉しくないことだろうがレジに人が並ぶことがなく、熱心に立ち読む人間ばかりだ。
(買えよ)
とカイトが暇も持て余しついでにイラついていると、ミサキが予約控えを手にやって来た。
カイトは妙な緊張感を覚えながら予約本を持ってくる。
「カバーはつけますか?」と聞くと、一瞬迷ってから「お願いします」と言われたのでフィルムを剥がしてカバーをつける。
サイズを合わせていつもより丁寧に。
「それ、すごいですよね、いつも尊敬します」
ミサキが感心して言うのでカイトの目は折り目から離せなくなった。
なんとか紙袋に入れて渡すと、引き換えに真新しいランチ用の保冷バッグを渡された。
「あの、これ、試験中の差し入れです・・・!」
「え」
驚いていたら後ろに絵本を持った男児と手を繋ぐ母親が並んだ。
「あ、すみません!メッセージしますね!」
そう言って去っていく。
「すみません、この絵本の購入特典ってまだありますかー?」
カイトの特別な時間は他愛無い質問で終わった。
パンを被ったネズミのキャラクターのキーホルダーはあと2個だけ箱の中に残っていた。
レジ締めすると「今日はありがとう」とアヤセが感謝してペットボトルの紅茶をくれた。
更衣室でもらった保冷バッグを開けると保冷剤が三つと小さな白い紙袋が入っていた。
メッセージには「前にいいねをしてくれた駅前のケーキ屋さんのシュークリームです」と送られてきていた。
家に帰ってから紅茶とシュークリームを並べて食べようと思って・・・写真を撮った。
そしてミサキに「ありがとうございます」と写真と送ると、すぐに返事があった。
「忙しい時間にすみません!いつもバイトで乗るバスについ癖で乗ってしまって。ケーキ屋さんの前のバス停なので、思いつきで行動して。夏なのに生物とか。すみません」
オタオタと焦るミサキの姿が見えそうな文章だ。
「ありがたいです」
と送る。
少ししてから
「本、試験中なのに読んじゃいました」と返事が来て、自分が買い忘れたことを思い出した。
7/30 15:48
7/31 15:47
8/1 15:46
8/2 15:45
8/3 15:44
8/3月曜日
夏休みに入った。
夏フェアや雑誌の表紙がカラフルになって本屋に子どもの姿が増える。
オノダがお盆休みで変わる出版日や特集号の一覧を見て「夏だね〜」と呑気に言うのを聞いていた。
16時から出勤しているアヤセが汗を拭ってレジに入った。
「二重出勤に慣れてきちゃいそうだよ〜」
朝の開店と、16時から閉めまで。
カイトは最近知ったが、アヤセは親の介護があって本当なら18時に上がるところを、人がいない日は店開けをして2時間ほどで帰ってまた再出勤。ということをしているらしい。
お疲れ様です、としか言えなかった。
「今の学生さんって夏休みなのにあんまりシフト入れないんだねえ」
と言ってすぐに「いらっしゃいませ」と対応する。
まあ言われてみるとカイトも別にバイトを増やしてはいない。
日常のリズムを崩したくないのかもしれない。
「こんにちは」
声をかけられて前を向くとレジの前にミサキがいた。
「あ、イノモトさん。」
若干声が上擦った気がした。
有名な旅行雑誌だ。『北海道』と大きく書かれている。
「旅行行くんですか?」
スマホのポイントバーコードを読み込む。
「はい、夏休みに。」
「いいね。気をつけて行ってきてください。」
紙袋に入れて渡す。
「あの、高校の女友達と行くんです。お土産、買ってきますね」
ミサキがそう言って笑顔で店を出て行った。
客がいないので雑談もできたのに。
と隅っこで小さく考えていたが、
いや紙袋の補充をしなきゃなとすぐ切り替える。
「あの子、よくバスで見かけるよ」
アヤセが急に言うのでカイトはびっくりする。
いやそんなに驚くことはないのだが、ミサキの話なので驚いたのだ。
「そ、そうなんですか?」
「うん、15時38分にケーキ屋の前に着くミニバス。あの子、途中で乗ってくるんだ」
「ああ、彼女、改札横のパン屋でバイトしてるんですよ」
「ああ、そうなんだ。キムラくんもてるね」
「え!」
「あ、違うの?ごめんごめん。」
アヤセがセンシティブな話だったと慌てる。
そこにリエが「モテてるモテてる」と紙袋の補充を持って現れた。
「“女友達と“って強調していく必要ないじゃない」
前にパン屋の割引を教えてくれたのと同じトーンで言いながら手際よく紙袋を棚下に補充する。
ミサキがいた時、オノダはレジ前の本の補充をしていた。
聞こえていたらしい。
カイトは喉がグッとなって、何も言えずにいたところに客が並んだ。
「い、いらっしゃいませえ」
若干声が掠れた。
8/4火曜日
朝起きて昼を食べ、見るからに暑そうな外に出る気も起きず、ダラダラスマホでショート動画など見ていたら時間が溶けていく。
もう夕方だ。
しかしふと静かになるとダメだ。
アヤセとオノダの昨日の会話が頭をぐるぐるする。
「モテてるって・・・」
年齢=彼女いない歴。そのままのカイトはこの気持ちを持て余してさらに余りある。
ふと、冷蔵庫の上の保冷バッグを見た。
「返さないと」
口実があった。
そこにいつもの音が聞こえる。
「ピ ピ ピ」
スマホを見た。
15:43
気にするようになったからか前より大きく聞こえる気がした。
メモをして、そのままインスタのメッセージを開く。
『保冷バッグを返したいのですが』
そう打って、バイト中だと気がついた。
送らず上から下へスワイプする。
パン。
そうだ無性にパンが食べたい。
パンを買うついでに渡しに行こう。
これから外に行くのに意味はない気がしたがシャワーを浴びた。
少しは清潔感があるデザインのTシャツにジーパン。
保冷バッグが入るサイズのカバンに財布など移し直して。
16時半に家を出た。
用水路沿いを歩く。歩いても30分くらいで駅には着く。
人通りのない線路と用水路の間の道を歩いて一本道を行く。見渡す限りカイトしか歩いていない。
それで気を抜いてワイヤレスイヤホンで聴く曲を選んでいたら、猛スピードの青い軽自動車が真横を走って行った。
ずいぶん自信のあるスピードだ。
「あぶな」
そう呟いて、歩きスマホはやめようと思った。
立ち止まって適当な曲をかける。
駅に着くとちょうどパン屋が30%オフの看板を出したところだった。レジカウンターにミサキの姿があった。
向こうも気がついたらしい。しかしセールが始まった店の中はどんどん混雑していく。
カイトも明日食べるのに良さそうなパンを選ぶ。
ついでに夕飯もパンにしてしまおうか。
人気の街の名前がついたカレーパンをトレーに乗せる。チョコレートスプレーたっぷりのドーナッツも。明日のためにソーセージのパンも乗せた。
仕事帰りの主婦らしい人たちに紛れて列に並ぶ。
3つのレジがフル稼働している。
ミサキのレジになると良いなとぼやっと思いながら並んでいた。
どうも順番的にカイトの前の人がミサキに当たりそうだった。
運がない。
まあ良いか、自分はパンを買いに来ただけなんだからと言い聞かせていると、
前の中年女性が財布の中のカードを出したり入れたりしている。
「ポイントカードが見当たらなくて、先にどうぞ」
そう言って順番を譲られた。
「あ、どうも」
突然でろくな礼も言えなかった。
三角巾の可愛らしい制服姿のミサキが笑顔で迎えてくれる。
「いらっしゃいませ。これからですか?」
アルバイト前だと思われたようだ。
「いや、暇だったからパンを買いに。運動がてら。」
自分に確かめるようにそう言う。
ミサキが手際よくパンを袋へ入れていく。その細い指先を見つめてしまう。
「レジ袋ください」
カイトが言うと「はい」と明るい返事があった。
保冷バッグを渡さなくては、
そう思うが何せ後ろに人がずいぶんいる。
「ポイントカードはありますか?」
「あります」
京王ポイントカードのアプリを急いで立ち上げる。
バーコードが出てこない。
「電波が悪いかな」
まだバーコードの部分だけ白い。
「時々あるんですよね、こう言う時に限って」
ミサキが言った。
それがあまりに自然な声だったからか、
自分でも何がきっかけかわからないが、急に気持ちが盛り上がった。
「バイト、終わるまで待ってて良いですか」
気がついたらそう口走っていた。
ミサキがやっと出てきたバーコード読み込む。
「あ、はい!全然・・・!大丈夫です」
「じゃあ待ってます。支払いはパスモで」
ピピっと会計が終わる。
「レシートです」
台の袋を持ってミサキからレシートを受け取った。
「また後で」と言って自動ドアを出る。
振り返ると、店の中はトレーとトングを持つ人でいっぱいだ。
レジのミサキはサンドイッチの冷蔵棚でよく見えない。
急に胸がドキドキしてきた。
8/5水曜日
朝から洗濯をして、トイレ掃除をして、ベッドのシーツを替える。
人が来るわけではない。なんとなく体が動いてしまう。
朝昨日買ったパンを食べた。昼食にレトルトカレーを食べる。そう言えば昨日もカレーパンを食べたと思い出す。
昨日ミサキを待つ間に読もうと買った文庫本の続きを読もうとするが昨日から全く頭に入らない。
しおりがわりのパン屋のポイントカードを見つめる。
保冷バッグを返すだけなのに暇だからと2時間近く待った。あまりに不自然な間なのに、ミサキは急いで来てくれた。
門限とバスの時間もあって20分ほどしか話せなかったが、ケーキ屋の前のバス停までミサキと歩いてベンチに並んで座った。
保冷バッグと差し入れにペットボトルのお茶を渡す。無難に麦茶というチョイスがカイト的にもどうなのかとは思ったが、喜んでくれたのでよしとした。
ミサキが思い出して自分の鞄から丁寧にポイントカードを渡して来た。
「さっき渡し忘れてしまって」
500円で1つスタンプをくれるのだという。
残りの時間で教科書に載っていた文豪作品の話になって、麻布で文豪とイラストレーターがコラボしたシリーズの作品展があるとミサキが言うので、一緒に行こうかと言う話になった。
「え、良いんですか?乙女の・・・とかついてるんですけど」
「文豪作品ならわかるし、面白そうです」
特別好きなわけではないが一通りは読んでいる。
何よりミサキと出かけられる。
バスが来てしまったので、詳細はDMでとなった。
バスの窓で小さく手を振るミサキはーーー
とにかく可愛かった。
思い出しただけで胸が熱い。
帰ってからのやり取りで8月20日に決まった。
その前に埼玉の実家にも顔を出さないとな、ともよぎる。
昨日も寝付けなかったからかそこから記憶がなくて、
「ピ ピ ピ」
電子音で目が覚めた。
スマホを見る。
15:42
(今、明らかに音が大きくなかったか?)
電池が不安定なのだろうか。
寝ぼけているからか。
ハッキリと部屋に響いたと感じた。
8/6木曜日
午前9時48分
店長から電話があった。
「ごめんキムラ君、明日オープンから14時まで入れないかな?昼の人がお子さんインフルで来られなくなっちゃって・・・オノダさんが15時半から入ってくれるんだけどその前の人がいなくて」
いつもの時間と全く違うイレギュラーだ。かなり人がいないらしい。他店応援も視野に入れるために夕方の出勤を待たず電話をしてきたんだとすぐに察した。
「大丈夫です。何も予定ないんで」
電話の向こうでアヤセがホッとしているのがわかる。
「ありがとう、恩にきるよ。午前中はやっと都合つけたケアマネジャーと打ち合わせが入っていて。でも16時から入るから」
電話が切られた後、明日は休みだったはずなのにとカイトは思った。同居の母親の介護とあと確か小学生の子供がいるそうだし、奥さんは海外出張もあるらしく店長より忙しいそうだ。
大人は大変だな、と思う。
店長の電話で目が覚めたのでそのまま図書館へ向かう。せっかくミサキと文豪コラボの展示に行くなら読み直したい。
煉瓦造りの古い図書館で目当ての本を借りる。
「赤い蝋燭と人魚」「鏡地獄」もう一冊借りたかったが他館取り寄せになった。
帰りにドラッグストアでトイレットペーパーを買う。
13時少し過ぎに家に戻った。
クーラーをつけたまま出かけたので部屋の中が天国かと思った。
シャワーを浴びるとさらに涼しい。
昼食のカップ麺を食べて、
クーラーの風の極楽を味わいつつ「赤い蝋燭と人魚」を読んだ。昔絵本で読んだので印象が違う気がした。
LINEが鳴って高校からの友人とやりとりする。大学の人間関係に色々疲れているらしい、今度夕飯でもたべようと伝えてスマホを閉じる。
「鏡地獄」を読み始める。
実は初めて読む作品だった。
短い物語だ。
鏡に昏倒した男が最後には球体の鏡の中で発狂してやがて命を落とす。その友人が彼の一生を見守ってきて、いかに恐ろしい体験だったかを語っている。
読後はスッキリしない話だ。
他の人間のようにさっさと見捨てれば良いのにと言ったら物語にはならないが、結局この友人というのも鏡狂いの男の観察を止めることができなかったのだ。
他の人間のように、どうでも良いと切り捨てず・・・
その時だった。
まさに四方に貼られた鏡に反射するようにその音は鳴った。
ピ
ピ
ピ
「なんだ・・・?」
カイトは今まで以上の違和感を覚えた。
スマホを見た。
15:41
読んだ本の影響だろうか。その音は妙に耳にこびりついて、ざわりとした嫌な不安が残された。
8/7日金曜日
目が覚めると空が青くてホッとした。
昨日はさっさと布団に丸まった。
暗くなっていくのが嫌で、
インスタを見て、YouTubeで笑える動画を流し、懐かしいアニメなんかまで見直して
スマホの音楽をかけながら寝た。
そのせいか妙に頭がぼうっとする。
よりにもよってオープンからなのに。
重い頭を奮い起こす。
時間は午前8時40分
早めにつきたいので9時20分には出よう。
支度をして予定通り玄関を開くともう熱い。
「向こう着いたら汗だくだな」
そう覚悟して自転車にまたがる。
蝉が鳴いている。昼は暑すぎて鳴けないらしいのでここぞとばかりに鳴くのだろう。
ボディシートで汗を拭ったら時間がギリギリになってしまった。最初に研修で聞いただけのオープンの仕事を朝のメンバーとこなした。
客さえ来ればいつも通りだ。
4時間のバイトは無事に終わった。
たまには野菜を食べようとモスバーガーに寄った。一個じゃ足りず2個は食べるので贅沢だが、体にも心にも今は必要な栄養だった。
駐輪場へ戻る時、楕円のバスロータリーの向こうにケーキ屋が見えた。
その斜め前にロータリーの円に沿って大きめの横断歩道がある。その奥に続く二車線の道路は両側に路駐が多い割にバスの行き来もあって、バスが器用に路駐車をウネウネと避けていった。
車の免許が欲しいとは思うが、こういう道を乗り越えられるかと考えると自信がない。
時計を見た。
14:58
1時間もしないで、ミサキがミニバスであのケーキ屋の前にくるのかと思うとなんだか立ち去るのが勿体無いような気持ちになった。
バスの時間を教えてくれた店長のことはすっかり忘れていた。
とはいえ暑いし、そんなストーカーのようなことはできない。
帰ろう。
駐輪場への地下へ続くトンネルへ降りて行った。
部屋に帰りたくない気がしていた。
しかしそれでもノロノロと自転車は家へ向かう。
鏡の男の友人も、彼の家に向かうときはこんな気持ちだったのではないだろうか。
怖い、しかし確認もしたい。
アパートの駐輪場へ自転車を停める。
スマホを見た。
15:22
ゆっくり走ったと思ったが、意外と早かった。
2階へ上がる。
鍵を開ける。
いつも通りの部屋。
「ただいま」と言った声が部屋の中に散っていく。
クーラーのスイッチを入れると「ピピっ」と鳴って思わずドキッとした。
スマホを見ると15:26
ピロン
と、LINEの通知音がスマホの振動と合わさる。
ミサキの名前を見てすぐタップした。
『鏡地獄、ウェブで読めたので読みました。すごく不思議な話でした。今度会った時にお話ししたいです。今はバイトに行くバスの中です』
絵文字スタンプで猫が頑張るぞのポーズをしている。
(癒される・・・)
カイトは返事を打つ。
『ぜひ話したいです。アルバイト頑張って。』
がんば、まで打ったら出て来た絵文字を入れた。
そういえば、と思い出す。
『同じバスにうちの店長が乗ってると思います』
どうでも良いことだがミサキに何か話題を振りたかった。
返事は早い。
『わかります。そうかなあって思っていました!ご挨拶した方がいいでしょうか。わかるかな。』
心配顔の猫のスタンプ。
『しなくてもいいと思いますよ』
なんとなく親指を立てたスタンプをつける。
『じゃあやめておきます』
猫が泣き笑いしている。
『もうすぐバス停です。この間、バス停前のケーキ屋さんでコーヒーを飲んだら水出しコーヒーの素敵な機械で淹れていて。すごく美味しかったです』
インスタには流れてこなかった話だ。
少し間があった。
『展覧会の前にもし時間があったら行きませんか、15日までの割引券をもらったんです』
ポンっと入って来たミサキの誘いで、カイトがホッとして、
そして不安の薄い層がゆらりと増えた。
15:36
スマホの時計はいつの間にか進んでいた。
『行きたいです』
なんの捻りもない返事を送ってしまう。
『バス着くので、バイト終わったらまた連絡します』
猫が行ってくるというように片手をあげている。
口の端は緩むのに、心臓が脈を打つのを喉のすぐ下で感じる。
薄い薄い膜が音もなくいつの間にか深く暗くなって重なっている。
15:38
つきましたと、猫が車に乗ったスタンプが送られて来た。
スマホから
その猫から
目がなぜか離せなかった。
今頃ミサキはICカードを読み込ませる列に並んで、バスのステップを降りて、銀行の前に降り立って
右手にすぐケーキ屋があるはずだ。
そのとき、スマホの左上の時計が変わる。
15:40
「ピーーーーーーーーーーーーーー」
刺すような電子音は明らかに部屋のどこかで鳴っていた。カイトの肌に突き刺さり鳥肌を立たせる。
心臓が不快な何かで絞られたように苦しくなる。
足首を掴むような不安で冷や汗が吹き出す。
「ピーーーーーーーーーーーーーーー」
音は鳴り止まない。
ほぼ反射的に、ミサキのライン電話のマークをタップした。
コールが鳴る
鳴る
鳴る
長い
手が震えてくる。
なんでだろうか、
嫌な
とても嫌な感覚だった。
出てくれ、
出てくれと祈る
コールが途切れた。
「キムラさん??どうかしましたか?」
ミサキの声にどっと力が抜ける。
部屋の音が止んでいた。
乾いた口が緩みなんて言おうか口を開いた、
瞬間
ミサキの後ろの音がざわめいた。叫び声がする。
「あ、え?うそっ・・・
きゃああああああああ!!!!」
電話の向こうでミサキの悲鳴が聞こえた。
「イノモトさん!?」
家を飛び出た。
通話のまま滑る指でイヤホンをする。
玄関を閉めたかもわからない。
自転車に飛び乗り、必死で走った。
その間もミサキの名前を呼び続けた。
やっとまともな返事があった。
「キ、キムラさん・・・!店長さんっ店長さんがっ・・・!」
混乱し切った震える声がした。
いつもは15分かからないくらいの道のりをかなり早く漕ぎ切る。
バスのロータリーは騒然としていた。
青い軽自動車がバスの後ろでぐちゃぐちゃになって倒れていた。
人々が固まるように集まり、
駅前の警察官が必死で応援を頼んでいる。
ケーキ屋の前の背もたれのついたベンチにミサキがおばあさんに背中をさすられながら小さくなって座り込んでいた。
「イノモトさん!!!」
自転車を放り、髪も顔もぐしゃぐしゃにしたミサキがこちらを見て立ち上がり、
縋り付くようにカイトの胸に飛び込んできた。
遠くで救急車やパトカーが何台も近づく音がする。
人だかりの中に、男性が倒れているような様子が見えた。
そして自分の足元に、
ボールチェーンが千切れてしまっている、パンをかぶったネズミのキャラクターキーホルダーが転がっていた。
ーーーーー
8/10月曜日
昼まで寝ていようと思っていたのに
早く目が覚めた。
8:30
スマホのニュースで事件を検索する。
昨日、一昨日まで動画があったが、文字の記事しか出てこなかった。
【駅前暴走事故 続報】
とタイトルがある。
ーーー警視庁によりますと、事故が起きたのは7日午後3時40分ごろ。
50代の女性が運転する軽乗用車が歩道に乗り上げ、信号待ちをしていた歩行者らを次々とはねたあと、停車中の路線バスに衝突しました。
この事故で、軽乗用車を運転していた女性は搬送先の病院で死亡が確認されました。
また、5歳の男児、その30代母親、40代男性を含むあわせて5人が重軽傷を負いましたが、いずれも命に別状はないということです。
現場は緩やかなカーブとなっているうえ、日頃から路上駐車が多く見通しが悪い場所として知られており、事故当時も複数の駐車車両が確認されていたということです。
警視庁は、女性が路上駐車車両を避けようとした際に運転操作を誤った可能性もあるとみてーーーー
カイトはスマホを閉じて読むのをやめた。
昨日のシフトで店長は複雑骨折で長期入院になるが、意識はあり「やっと本が読めるよ」と冗談まで言えたらしい。
ミサキにはあのあと両親が迎えに来るまで付き添った。目の前で起きた事故のショックで駅前に来るのが辛いと休職するそうだ。
1日一度、声が聞きたいからと電話がかかってくる。こんな状況で自分でも呆れるが、頼られるのは嬉しかった。
スマホの画面を撫でて、その暗い面にいつも通りの少し疲れた自分の顔が映る。
何も変わらない部屋を眺める。
昨日夜に手洗いして干したバイトのTシャツが窓辺ではためいている。
電車が走っていく。
どう捨てたらいいかわからない時計が冷蔵庫の上に相変わらずある。
ここも、
バスロータリーも、パン屋も本屋もケーキ屋も、
また日常の風景に戻っている。
あの電子音はあれから消えた。
結局なんだったんだろうか。
あの時もし電話をしていなかったら。
今頃ミサキは・・・
考えても仕方がないことだとカイトはベッドから降りた。
スマホを片手に持ってしまうのは癖だ。
ふと画面を見ると明るく光って
8:58
と表示した。
その時、微かに
そして確かに、聞こえたのだ。
「ピ ピ ピ」




