第三部第一話:地王界の夜明け、群青の境界
第三部第一話:地王界の夜明け、群青の境界
現世を分断する大結界が張られてより、大陸の中心に位置する混沌の大地は、いつしか「地王界」と呼ばれるようになっていた。
その世界の主たる住人は、かつて神々や魔王の気まぐれに怯えていた人間や亜人たち――いまや自らの足で大地に立つ「地王族」である。
しかし、その地王界は決して完全なる一枚岩の独立国家ではない。
未だに魔王族や各王族の影響力は深く根を張っており、支配から脱しきれていない辺境の地域や部族は数多く存在していた。
地王界最大の王国であるミレトーでさえも、歴史的な慣習から天王族や魔王族といった他界の超越者を信仰する者は後を絶たなかった。
なぜなら、新興の地王族には、他界のような絶対的な「神」と呼べる超常の存在が不在だったからである。
強いて言うならば、人々の体内から響く脈動の顕現たる「地王玉」こそが彼らの信仰の拠り所であった。
大結界の成立以降、彼らが授かった恩恵は、自らの肉体と魂の深淵から直接捻り出される内なる力――「地王力」であった。
地王玉から直接的な奇跡を授かる者はごく僅かであり、力の大半は個々の研鑽によって開花するものだった。
ミレトーを中心に、この地王力を発現させた先駆者たちは「地王教会」と呼ばれる組織に属していた。
彼らは磨き上げた王力を以て、未だ力を持たぬ弱き者たちへ癒しと施しを与え、新時代の秩序を維持する役割を担っている。
そして、その地王教会の頂点に戴戴として君臨しているのが、かつて天王族の聖女であり、今は一児の母となった地王母リーヴィスであった。
「私は神などではありません。ただ、皆さんが心の声を聞くための、少しばかり先を歩む指導者に過ぎないのです」
白銀の法衣を纏い、神聖な美しさを湛えたリーヴィスは、民からの過剰な崇拝に対し、いつも穏やかに、しかし毅然としてそれを否定していた。
だが、同時に彼女は聡明であった。
混沌の過渡期にある大衆には、目に見え、触れることのできる「理解しやすい絶対的なシンボル」がどうしても必要であることも痛感していた。
それ故に、彼女は自らが現世の神輿として担がれる不自由さを甘んじて受け入れ、人々の心の拠り所として慈愛の微笑みを絶やさずにいた。
そして、そんな地王教会の精神的な光に対し、民を惹きつけるもう一方の絶対的な信仰の対象が、他王族との血戦に身を投じる大地王グランバード――すなわち、レイス(レイ)の存在であった。
レイスは、地王界を他ならぬ「地王族自らのもの」にするため、大結界の内縁へと自ら進み出で、今なお蔓延る他王族の軍勢と苛烈な戦いを繰り広げていた。
漆黒の外套をなびかせ、地王玉の絶対的な破壊力を振るう彼の強さは、まさに圧倒的の一語に尽きた。
レイスが戦場を駆けるたび、地王界の土壌に深く巣食っていた悍ましき魔王族の残党たちは次々と駆逐され、黒い血を流して大地へと還っていった。
その武勲を前に、周囲の多くの亜人の部族も次々とレイスの支配下に参入し、この世界から魔王族の脅威が完全に追放されるのも、もはや時間の問題であるかのように思われた。
そして、多くの人民の忠誠と畏怖がレイスという一人の英雄に集まれば集まるほど、その因果に呼応するように地王玉はまばゆい光を放ち、地王界の隅々まで濃密な地王力を満たしていった。
その満ちゆく地王力は、極めて特異な性質を持っていた。
それには「聖」と「邪」の両面が、狂いなく同居していたのだ。
竜王族や冥王族、あるいは海王族といった既存の超越種族にも、聖なる系譜と邪なる系譜は存在する。
しかし、彼らのほとんどは自らの属性のどちらか一方に極端に傾倒し、対立する属性を拒絶するのが理であった。
だが、地王族の力はそのどちらでもあり、同時にどちらでもなかった。
彼らは祝福され、泥に塗れ、清濁を併せ呑んで生きる存在。
それ故に、彼らは神聖な光の洗礼にも、禍々しい闇の呪詛にも、その両方に対して奇妙な「耐性」を持つ、極めて頑強な精神構造を有していた。
これまでは、天王族に平伏して慈悲を乞うか、魔王族に屈従して奴隷となることでしか生命を長らえさせることができなかった脆弱な人間と亜人。
しかし今、彼らは「地王族」という誇り高き独立した名を名乗り、ついに神々の支配する現世において、第六の王族として他の絶対的な五大王族と堂々に肩を並べるまでに至ったのである。
戦いと旅路の果て、大地の南の最果てへと辿り着いたレイスは、岩肌の断崖の上に立ち、己の人生で初めて目にする「その光景」に圧倒されていた。
地平線の向こうまで果てしなく広がる、圧倒的な群青の質量。
激しくうねり、白波を立てて断崖へと激突する水の塊。
大地に生きてきたレイスにとって、それは未知の驚威であり、息を呑むほどに美しい絶景であった。
「――これが、海ってやつか」
レイスは深緑の瞳を細め、潮風に前髪を揺らされながら低く呟いた。
鼻腔を突く強い潮の香りと、大気を震わせる轟音。
だが、彼が警戒したのはその自然の雄大さだけではない。
その広大な水の世界は、紛れもなく「海王族」が絶対的な支配権を握る領域であった。
海原から吹き付ける風には、レイスの持つ地王力をじりじりと威嚇するような、濃厚で冷徹な「海王力」が満ち満ちていたのだ。
大結界が世界を分断し、新しき命が息吹き、第六の王族が産声を上げてから、瞬く間に時は流れた。
時代は地王族の歩みとともに刻まれる。
――地王暦二年のことである。
大地の支配を確立しつつあるレイスの前に、今度は深き海の深淵から、新たなる運命の嵐がその牙を剥こうとしていた。




