第9話 消えかけの存在
広場のざわめきは、昨日と変わらない。
いや――変わっていないように“見える”だけだ。
俺はゆっくりと歩く。
人の肩にぶつかる。
感触はある。
「すまない」
反射的に謝る。
だが相手の男は、怪訝そうに周囲を見回すだけだ。
「……?」
俺を見ていない。
いや、正確には――焦点が合わない。
視界の端に映る程度の存在。
通行人の一部。
それ以上ではない。
「削れた」
隣でミアが言う。
彼女だけが、はっきりと俺を見る。
「昨日、大きく削ったから」
「拘束の成功を消した」
「うん。それ、重い」
重い。
世界の“記録”を直接改変した。
街道の魔狼とは規模が違う。
俺は深く息を吐く。
酒場へ戻る。
店主の女は、こちらをちらりと見る。
「……あんた、昨日の」
一瞬、視線が合う。
安堵しかけた、その瞬間。
「いや、違うか」
視線が外れる。
興味が消える。
記憶が、滑り落ちる。
俺は何も言わず、カウンターに銀貨を置いた。
「水を」
女は無言で差し出す。
金を払えば、サービスは提供される。
だが、それだけだ。
関係は築かれない。
昨日の会話も、心配も、存在しない。
水を飲み干し、外へ出る。
御者の男が荷をまとめている。
近づく。
「街道は、無事か」
声をかける。
男は振り向き、目を細める。
「……あんた、誰だ?」
心臓が、静かに冷える。
「昨日、魔狼から」
「魔狼? 三頭のか?」
「ヒーラーがいた」
男は笑う。
「いや、俺ひとりで何とかしたんだ。運が良かった」
誇らしげだ。
削られたのは、感謝だけではない。
俺という存在ごと。
ミアが小さく息を吐く。
「アルド、あなたは“通過点”になってる」
「通過点」
「因果は残る。でも、あなたは残らない」
つまり。
結果は存在する。
だが、それを生んだ“原因”としての俺は、削除される。
都合の悪い誤差のように。
広場の中央に立つ。
目を閉じる。
人の流れが、俺を避ける。
無意識に。
ぶつからない。
視線が合わない。
存在が、薄い。
「……まだ、触れられる」
拳を握る。
力はある。
魔法も使える。
だが、記録に刻まれない。
そのとき。
悲鳴が上がった。
「誰か! 助けて!」
井戸の縁で、幼い子供が足を滑らせる。
落ちる。
水面が遠い。
周囲の大人が気づくのは、遅い。
時間は一瞬。
削れば、救える。
だが。
削れば、さらに薄れる。
俺は動かない。
初めて、動かなかった。
子供が落ちる。
水音。
騒ぎ。
大人たちが駆け寄る。
縄が投げられる。
数分後、引き上げられる。
咳き込むが、生きている。
運が良かった。
そういうことになる。
俺は、何もしていない。
何も削っていない。
胸の結晶は、ひび割れたまま。
増えていない。
「……助かった」
子供の母親が泣き崩れる。
周囲が安堵する。
誰も、俺を見ない。
当然だ。
俺は、何もしていない。
「今の、削らなかった」
ミアが言う。
「ああ」
「怖かった?」
少し、考える。
「……怖かった」
削るのも。
削らないのも。
どちらも。
井戸の水面に、自分の姿が映る。
輪郭が、揺らぐ。
水の揺れではない。
俺自身が、安定していない。
背筋に冷たいものが走る。
遠く。
鐘の音が鳴る。
規則的で、冷たい。
ミアが顔を上げる。
「来る」
広場の端。
黒い外套が、三人。
今度は隠していない。
円環の紋章が、はっきりと光る。
「対象確認」
「存在確率、低下傾向」
「排除許可、未取得」
淡々とした声。
人々は気づかない。
だが、俺は理解する。
観測は続いている。
削らなくても。
削っても。
俺は、彼らに見られている。
「アルド」
ミアが袖を掴む。
「今度は、逃げられないかも」
俺は、ゆっくりと息を吐く。
守ることが、弱さになるなら。
削ることが、戦いになるなら。
もう。
選ばなければならない。
消えるか。
戦うか。
黒外套のひとりが、一歩前へ出る。
「アルド・レヴァイン」
名を、はっきりと呼ぶ。
「あなたは、歴史侵食因子として認定された」
広場の空気が、わずかに震えた。
誰も気づかない。
だが。
俺の中で、何かが決まる音がした。
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