第8話 名前のない宿帳
広場の喧騒は、まるで何も起きていないかのように続いていた。
記録院の執行官が現れ、拘束し、そして失敗した。
その事実は、誰の記憶にも残っていない。
俺と、少女を除いて。
「ここは、長くいないほうがいい」
少女が言う。
「あなたは、もう観測対象」
「観測、か」
「うん。削るたびに、記録が揺れる。揺れは、向こうに届く」
向こう。
世界の裏側。
記録院。
俺は深く息を吐く。
「お前はなぜ、覚えている」
「わからない」
即答だった。
「でも、消えない」
少女は胸に手を当てる。
「あなたが削った事象、私は“両方”見える」
「両方?」
「削る前と、削った後」
そんな存在がいるのか。
胸の結晶が、わずかに反応する。
共鳴。
「名はないと言ったな」
「うん」
「なら……ミア」
口をついて出た。
「ミア?」
「呼びやすい」
少女――ミアは、少しだけ目を丸くし、それから小さく笑った。
「ミア」
自分の名を確かめるように、呟く。
その瞬間、空気が静かに整う。
存在が、わずかに固定された気がした。
名は、記録だ。
名付けは、刻印。
俺は理解する。
彼女は、記録の外側にいる。
だから、削られない。
「アルド」
ミアが真っ直ぐに俺を見る。
「あなた、消えないで」
簡単な言葉。
だが、胸に重い。
「消えたくはない」
本音だった。
守りたい。
生きたい。
忘れられたくはない。
だが。
守るたびに、削る。
削るたびに、薄れる。
「今は、休んで」
ミアが言う。
「削りすぎ」
俺は頷き、酒場へ戻る。
店主の女が、怪訝そうに見る。
「顔色が悪いよ、ヒーラー」
「少し、疲れただけだ」
「無理するな」
その言葉に、胸が温かくなる。
まだ、覚えられている。
部屋へ戻る。
鍵をかける。
鏡の前に立つ。
輪郭が、さらに薄い。
指先は明らかに透けている。
触れれば、確かな感触はある。
だが、視覚が信用できない。
ベッドに倒れ込む。
天井を見上げる。
守ることが、弱さになるなら。
削ることが、罪になるなら。
俺は、どこへ行けばいい。
いつの間にか、眠りに落ちていた。
――
翌朝。
目が覚める。
光が差し込む。
まず、手を見る。
透けている。
昨日より、はっきりと。
嫌な予感が走る。
階下へ降りる。
酒場は静かだ。
店主が帳簿をめくっている。
「……あんた、誰だい?」
心臓が、跳ねる。
「昨日、泊まった」
「うちに?」
女は眉をひそめる。
「昨日は満室だったよ」
帳簿を覗く。
そこには。
アルドの名が、ない。
空白。
昨日、確かに書いた。
女が書いた。
刻まれたはずの文字が、消えている。
「銀貨は払った」
「払ってない」
即答。
嘘ではない。
帳簿に記録がない以上、支払いも存在しない。
胸が、冷える。
「……そうか」
俺は銀貨を置く。
「なら、今払う」
女は怪訝そうに受け取る。
「妙な客だね」
妙なのは、俺だ。
外へ出る。
広場。
御者の姿がある。
近づく。
「昨日の」
声をかける。
彼は振り向き、首を傾げる。
「昨日?」
「街道で」
「街道は通ったが……三頭の魔狼だけだったぞ」
そこまでは覚えている。
だが。
「ヒーラーに助けられた」
「……ヒーラー?」
彼は笑う。
「いなかったさ。運が良かっただけだ」
喉が、乾く。
感謝も。
銀貨も。
存在しない。
ミアが、俺の袖を掴む。
「削れた」
小さな声。
「昨日、削りすぎ」
削ったのは、拘束の成功。
だがその代償は。
俺と、世界の接点。
広場の空気が、遠い。
人々の声が、薄い。
まるで、水の中にいるようだ。
「アルド」
ミアだけが、はっきりと呼ぶ。
その名が、唯一の錨。
俺は自分の胸に手を当てる。
結晶は、ほとんど崩れている。
光は、かすか。
次に大きく削れば。
本当に、消える。
それでも。
守ることを、やめられるか。
答えは、出ない。
空を見上げる。
朝の光が眩しい。
世界は、俺を必要としていない。
だが。
誰かを救えば、また削る。
削れば、また薄れる。
それでも。
俺は、ここにいる。
……今は、まだ。




