第6話 観測者の影
翌朝。
目覚めた瞬間、まず自分の手を見た。
指は、ある。
透けてはいない。
安堵と同時に、情けなさが込み上げる。
存在していることを確認しなければならないなど、滑稽だ。
身支度を整え、階下へ降りる。
酒場はまだ静かで、店主の女だけがカウンターを拭いていた。
「おはよう、ヒーラー」
顔を上げる。
覚えている。
昨夜、名前を書いた。
俺は何気なく帳簿を覗く。
そこには、確かに記されていた。
アルド。
安堵が胸を満たす。
「朝飯はどうする」
「頼む」
女は手際よく皿を並べる。
「昨日は騒ぎだったね」
「魔狼の件か」
「ああ。御者の男、あんたのこと探してたよ」
箸を持つ手が止まる。
「俺を?」
「助けてくれたヒーラーがいたって。礼を言いたいってさ」
削られていない。
完全ではない。
まだ、残っている。
女は俺の顔をまじまじと見た。
「どうした。顔色悪いよ」
「……いや」
食事を済ませ、外へ出る。
空は高く晴れている。
だが、胸の奥の結晶が落ち着かない。
昨夜の少女。
そして、あの黒い影。
ただの偶然とは思えない。
広場へ向かう。
御者の男が荷を整えていた。
俺に気づき、顔を明るくする。
「あっ、あんた!」
駆け寄ってくる。
「アルドさんだったよな!」
はっきりと名を呼ぶ。
胸の奥が、わずかに温かくなる。
「助かったよ。本当に」
深々と頭を下げる。
「昨日は、なんか数を勘違いしてたみたいでな。三頭だけだったのに、大騒ぎしちまった」
彼は照れ笑いを浮かべる。
三頭。
それが、今の世界の事実だ。
「気にするな」
「いや、礼は言わせてくれ。これ、少ないが」
差し出されたのは小さな袋。
受け取る。
中身は銀貨数枚。
報酬ではない。
感謝だ。
その重みが、胸に刺さる。
「……ありがとう」
言葉が自然に出る。
その瞬間。
胸の結晶が、微かに震えた。
視界が一瞬、白く揺らぐ。
御者の顔が、かすむ。
「……?」
彼が首を傾げる。
「すまない。少し、疲れているだけだ」
言い訳のように告げる。
彼は心配そうに眉を寄せるが、すぐに笑った。
「無理すんなよ、ヒーラー」
ヒーラー。
名ではなく、役割。
それでもいい。
広場を離れる。
背後から、視線を感じる。
振り向く。
白い外套。
昨夜の少女が立っていた。
今度ははっきりと、こちらを見ている。
人々の喧騒の中で、彼女だけが静止しているようだった。
俺は近づく。
「昨夜の」
少女は頷く。
瞳は澄んだ蒼。
「あなた、消えかけている」
唐突な言葉。
「何の話だ」
「あなたの輪郭が、揺れている」
周囲の人間は、誰も彼女の言葉を気にしない。
まるで、俺たちだけが別の層にいるかのように。
「どうしてわかる」
「わかるから」
簡潔すぎる答え。
だが、嘘ではない。
「あなたが削った」
少女は続ける。
「昨日、街道で」
心臓が跳ねる。
「三頭じゃなかった」
彼女の視線は、揺らがない。
「もっといた。もっと、死んだ」
喉が乾く。
この世界で、その事実を認識している者がいる。
「……誰だ」
少女は少し考えるように目を細める。
「まだ、名はない」
「まだ?」
「あなたが決める」
意味がわからない。
だが、胸の結晶が彼女に反応している。
警戒ではない。
共鳴。
その瞬間。
背後で足音が止まった。
「確認」
低い声。
振り向く。
黒い外套の人物が立っている。
顔は仮面で隠され、胸元には銀の紋章。
記録を象徴する、円環の印。
少女が小さく息を呑む。
「観測者」
黒外套は、俺を見据える。
「因果干渉を検知。対象、アルド・レヴァイン」
名を呼ばれる。
胸の奥が冷える。
「お前は何者だ」
問いかける。
黒外套は淡々と告げる。
「記録院。歴史保全執行官」
記録院。
その言葉に、少女の表情が強張る。
「あなたは、過剰に削っている」
黒外套は言う。
「世界の整合性が乱れる」
「守っただけだ」
「結果は同じだ」
一歩、近づいてくる。
圧がある。
戦闘の気配ではない。
もっと冷たい。
「アルド・レヴァイン。あなたは危険因子だ」
危険。
俺が。
胸の結晶が、ひび割れる音を立てる。
少女が、俺の袖を掴む。
「逃げて」
その声は、震えていた。
黒外套の仮面の奥で、何かが光る。
「拘束を開始する」
空気が張り詰める。
広場の喧騒は、まだ続いている。
誰も、異変に気づかない。
俺は一歩、下がる。
守ることが、弱さになるなら。
削ることは、罪になるのか。
答えを出す暇もなく。
黒外套の足元に、淡い円陣が浮かび上がった。
本話もお読みいただき、ありがとうございました!
少しでも続きが気になる、と感じていただけましたら、
ブックマーク や 評価 をお願いします。
応援が励みになります!
これからもどうぞよろしくお願いします!




