第5話 感謝されない英雄
町の門をくぐった頃には、空は茜色に染まっていた。
小さな交易町だ。石造りの家々が並び、中央に井戸と広場がある。旅人の出入りも多く、俺のような流れ者が目立つことはない。
……目立たないはずだ。
門番は俺を一瞥し、特に何も言わなかった。
通行税も、名の確認もない。
ただ、そこに“通っていい人間”として処理された。
安堵と、わずかな不安が同時に胸をよぎる。
俺は広場へ向かう。
騒ぎが起きていた。
「魔狼が出たらしいぞ」
「街道の先だって」
「でも三頭だけだったんだろ? 大したことない」
三頭。
俺が削った数だ。
十数頭の襲撃は、三頭の徘徊へと縮小された。
被害は軽微。
死者なし。
それでいい。
それが、俺の選択だ。
だが。
「大げさな御者だな。三頭で腰抜かすなんて」
「はは、まあ命拾いしたんだからいいじゃないか」
笑い声が上がる。
あの男は、きっと今ごろ酒場で武勇伝を語っているだろう。
“運良く助かった”と。
俺はその輪の外を通り過ぎる。
酒場の扉を押し開ける。
中は賑やかだ。
御者の姿もあった。
「それでな! 突然三頭の魔狼が飛び出してきたんだ!」
「三頭でそんなに騒ぐなよ!」
笑いが起きる。
御者は頭をかきながら言う。
「いや、俺もそう思うんだが……なんか、もっといた気がしてな」
彼は首を傾げる。
「まあ、気のせいか」
そう言って、ジョッキをあおる。
俺はカウンターの端に腰を下ろした。
「部屋はあるか」
店主の女が顔を上げる。
赤い髪を後ろで束ねた、年上の女性だ。鋭い目つきだが、どこか温かい。
「あるよ。一泊銀貨二枚」
俺は硬貨を置く。
「名前は?」
問いは自然だ。
だが一瞬、息が詰まる。
書けば、また削れるかもしれない。
それでも。
「アルド」
女は紙に書き留める。
しっかりと、刻むように。
「アルド、ね。変わった響きだ」
「そうか」
「何をする人だい」
「ヒーラーだ」
女は鼻を鳴らす。
「ヒーラーか。うちの町にも欲しいね」
軽口のようで、本音だ。
俺は部屋の鍵を受け取り、二階へ上がる。
狭い部屋だが、寝るには十分だ。
窓を開けると、町の灯りが見える。
胸の結晶に触れる。
ひびは、確実に増えている。
指先が、ほんのわずかに透ける。
鏡を覗く。
顔は、ある。
目も、鼻も、口も。
だが、輪郭が薄い気がする。
疲れているだけだ。
そう自分に言い聞かせる。
ベッドに腰を下ろす。
静寂。
そして。
微かな、違和感。
部屋の空気が、わずかに揺れた。
耳鳴り。
胸の結晶が、微光を放つ。
誰かが、こちらを“見た”。
そんな感覚。
窓の外を見る。
広場の端。
白い外套の少女が立っている。
月明かりに照らされ、銀の髪が揺れる。
こちらを、まっすぐ見ていた。
視線が合う。
少女は、わずかに目を見開く。
驚いたように。
そして、呟いた。
声は届かない。
だが、唇の動きは読めた。
――消えない。
次の瞬間、彼女は人波に紛れ、姿を消した。
俺は立ち上がる。
階段を駆け下り、外へ出る。
広場には、もう誰もいない。
夜風が吹くだけだ。
幻か。
いや。
あの目は、確かに俺を見ていた。
“認識”していた。
削られなかった。
胸の奥が、かすかに熱を帯びる。
誰かが、俺を覚えている。
それだけで。
世界に、まだ繋がっている気がした。
だが同時に。
遠く、鐘のような音が響く。
耳鳴りではない。
もっと、規則的な。
胸の結晶が、震える。
警告のように。
どこかで。
俺の干渉を、観測した者がいる。
広場の影の奥。
一瞬だけ、黒い外套の人影が見えた気がした。
だが、次の瞬間には消えている。
見間違いか。
それとも。
削る者は、削られる側にもなる。
そんな予感が、背筋を冷やした。
俺は夜空を見上げる。
星は、いつも通り瞬いている。
だがその光が、ほんのわずかに欠けたように見えた。




