第15話 未記録層
音が、ない。
風も、水も、鼓動も。
何もない。
あるのは、白。
白とも言えない、色のない空間。
上下もない。
重力もない。
ただ、漂っている。
……ここは。
意識が、ゆっくりと形を取り戻す。
体を動かそうとする。
感覚がない。
だが、消えてはいない。
俺は“ある”。
それだけはわかる。
「……生きているのか」
声は出ない。
思考だけが、波紋のように広がる。
未記録層。
言葉が、浮かぶ。
リゼの言葉ではない。
もっと奥。
削り続けた果てに、触れてはいけない場所。
世界の“外”。
記録されない領域。
だから。
消えなかった。
削除対象が、なかった。
俺は削りすぎて、世界の枠から滑り落ちた。
だから、排除もできない。
固定もできない。
観測も、届かない。
ここは、空白。
そして。
空白には、何かがいる。
気配が、ある。
輪郭のない影。
星屑のような粒子が、集まり、離れ、また集まる。
人の形をしているようで、していない。
声が、直接思考に触れる。
――削る者。
震える。
音ではない。
概念が、響く。
――お前は、境界に立った。
境界。
俺は、問う。
ここは、何だ。
――記録の外。
存在の余白。
削られたもの。
忘れられたもの。
失われた因果。
それらが、漂う場所。
漂う粒子の中に、影がある。
人のような形。
だが、顔はない。
輪郭が、歪んでいる。
俺は理解する。
削られた事象。
なかったことになった可能性。
それらが、ここに堆積している。
俺が削ったものも、ここにある。
魔狼の襲撃。
固定された町の未来。
凍結が成立した時間。
すべて。
ここに。
――削るだけでは、均衡は保てぬ。
声が続く。
――削るなら、受け取れ。
受け取る。
負債を。
俺は思い出す。
固定の残滓を移した。
負債を引き受けた。
それで、消えずに済んだ。
――お前は、選べる。
選べる。
侵食者になるか。
調停者になるか。
調停。
削るのではなく。
余白を、戻す。
削られた可能性を、抱える。
それは。
重い。
だが。
守るためなら。
俺は問う。
どうすればいい。
影が、揺らぐ。
――世界に戻れ。
――だが、今までの形では戻れぬ。
形。
俺の体は、ほとんど輪郭を失っている。
――記録を持て。
記録。
名。
誰かが呼ぶ。
ミア。
アルド。
その音が、ここにも響いている。
薄く。
だが、確かに。
――名は錨。
――呼ばれる限り、戻れる。
ミア。
彼女だけが、俺を覚えている。
削られない存在。
未登録因子。
ここに、繋がっている。
影が、さらに近づく。
触れようとする。
冷たい。
だが、敵意はない。
――削ったものを、忘れるな。
忘れない。
俺は、削った。
守るために。
だが、削ったものは消えていない。
ここにある。
だから。
消していない。
移しただけ。
ならば。
戻る。
余白を抱えて。
俺は、思考を集中する。
名。
アルド。
ミア。
呼ばれている。
微かな糸が、伸びている。
そこに、触れる。
白が、揺らぐ。
空白が、裂ける。
光が差し込む。
雨音。
遠い、叫び。
「アルド!」
はっきりと。
ミアの声。
俺は、引かれる。
空白から。
記録へ。
境界を越える。
影が、最後に告げる。
――均衡を忘れるな。
世界が、色を取り戻す。
雨。
石畳。
広場。
ミアの顔。
俺は、地面に膝をついていた。
体は、まだ透けている。
だが。
消えていない。
リゼが、目の前に立っている。
信じられないものを見る目で。
「……戻った」
小さく、呟く。
「未記録層から」
俺は、ゆっくりと立ち上がる。
足は、地面を踏む。
確かに。
存在している。
だが、胸の奥に。
空白の冷たさが、残っている。
削ったものの重みが、沈んでいる。
俺は、もはやただの削る者ではない。
余白を抱えた。
境界に触れた。
リゼが、静かに告げる。
「あなたは、想定を超えた」
敵意はない。
警戒と、興味。
そして。
わずかな、敬意。
雨が、やむ。
空が、開く。
世界は、まだ続いている。
俺も。
まだ、ここにいる。
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