第13話 空白の縁
音が、遠い。
風の音も、人のざわめきも、水の跳ねる音も。
すべてが、水の底から聞くように鈍い。
視界は白く、輪郭は溶けている。
……ここは。
「アルド」
声がする。
近い。
温かい。
「アルド、まだいる」
ミア。
その名だけが、はっきりと認識できる。
俺は目を開ける。
広場の石畳が、透けている。
いや。
透けているのは、俺だ。
腕は肩から先がほとんど見えない。
胸元も、輪郭が曖昧だ。
人々が歩く。
俺を通り抜ける。
触れられない。
存在が、境界にある。
「……成功した、のか」
声が、かすれている。
「町は固定から解放された」
ミアが頷く。
「でも、あなたは」
言葉を飲み込む。
結晶に触れようとする。
指が、胸をすり抜ける。
感触が、薄い。
結晶は、もはや光を持たない。
砕けた破片が、空白の中に浮いているようだ。
俺は理解する。
これは死ではない。
“削除”。
世界の記録から、切り離される。
その一歩手前。
「消える」
事実として、呟く。
恐怖は、不思議と薄い。
守った。
町は動いている。
井戸の子供も、笑っている。
それで。
それでいいのかもしれない。
「だめ」
ミアが、強く言う。
今までで一番、感情が乗っている。
「消えない」
「どうやって」
「あなたは削るだけじゃない」
彼女は、俺の胸に手を当てる。
「あなたは、選ぶ」
選ぶ。
削ることも。
削らないことも。
そして。
名を、与えた。
「アルド」
ミアが、もう一度呼ぶ。
その音が、胸に響く。
名は、記録だ。
誰かが呼ぶ限り、存在は固定される。
俺は目を閉じる。
今まで、削ることで守ってきた。
だが。
削らない方法はないのか。
干渉ではなく。
“置き換える”。
削除ではなく。
“保存する”。
リゼの言葉が蘇る。
記録があるから、人は積み上がる。
ならば。
削るのではなく。
俺が、受け取る。
固定を破った代償。
町が背負うはずだった歪みを。
俺が、引き受ける。
「……移す」
呟く。
ミアが目を見開く。
「何を」
「固定の残滓を」
世界に残った、歪み。
俺に集める。
削らない。
受け取る。
結晶の破片が、かすかに光る。
詠唱は、違う形で紡がれる。
――残れ。
消えた固定の痕跡が、空間に浮かび上がる。
薄い亀裂のような歪み。
それを、胸に引き寄せる。
痛みが走る。
焼けるようだ。
だが。
輪郭が、わずかに濃くなる。
腕が、うっすらと戻る。
石畳を通り抜けていた足が、地面に触れる。
息を吐く。
「……まだ、いる」
ミアが、涙ぐみながら笑う。
「いる」
完全ではない。
透けている。
だが。
消えていない。
遠く、空間が揺れる。
リゼが再び姿を現す。
今度は驚きがある。
「……干渉ではない」
静かな声。
「負債の転移」
彼女は俺を見る。
半透明の体。
だが、確かに立っている。
「あなたは、削るだけではないのか」
「……今、知った」
息を整えながら答える。
リゼはしばらく黙る。
観測。
分析。
そして。
「興味深い」
わずかな変化。
冷たい瞳の奥に、好奇が宿る。
「あなたは侵食者ではなく、調停者の可能性がある」
「可能性」
「まだ仮説」
即座に否定する。
だが。
排除の言葉はない。
「観測を継続する」
それは、執行猶予だ。
「次の干渉で、あなたはどちらに傾くか」
侵食か。
調停か。
彼女は消える。
町は、平穏だ。
人々は俺を見ない。
だが、地面の感触はある。
ミアの手の温かさも。
「アルド」
「……ああ」
「消えなかった」
「まだ、な」
空を見上げる。
青い。
だが、その奥で。
確かに。
世界は俺を、見始めている。
削る者ではなく。
選ぶ者として。




