悪とは
力ある者が悪と指定した
鷲の国の美しい旧帝都オリョールは今や「クラスノグラード」と名を改められ、新倉菜月が率いる赤軍の鉄の軍靴によって完全に踏みにじられ目を覆いたくなるような地獄の日常が繰り広げられている。
帝国を打倒した赤軍将兵達は「農奴やプロレタリアートの保護と解放」という大義名分を掲げ、鷲の国の貴族や資産家達を次々と連行しては劣悪な環境の強制収容所へと送っていた。
彼らのかつての文化的で歴史的価値の有る優雅な邸宅は良くて中が荒らされ略奪の対象となり、普通ならば「反動と退廃の象徴」として燃やされて更地にされた。
彼らの資産である牛馬や広大な農地は全て没収されて『コルホーズ』とされ、赤軍兵士達が一人ずつ農民達を組織する管理職を与えられ銃の恐怖による支配を行っている。
抵抗した市民、貴族達、そして彼ら支配階級に仕えていた『反動分子』と見なされた者達は須らく処刑され、旧帝国軍の降伏兵士達も「後顧の憂いとなる」とニーナが主張しこれらを全て惨殺した。
そして生き残った女達は兵士達に品定めされて選別され、それぞれの妻として迎え入れられた。選ばれなかった者達は美醜・老若・既婚・未婚を問わず全て『懲罰慰安婦』として兵士達や労働者の中から選抜された粗野な政治委員達の欲望の捌け口として国営娼館に放り込まれている。
男たちは皆、終わりのない肉体労働へと従事させられ採石場やウラン鉱山、農場や工場で過酷な勤務により命を落とす者も多くそれ故に最近の赤軍の裁判では死刑の代わりに「国家の血肉となる」肉体労働を課す傾向が増えてきていた。
赤軍のZS-88(心理戦・音響放送装甲車)はソ連国歌――取り分けスターリン称賛が修正された1977年版を最早人々の活気が消え失せた市街地で大音量で垂れ流しながら巡回している。
その後ろに随伴しているBMP-1歩兵戦闘車から降りた歩兵がAK-74を携えて次々と建物へ突入し、怯える隠れていた市民たちを引き摺り出す。
彼らには革命政権に協力するか、収容所へと移送されるかの地獄の二択が待ち受けていた。
革命政権に協力する素振りを見せた者たちにはその場で車列の後ろに手を組まされて並ばされ、自分たちの住居だった建物が爆薬で木端微塵にされる光景を『革命的精神と共に旧体制の崩壊を眺める研修』として強制的に見せつけられる。
その後徹底的な洗脳を行う思想教育施設へと移送される。
少しでも非協力的、あるいは絶望から反抗の目をした者はその場で手か足、若しくは胴体に一発の5.45mm弾を撃ち込まれ、悲鳴を上げる間もなくウラルトラックの荷台に乱雑に放り込まれる。
そして人々の営みが完全に死んだ街が次々と出来上がり、ニーナは着々と彼女の理想郷へと近付きつつ有るのだ。
赤子の産声さえ聞こえず不純物が一切排除された「清潔な廃墟」たちこそが、彼女の描いた完璧な理想郷の第一段階であるのだから。
そんな中ニーナが率いる赤軍の将校、ドミトリー・ペトロチェフ少佐が偉大なる第一書記長であるニーナ・プレノンコフの元へと呼び出されていた。
彼は一介の戦車大隊の指揮官でしかない存在だがこの軍において数少ない思想教育も可能な政治将校も兼ねている、実務経験が豊富で地に足のついた軍人であった。
それ故に彼にとって今の血に塗れた「赤き帝国」の姿は見るに堪えない苦痛であり、本来の社会主義の理想からかけ離れたものであった。
かつてのクレムリンの最奥、壮麗な装飾が残されている彼女の個人的な政務室の前に立つと部屋を警護する兵士達に敬礼し、重厚な木製のドアに素早く力強くノックを3回する。
「失礼します。偉大なる同志書記長閣下」
低く野太い声で、決して隙を見せず、かつ怯えを一切省いた軍人らしい声で入室を希望した。
「ん? ああ、そうだったね。入り給え、同志少佐」
「失礼します」
許可されるとすかさずペトロチェフは失礼のないように完璧な角度で敬礼し、入室する。
「堅苦しいのはよしてくれ同志よ。私もだが、この国は権威主義的ではないよ」
中に居たニーナは窓辺で肩までかかる黒髪を靡かせ、完璧に造形されたアルカイックスマイルを浮かべながら振り返った。
だが、その眼には爛々と輝く冷たくて底知れず澄んでいる眩い光――狂気の光が宿っていた。
以前着ていた粗末な軍服は廃棄し今は彼女の体型に合わせて仕立てられた新品の高級な将官用軍服を身に纏い、胸元には彼女が自らデザインして作成した様々な勲章がその両眼よりも鮮やかに輝いている。
つい先ほどまで彼女が恍惚と眺めていた先には曇天の下、物言わぬ廃墟と化している旧帝都オリョールがありそして今のソビエトの首都クラスノグラードとして今も尚人々の悲鳴と銃声が深く反響しあっている。
「わざわざ部隊の思想教育や現地の政治委員達への統制等で忙しいのに足労かけてしまったね、同志よ。座り給え。それと、温かい紅茶は要るかい? 今淹れたばかりなんだ」
「……はい同志。では、ありがたくいただきます」
ペトロチェフは警戒心を緩めず、しかし彼女の不興を買うわけにはいかないので促されるままにソファに座り出された紅茶を口にした。
ニーナは足を組んで紅茶を優雅に飲み、ペトロチェフは彼女の様子を恐る恐る窺いながら向き合っていた。
「さて、同志ペトロチェフよ。最近の部隊の調子はどうかね? 何か前線で不足している物資や人材、そして反動分子に関する異常等は有ったかい?」
「そうですね……。今不足している物は重火器でも無く、戦車でも無く、まさに敵の籠る建物や築かれた障害物を破壊するための『工兵』であります。それと反動分子には大きな異常はございません。相変わらず処刑の際に帝政復古を叫んだり、少数民族の独立主義者が我らの車列の通り道に痰を吐き捨てておりますが」
ペトロチェフ少佐は率直に今現場が置かれている現実的な問題を伝えた。
ニーナは少し顎に手をやり「ううむ」と悩む素振りを見せると少佐の目を真っ直ぐ見つめて赤軍の現状を伝えた。
「工兵か。今は反動分子達の炙り出しや収容施設の建設に工兵部隊をフルで駆り出してるからそちらの前線方面にそう簡単に増員はできんぞ、少佐」
「……かしこまりました。差し出がましい真似をして申し訳ございません、同志書記長」
ペトロチェフはすぐに身を硬くして謝罪し彼女の不興を買ってしまったかと恐れたが、ニーナはすぐ慌ててそれを笑顔で否定する。
「いや、そうではない! そのように畏まるなよ同志ペトロチェフ!! 全く……私はスターリンやレーニン程、苛烈ではないよ。はっはっはっ」
彼女の乾いた笑い声に少佐の背筋に冷たい汗が流れる。
「どうせあのから裏で指導された民兵どもの浅知恵に平原の国の国内軍よる指導で作られた障害物だろうが……そうだな。ふむ。少し代替手段なら用意可能だが、いかがかね?」
「……代替手段、ですか?」
「そうだ。私なりの解決策だよ同志。革命とは時として理想を掲げるだけでなく、現在の過酷な状況を振り返り柔軟に対応しなくてはならないからね」
ペトロチェフは嫌な予感で首筋に冷や汗をかき始めた。
前世のアフガニスタンの泥沼でKGBの将校から最悪な命令を受けた時と全く同じ、冷たく膿み爛れた血生臭い空気が流れ始めたからだ。
「どうやら捕らえた反動分子達の中には旧帝国軍の軍人達も多数居たようでね……。君にそいつらを引き渡そう。彼らを使って、例えばそうだな…地雷原を歩かせたり、建物の障害物を肉壁として突破させ――」
「お言葉ですが書記長、それはなりません」
耐えきれず、遮るように少佐は発言した。
「私達はあくまで共産主義、労働者と社会主義の理想の為の組織であり人民の軍隊であります! あの忌々しくも汚らわしい、ナチスのようなファシズムの流れを汲むような『懲罰大隊による人間地雷処理』の行為は断じて許されざる行いであります!」
「だが同志よ。その点は気にするな」
「何が、ですか……」
「私が許可したと言っているのだ。それに、他の部隊では既に有効な手段として日常的に行われているよ」
「なっ……!? ど、どうして……」
やれやれと、出来の悪い生徒を見るように頭を横に振りながら人道に反する行いについて憤りを露わにしている可愛らしいペトロチェフ少佐を見つめる。
「確かに、君のように綺麗な思想を持ち、そして軍人として華々しく正々堂々と活躍するのが私としても理想だよ。しかし現実は違うのだ。あちらこちらに有るくだらない反動の建造物、資本主義的な経済により建てられた宮殿に豪邸、そして富農達の資産である広大な荘園。これら全てを我らソビエトは『大いなる進歩』の為に、一刻も早く灰にしなくてはならない。だが、そのための工兵が絶対的かつ決定的に不足しているのだよ」
「……!!だから人を使って障害物をどけろと?」
怒りを通り越して呆れにさえ成りつつ有ったペトロチェフの感情は、徐々に目の前の純粋な狂気に呑まれ、怯え始めている。
「だからって……だからといって、人間の命を地雷処理の道具になど……人として……っ!!」
「革命には犠牲は付き物さ。オムレツを作るのに卵を割らねば出来ぬようにね。君程の有能な士官がその程度の計算が理解出来ない訳が無いと私は信じていたが……私の目は間違っていたかい?」
ペトロチェフ少佐は完全に当初の軍人としての態度とは打ってかわり、怯えきっていた。
この女は一体何を言っているのか。
「ですが、現地人は……現地人には彼らの生活や文化という歴史が……」
「それがどうしたというのかね? 私達の崇高な革命に彼らの歴史は必要かね? そのような悪しき慣習や文化、そして階級が、『完全なる平等な社会』に何の益を齎すのか私に合理的に教えてくれないか?同志よ」
先ほどまで浮かべていた取ってつけたような笑顔をスッと消し、冷たく頬を落とし、シベリアの冷たい真冬の寒く凍えるような、針葉樹林の間を通る風のように澄み切った綺麗な声で語りかけてくるニーナに少佐は完全に気圧され言葉を失った。
澄んだ瞳で淀みなく絶対の正義を語るこの狂人に対し、喉が引き攣るような恐怖の痛みが走るがそれさえも押し殺そうと必死に踏ん張っていた。
「――いやぁ、すまないすまない! 少し怖がらせてしまったようだね、少佐。では君の部隊にはそのような懲罰部隊の配属は無しにしよう。この件は無理強いをした私が悪かったね」
「い、いえ……はい。ありがとうございます、同志」
「だが、私達の革命は止まらない。進むんだよ同志。その上で、いつか君の中にあるその甘えを捨て給えよ。でなければ、弱肉強食のこの歴史の中で君が死ぬだけだ。私は優秀な君の残念な報せは聞きたくない」
忠告するようにペトロチェフへ投げかけた言葉は先ほどよりかは甘い声であり優しかったが、しかし肌を滅多刺しにするような冷たさでベールを被せたまま語りかけていた。
「では下がり給え。それと私の忠告、ゆめゆめ忘れぬようにな」
「はい、ありがとうございます同志」
そしてペトロチェフ少佐が逃げるように退室すると入れ替わるようにワレンティン・ヴァレンニコフ上級大将が分厚い書類の束を抱えて入室してきた。
「失礼します同志書記長。近々実施予定である『特別軍事作戦』の最終計画書が出来上がりました。お早めにご確認くださいませ」
「あぁ、同志ヴァレンニコフよ。よく来た。そこに置いといてくれ、後で確認するから」
「畏まりました、同志書記長」
ドサリと重い音を立てて机の上に書類の山が形成されたが、ニーナは目もくれず、そのままとある部署へと黒い電話をかけていた。
「やぁやぁ、私だよ同志。うん、そうさ。……わかっているだろうね? よし! なら、今しがた恐らく届いたから安心したまえよ。なぁに、これから始まるのさ」
――諸君のおかげで君塚の『偽りの赤軍』を狩る算段はついたからね。
後は私達の革命の障害物を排してやるだけだよ。
そうニーナは少し頬を赤らめ、まるでお気に入りの玩具を手に入れた少女のように興奮した様子で電話の先の人物へと電話していた。
全ては偽りの悪を討ち、万民にとっての終わりなき『普遍的な平等』を敷くために。
春が訪れ、この世界の草原に咲くであろう大輪の花々を守り、花園を乱す不純なものを摘み取るために。
飢えや悲しみを知らず、頑丈な岩盤の上から何もかも雨に攫われずに済む完璧な社会。
真の社会主義とは、全員が等しく背負い、等しく進むことである。
ならば、その行軍において『絶対的弱者』は先導する強き者の足を引っ張るため社会には不要なのだ。
全ての者が屈強であれば、きっと史実のソ連のように崩壊するような悲劇は起きないのだから。
ヴァレンニコフ上級大将は退室すると廊下で静かに息を整え、主であるニーナの思想について考えていた。
彼女の思想は本来の労働者保護を謳う社会主義では無く、『全体主義』。
つまりソビエトでは本来最も軽蔑され、打倒すべき対象であるはずの『ファシスト』の思想そのものである。
だが彼女の考えが全て間違っているわけではないと、ヴァレンニコフは考える。
確かに史実のソビエトには不採算の国営企業や過剰な福祉等の多くの非効率な負債があり、それらのせいで崩壊した側面が確実に存在していたからだ。
社会的弱者の救済は社会主義としては絶対的なテーマであるが、絶対的な弱者を抱え過ぎて結局国家そのものが崩壊しては意味がなく本末転倒そのものだ。
それでは、国家が救えたであろう多数の人物でさえ瓦礫の下で埋もれたまま救えなくなってしまう。
なら社会そのものの「強靭化」を力技で行って役に立つ相対的な弱者のみを救い続ければ良いのだ。
さすればソビエトはずっと継続出来るし、ソビエトをこのファンタジー世界に永遠に刻み付けるならソビエトそのものの血を流す強化しかない。
トロッコで殺すべきは役立たずの方であり、人数の多寡では無いのである。
そう冷徹なロジックで自身の行動を正当化し締め括ろうとした所、窓の外から休憩中の兵士達が下品な世間話をしている所が見えた。
兵士達の軍服の襟や袖、裾はだらけきりズボンのベルトやファスナーが締まっていない開いたり外れたままである。
どうやら国営娼館の懲罰娼婦で遊んでそのままの格好で出てきたようだった。
前世では決して許されてはならない筈の著しく軍の風紀の乱れ。
しかしヴァレンニコフはそれを見て見ぬふりをした。
ソビエトをもう一度この世界で蘇らせる為ならば。
どんな犠牲を払い、どんな悪徳に目を瞑ろうとも、何でもしようと心に誓ったからだ。
ならば悪は絶えるべきなのか?




