貴方が失ったのは私ではなく、貴方を支えていた足場そのものです
誤解を恐れずに言えば、私は貴方を軽蔑していたわけではない。むしろ、その真っ直ぐすぎる気性や、裏表のない言葉、そして何より、戦場で見せる圧倒的な武勇を誇らしく思っていた時期もあった。
けれど、誇りと生活は違う。尊敬と共存は、イコールではない。
私の名はアデル・グレイブ。辺境伯嫡男、ライオネル・バルトの婚約者として、五年間を過ごした女だ。そして今日、私はその肩書きを返上し、ただの他人に戻る。
これは、その決断に至るまでの、ささやかな記録と――
彼への、最後の手向けだ。
◇
事の発端は、やはりと言うべきか、予算の話だった。
「アデル、今回の遠征費だが、少し足りないようだ。追加で頼めるか?」
執務室に入ってくるなり、ライオネルはそう言った。
悪びれる様子など微塵もない。彼にとって、金は湧いてくるものか、あるいは私が魔法で生み出すものだと思っている節がある。
「ライオネル様。先月もお伝えしましたが、今年の予算は既に限界です。これ以上の拠出は、領民への増税か、備蓄食料の売却を意味します」
私は手元の書類から目を離さず、淡々と答えた。
感情的になっても意味がないことは、この五年間で嫌というほど学んでいたからだ。
「そこを何とかするのが、君の手腕だろう? 俺たちは魔物から領地を守っているんだ。必要な経費をケチってどうする」
彼は不満げに鼻を鳴らす。
出た。守ってやっているという大義名分。
「経費ではありません。浪費です」
私はペンを置き、彼を直視した。
「前回の遠征で、貴方は祝勝会と称して酒樽を二十も開けました。破損した武具の修理費も、相場の倍額を請求されています。指定業者を使わずに、その場の付き合いで決めたからでしょう?」
一つ一つ、事実を並べる。
これは攻撃ではない。現状認識の共有だ。
だが、彼はいつものように、面倒くさそうに手を振った。
「細かいことはいいじゃないか。兵の士気に関わるんだ。君はいつも数字ばかり気にして、人の心を見ていない」
人の心。
その言葉を聞くたびに、私の心は少しずつ冷えていった。
貴方が振る舞った酒の代金が、どこから出ていると思っているのか。貴方が士気のためと言って配った報奨金のために、どれだけの調整が必要だったか。
説明しようとした。
何度も、何度も。
でも、彼は聞かなかった。
「難しい話は君に任せる」「俺は剣で語る」と、耳を塞いだ。
だから、私も黙ることにした。理解を求めることを、諦めたのだ。
◇
決定的な亀裂が入ったのは、ある女性の存在だった。
彼女の名はセシリア。隣領から流れてきたという、平民の娘だ。明るく、物怖じせず、そして何より――ライオネルの豪快さを全肯定する存在だった。
「ライオネル様、すごいです! 魔物を一撃で倒すなんて!」
「ああ、俺にかかればこんなものさ」
「宴会も盛り上がりましたね! やっぱり上に立つ方は、これくらい太っ腹じゃなくちゃ!」
彼女は、私が苦言を呈するたびに、横から口を挟むようになった。
「アデル様、そんなにカリカリしなくてもいいじゃないですかぁ。ライオネル様が可哀想ですよぉ」
可哀想。
その言葉に、私は思わず笑いそうになった。
可哀想なのは、誰だろう。
予算を超過し、帳尻を合わせるために頭を下げる私か。それとも、甘い言葉に乗せられて、足元が崩れていることに気づかない彼か。
「セシリアの言う通りだ。アデル、君は最近、小言が多すぎる。もっと彼女を見習って、大らかになったらどうだ?」
ライオネルは、セシリアの肩を抱きながらそう言った。
その瞬間、私の中で糸が切れた。
プツン、という音はしなかった。
ただ、静かに、何かが終わった。
ああ、そうか。この人は、私を婚約者として見ていない。ただの便利な財布であり、口うるさい母親代わりだったのだ。
そして今、もっと居心地の良い全肯定してくれる相手を見つけた。なら、私の役目はもうない。
「……分かりました」
私は静かに頷いた。
「大らかさ、ですね。承知いたしました」
それが、終わりの合図だった。
◇
翌日から、私は仕事の手を緩めた。
完全に放棄したわけではない。ただ、言われなくても先回りしてやっていたことを、一切やめたのだ。
例えば、物資の調達。
これまでは、市場の相場を読み、安値の時期に大量に買い付け、保管していた。
それをやめた。
必要な時に、必要な分だけ、その時の相場で発注する書類を作った。
例えば、他家との折衝。
ライオネルの無礼な振る舞いを詫び、贈り物をして、関係を繋ぎ止めていた。
それをやめた。
彼が書いた誤字だらけの手紙を、添削せずにそのまま送った。
例えば、兵士たちの家族への配慮。
負傷兵の見舞い、遺族への恩給の手配、子供たちへの教育支援。
それらを全て、規定通りの最低限の手続きに戻した。
結果は、すぐには出なかった。
巨大な船が、エンジンを止めてもしばらくは惰性で進むように。
辺境伯家という組織は、私が築いた遺産の上で、しばらくは回っていた。
ライオネルは上機嫌だった。
「ほら見ろ、君がガミガミ言わなくても、何の問題もないじゃないか」
「ええ、そうですね」
セシリアも得意顔だ。
「やっぱりぃ、アデル様が神経質すぎたんですよぉ」
「勉強になりますわ」
私は微笑んで受け流した。
心の中は、凪のように静かだった。
崩壊の足音は、静かに、しかし確実に近づいていた。
◇
最初に悲鳴を上げたのは、兵站だった。
「団長! 食料が届きません!」
「武器の修理が間に合いません! 業者が未払いがあるから受けられないと!」
執務室に、兵士たちの報告が飛び交う。
ライオネルは目を白黒させていた。
「な、なぜだ? いつも通り注文したはずだろう?」
「予算が足りません! 以前の倍の価格になっています!」
当たり前だ。
私が安値で買い付けていた備蓄が尽き、高騰した市場価格で買おうとしているのだから。
しかも、彼は大らかに振る舞うために、宴会費を削っていなかった。
次に、外交が火を噴いた。
「隣領の伯爵から、抗議文が届いています!」
「『先日の手紙は我が家への侮辱か』と……交易の停止を通告されました!」
ライオネルが書いた、礼儀を欠いた手紙。
それをフォローする私の手紙がなかったことが、致命傷になった。
物流が止まれば、辺境は干上がる。
そして最後に、人の心が離れた。
「団長……いや、若様。俺たち、辞めさせてもらいます」
古参の兵士たちが、次々と去っていった。
彼らが忠誠を誓っていたのは、ライオネルの武勇だけではない。家族を含めて守ってくれる、辺境伯家の誠意に対してだったのだ。その誠意(私)がいなくなった今、彼らが命を懸ける理由はなかった。
◇
屋敷中がパニックになる中、私は自室で荷物をまとめていた。
私物は少ない。この家に来た時に持ってきた本と、衣類。それだけだ。
そこに、ライオネルが飛び込んできた。
髪は乱れ、目の下には隈ができている。かつての英雄の面影はない。
「ア、アデル! どうなっているんだ!?」
彼は私に詰め寄った。
「なぜ食料がない? なぜ隣領が怒っている? お前、何かしたのか!?」
その言葉に、私は深くため息をついた。
ああ、この期に及んでも。
彼は誰かが何かをしたからこうなったと思っているのだ。自分が何もしなかったからこうなったとは、夢にも思っていない。
「私は、何もしていません」
淡々と答えた。
「貴方の望み通り、大らかに、細かいことを気にせず、貴方の判断を尊重しました」
「嘘だ! 今まで上手くいっていたじゃないか!」
「それは、私が裏で調整していたからです。貴方が見ようとしなかった数字を、私が拾い集めていたからです」
私は、机の上に置かれた鍵束を手に取った。
金庫の鍵、倉庫の鍵、執務室の鍵。私が管理していた、責任の証。
「これを、お返しします」
「……え?」
「婚約を、解消させていただきます。父の許可は既に得ています」
鍵束を彼の手に押し付ける。
チャリ、と冷たい音がした。
「ま、待て! 今抜けられたら困る! 誰がこの混乱を収めるんだ!?」
「セシリア様がいらっしゃるでしょう? 彼女なら、貴方を全肯定してくださいますわ」
「あんな小娘に何ができる! あいつは『頑張って』としか言わん! 具体的な解決策など何も持っていないんだ!」
知っていた。
彼女は、無責任な観客でしかない。
舞台の上で血を流し、泥にまみれて戦う覚悟など、最初から持ち合わせていないのだ。
「アデル、頼む。俺が悪かった。お前が必要なんだ。お前がいなきゃ、俺は……」
彼は私の手首を掴もうとした。
その手を、私は冷ややかに払いのけた。
「ライオネル様」
私は彼を、真正面から見据えた。
かつて愛したかもしれない、今はもう遠い存在。
「貴方は、私が必要なのではありません。都合の良い調整役が必要なだけです」
「そ、そんなことは……」
「貴方が失ったのは、婚約者という飾りではありません。貴方という不安定な建物を、地面に繋ぎ止めていた足場そのものです」
足場を外せば、建物は崩れる。
ただ、それだけの理屈。
「ご自分で、立て直してください。貴方は最強なのでしょう?」
私は背を向けた。
彼が何かを叫んでいたけれど、もう耳には入らなかった。
◇
屋敷を出て、馬車に乗り込む。
窓の外を流れる景色は、いつもより鮮やかに見えた。
王宮の財務官として、登用試験を受ける予定だ。
辺境での、ギリギリの予算管理と物流調整の経験は、高く評価されるだろうと、口利きの伯爵様は笑っていた。
私の能力は、私自身のものだ。
誰かのためにすり減らすものではなく、私自身が生きるために使うものだ。
後ろを振り返るつもりはない。
ライオネルがどうなるか、辺境伯家がどうなるか。
それはもう、私の物語ではない。
彼が後悔するとすれば、それは私を失ったことに対してではないだろう。
自分自身が、実は一人では何もできない子供であったという事実を、突きつけられることに対してだ。
その痛みを知って、初めて彼は大人になるのかもしれない。
あるいは、そのまま潰れるか。
どちらにせよ、私には関係のない話だ。
馬車が街道を進む。新しい風が、頬を撫でた。
私は手帳を開き、これからの予定を書き込む。誰の邪魔も入らない、私だけの計画を。
ペンの走る音が、心地よく響いた。
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