(7)――「ここは楽園であり、天国だ」
どうしよう。
その言葉だけが脳内で量産され蓄積されていく。
ひとまずは足を進めているが、どこへ向かっているわけでもないし、なんだか歩いている実感もない。ふわふわとしている。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
ここに骨を埋めるつもりなんて全くなかった。僕には僕の生活があって、それを守りさえできれば、それだけで良かったのに。どうしてこんな目に遭わなければならないんだ。
いや、そもそも。
どうして僕以外、誰も外に出ようとしないんだ?
それは、ずっと感じていた違和感だった。
まるで、洗脳でも受けているかのような。
あまりに盲目的な、そんな態度。
だが、ここへ来るときにそんな催眠術じみた行為をされた覚えはない。そんなことがあれば、もっと強い違和感として印象に残っていたはずだ。いいや、僕は心理学のプロではない。サブリミナル効果とか、そういう類のものか? それならどうして僕は洗脳されていない?
「――ああ、いたいた。君が外村蛍介君か」
と。
前方から声がして、ふと顔を上げた。
そこには、小学校中学年ほどの子どもが立っていたのだが――刹那、僕は強烈な悪寒に襲われた。
その子どもは、傍目には男か女かわからない、中性的な出で立ちをしていた。いや、そこは些末な問題でしかない。
白い髪、白い瞳、白い服装。
あまりにも真っ白で眩しいくらいの子どもが、大人のように不敵な笑みを浮かべて、僕を見ていたのだ。
直感的に、思う。
これは人間じゃない、と。
「話は聞いているよ。君、地上に帰りたいんだってね」
硬直している僕をよそに、ねっとりとした足取りで子どもは近寄ってくる。
観察するように。
見物するように。
「わかってると思うけど、地上には帰れないよ。二度とね」
子どもは悪戯に笑い、僕を見上げる。
「他の人間はみーんな、簡単に術にかかってくれたのに、おにーさんだけどうして……嗚呼、おにーさん、おばあちゃん子だったんだ。その加護が強くて、私の術がきかなかったんだねぇ」
「お前、なにをした……?」
恐る恐る尋ねた僕に、子どもは小首を傾げて、
「別にぃ?」
などと言う。
「現世への執着がなくなる術をかけただけ。そうすれば、みんなここに居てくれるでしょ?」
「目的は、なんだ?」
「それをおにーさんに話したところで意味なんてないよ。人間には理解できない」
そう言ってのけた子どもの表情は、人間のするそれでは決してなく。
まざまざと、人間以外の存在であることを見せつけられた気分になる。
「おにーさんもさ、ここに居たら幸せになれるんだよ」
子どもは、言う。
「ここに争いはない。穏やかに流れるときの流れに身を任せていられるんだ。人間は、そういうのを『幸せ』って言うんだろう?」
「だけど、僕には僕の生活があって――」
反論しようとした僕に、子どもは、それに、と牽制するように付け加える。
「眞内麻耶――あの人と、誰に咎められることなく一緒にいられるんだよ?」
「それ、は……」
途端、僕の脳内で考えていた反駁の言葉の数々は、喉で堰き止められてしまった。
麻耶は大切な幼馴染だ。
そして、ずっと恋心を隠してきた女性だった。
この一週間、麻耶と共に過ごした時間は、幸せそのものだった。
子どもの言葉を信じるのであれば。現世への執着がなくなった麻耶は、彼氏さんの話を一切しなかったこともあり、とても居心地が良い時間を過ごすことができた。今の麻耶になら、その婚約指輪を外してくれと頼んだら、呆気なく外してくれてしまいそうな雰囲気さえある。
誰に咎められることなく麻耶と一緒にいられる。
それは僕にとって最大級の殺し文句に違いなかった。
「君が望むのなら、眞内麻耶に術をかけて、君に好意を抱かせることだってできる」
「ひ、人の心をなんだと思って――」
「それは人間の常識ってやつだろう? こちらに当てはめようとしないでもらえるかな。私は君らよりずっと上位で高貴な存在なんだ」
子どもは一瞬だけ不機嫌な顔を見せたが、それもすぐに元の不敵な笑みに戻して、話を続ける。
「ここは楽園であり、天国だ。おにーさんにも幸せになる権利がある。というか、幸せにならなければいけないんだよ。ここは、そういう街なんだから」
幸せ。
僕にとってのそれは、麻耶と死ぬまで一緒にいられることを指す。
外の世界では、僕らは行方不明者になり、捜索が行われているかもしれない。けれどこの街にいれば、発見されることもなく、いつかは死亡届が出されて、戸籍上は死んだことになるのだろう。もしかしたら心中だの駆け落ちだの言われるかもしれないが、それは僕らの耳には入らない声であり、であれば無いのと同じだ。
「これは確認でもなければ、許諾を得に来たわけでもないんだよ。外村蛍介――君には、ここで幸せになってもらう。そうすることで、私の完璧な世界は完成する」
刹那、足が地面に縫いつけられたように動かなくなった。
逃げられない。
そう思うが、果たして僕は、足が動いたとして、この場から逃げていただろうか?
目の前に転がっている「幸せになるチャンス」を、みすみす逃すことができるのだろうか?
「良き夢をみることだ、外村蛍介」
子どもが僕に向かって、手を翳す。
すると、僕の中にあったはずの不安や心配などが、すうっと薄れていくのを感じた。
地上に戻る? なにを言っているんだ。ここにいれば、幸せなんだ。幸せになることが、最大の義務なのだ。
なんだか宙に浮いているような、奇っ怪な気持ちになったのも束の間。
気がつけば真っ白な子どもは目の前から消え去っていて。
あれだけ頑なに動こうとしなかった足も、自由に動くようになっていた。
「あれ……?」
直前までの思考がぽっかり抜けてしまったような感覚に陥り、僕は首を傾げた。
しかしそんな違和感も一瞬のもので。
僕は軽い足取りで、麻耶の待つ家へと帰ることにしたのだった。
終
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