(1)――「そこに海があるから?」
海底探検ツアー。
幼馴染である眞内麻耶から喫茶店に呼び出され、いの一番に提示されたパンフレットには、そんな文言がでかでかと記載されていた。
本来、海底という場所は、そんな気軽に行けるような場所ではない。しかし最新技術を利用し、それが可能になった――というようなことが、見出しの下につらつらと書かれている。
正直言って、眉唾ものだ。それが事実だとしたら、もっと大々的にニュースに取り上げられているべき案件である。
しかし、眉をひそめる僕をよそに、麻耶は一緒にツアーに参加して欲しいと頼み込んできたのだ。
理由は単純明快。
予約時に同行者として登録していた麻耶の彼氏が、仕事で行けなくなってしまったから。
それなら一人で行けば良いだけの話なのだが、どうやらこのツアー、予約時の人数でないと参加が認められないらしい。なんだその条件は、と突っ込みたくなるのを抑えて、
「でも、登録されているのは彼氏さんの情報だろ? 僕に彼氏さんのフリをしろって?」
と、真っ当な質問を投げかけた。
麻耶は、違うちがう、と右手を小さく振って否定する。
「同行者の登録内容は変更できるんだけど、人数だけは絶対に申し込み時の人数じゃなきゃいけないんだって。ね、だからお願い、蛍介」
僕は昔から、麻耶のお願いに弱い。
彼女もそれをわかって、僕のところに来ているのだろう。
麻耶はじっと僕の目を見つめ、頼れるのは蛍介だけなの、と視線で語る。咄嗟に僕は、そこから視線を外す。あれは僕に一等効くんだ。絶対に即答してはいけない。チョロいやつだと思われてしまう。
「……それ、いつ行くの?」
そうしてやっとの思いで口から出たのは、そんな情けないものだった。
「来てくれるの?!」
麻耶の顔色が、途端にぱっと明るくなる。
何度見ても魅力的な表情に絆されそうになりながら、僕は、日程次第だけど、と注釈をつけた。
「ええとね、来週末に日帰りで予約してるんだ」
「それなら、まあ、行けるかな」
スケジュール帳を開いて確認した上で、僕はそう答えた。
けれど、仮にその日、重大な仕事の案件が入っていたとしても、僕は同じように返事をしただろう。麻耶と二人きりででかけられる機会は、もう残り少ないだろうから。
「それじゃあ、諸々の登録はこっちでやっておくね」
生年月日や電話番号、住所程度なら、幼馴染相手なら造作もないことだろう。僕は、任せた、とだけ言って、すっかり冷めたコーヒーを飲んだ。
「一時はどうなることかと思ったよー。いやあ、ひと安心」
ほくほくと笑みを深めながら、麻耶は早速スマホを取り出し、登録内容の変更を始めた。
その様子を眺めていると、ひとつの疑問が浮上してきた。
「どうして急に、海底探検に行こうと思ったの?」
長い付き合いだが、麻耶は海が特別好きというわけではないはずだ。僕の記憶が正しければ、海水浴に行っても、浜辺でバーベキューをするほうに重きを置くタイプである。
本当に気軽に海底に行けるとすれば、僕だって好奇心がないわけではない。しかしどうしてだろう、小さな違和感がいくつもちらつくのだ。
「えー、なんだろ」
しかし麻耶の口から出たのは、曖昧なものだった。
「彼氏さんに誘われたの?」
「どうだったかなあ。そうだった気もするし、私からだった気もするし。覚えてないや」
「それなら、どうして」
質問を重ねる僕に、麻耶は一旦スマホを操作する手を止め、改めて考える仕草を取る。
「そこに海があるから?」
けれど、考え抜いた末に出された回答は、やはり曖昧なものだった。
山があるから登る。海があるから潜る。
それが常識であるかのように。理由など無用と言わんばかりに。
「なんか、行かなきゃいけない気がしたんだよね。この機会を逃しちゃいけない、みたいな?」
「ふうん……?」
納得できたわけではない。けれど、これ以上言うと同行できなくなりそうな気がして、僕は適当に頷くだけに止め、この話題を切り上げた。
「はい、蛍介の情報登録終わりー!」
少しして、作業を終えた麻耶はそう言った。
「ありがと」
「それはこっちの台詞だよ。本当にありがとうね、蛍介。大好き!」
「はいはい」
何度も繰り返し行われてきたやり取りに、僕は辟易気味に返事をした。
「集合場所とか時間は、またあとで連絡するね。あ、ここは私が奢るから」
さっと伝票を掴むと、麻耶は立ち上がった。これにてお開きというわけだ。
「じゃあまた来週」
「うん。また来週」
右手を振り別れを告げる麻耶に、僕も同じ動作で返す。
彼女の薬指には、シルバーの指輪が嵌められていた。
ああ、もう結婚まで秒読み段階なのか。
ぼんやりと、そう思った。
感想や評価等、お気軽にどうぞ!