1.朝の時間
朝。いつも通りの時間に目を覚ました私は、お手入れを極力減らしたくて肩のあたりで切りそろえている、真っ直ぐなブラウンヘアーを軽く手で整えてから、中途半端に伸びている前髪から耳の横あたりまでの毛を編み込みつつ三つ編みにする。最後に飾りのない簡素なピンを使って、耳の後ろで束をまとめて留めて。あとはその部分を上から髪で隠して終了。
仕事の邪魔にならないようにと、働きに出た二年前から私がずっと続けている髪型がこれだった。おかげで今では覚醒しきっていない頭でも、手が勝手に動いてくれるくらいには慣れ親しんでいる。
「さて、と」
火を起こして予定していた通り今日の分のスープを作ってから、まずは塩漬け肉をなるべく薄くスライスして焼いていく。焼き上がりを待っている間に使用したナイフなどの道具を軽く洗っておいて、一度塩漬け肉をひっくり返してから、ついでにランプのオイルが減っていないかを確かめておいた。
「うん、まだ大丈夫そう」
その頃には、部屋の中にいい匂いが漂っていて。塩漬け肉の焼き加減もよさそうで油も出ていたのでお皿に取り出して、今度は素早く卵を焼く。こうすることで、油を消費しなくて済むのだ。
そうして朝食を作り終えた私は、しっかりと火が消えたことを確認してから、一人で手早く食事を済ませてしまう。ヴェルは病気の関係で朝食を食べられないどころか起きられないことのほうが多いので、基本的に朝は顔を合わせることがない。実際今日もこのまま仕事着に着替えて出かけるその直前まで、ヴェルが起きてくる気配はなかったのだから。
「行ってきます」
聞こえているかどうかは分からないけれど、毎回私はそう声をかけてから出かけることにしている。起き上がれなくても返事ができなくても、実は目は覚めていて聞こえていることが多いのだと知っているから。同時に私が顔を見せてしまえば、優しいあの子は無理やりにでも起き上がってしまおうとすることも知っているので、あえて自分から起きてこない限りは部屋を覗かないことにもしている。
(今日は、きっと大丈夫のはず)
つらい時や苦しい時、ヴェルは無意識に小さな声でうめいていることを知っているので、家の中が静かであれば安心できる。そして朝にうめき声が聞こえなかった日は、基本的に一日調子が良いことが多い。だからこそ、少しだけ安心して出勤できるのだ。
通い慣れた道を通って『スノードロップ』へと向かいながら、ふと心配になってスカートのポケットに手を入れてみる。指先で感じた硬く冷たい細い金属の感触に、昨日渡された鍵を家に忘れてきていないことを確認して安心する。これがなくても表から入ることはできるけれど、オーナーに裏口からの出勤を直々に命じられている手前、さすがに初日から失敗してしまうわけにはいかなかった。
ちなみにこの鍵、集合住宅用の薄く小さいものとは違い少々長めに作られていて、持ち手の部分も細い輪が三つ、まるで三つ葉のように見える形で作られていた。穴があるということは、もしかしたら鍵を複数個持つ必要がある人がまとめられるようにという配慮なのかもしれないけれど、残念ながら私にその機能は今のところ必要ない。
「失礼します」
昨日は大通りに出てしまったので、自宅から直接裏口に行ける道筋が分からなかった。なので昨日と反対の道順で裏口まで行き鍵を開け、無事にオーナー室まで到着することはできたけれど、今日こそは大通りに出なくてもいい道を覚えて帰ろうと、朝からいきなり決意することになってしまったのだった。
その後はオーナーが到着するまで、昨日の資料の場所などを確認しながら待っていると。
「お? 早いな。もう来てたのか」
「お、おはようございます……!」
見慣れている女性の格好ではなく、素の男性の姿で出勤してきたことに驚いてしまって。同時に今まで疑問にすら思ってこなかったけれど、外でオーナーを目撃したことが一度もなかった理由はこれだったのかと、妙に納得してしまった。
そもそも髪の色ですら、本来はシルバーではなくブロンドなのだから。同じ顔とはいえお化粧すらしておらず、服装も男性用で髪色も髪型も全て見慣れているものとは違うとなれば、まず気にも留めないのが普通だろう。なのでもしかしたら、今まですれ違っていたことくらいはあったのかもしれない。
「悪い。今から着替えと化粧があるから、座って待っててくれ。あと、そこの棚の中に菓子と茶と道具が入ってるから、好きに使ってくれ。全部貰い物で、俺一人じゃ消費しきれないからな」
「あ、ありがとうございますっ」
じゃ、と言って隣の作業部屋に入っていくその後ろ姿を見送ってから、私は言われた通りソファーに座る。そうして教えられた棚を見て、ふと思ったのだ。時折オーナーが差し入れに貰ったのだと言って持ってきてくれていたお菓子は、全部ここにあったものだったのだと。
透明なガラスが使われている棚の中には、綺麗にティーカップとティーポットが並べられていて。その上段には紅茶の缶がいくつも並び、下段のほうには大量のお菓子が所狭しと押し込まれていた。
「……確かに、この量は」
明らかに一人では消費しきれないだろうなと、私ですら一目見て分かってしまうようなもので。
それならダメになる前に、従業員に消費してもらうよね、と。妙に納得して思わず頷いてしまってからふと我に返って、部屋の中で一人静かにそんな行動を取っていたことが、急に恥ずかしくなってしまう。
思わず誰もいないと分かっていながら部屋の中を見回して、オーナーもまだ作業部屋から戻ってきていないことを確認してから、この姿を誰にも見られていなかったのは不幸中の幸いだったなと安堵のため息をついたのだった。




