1.あの日の真実 ~sideスノウ~
「誰もいないなら中でいいじゃない。どうして外に出る必要があるの?」
貴族令嬢らしい、上質な布をふんだんに使ったドレスを着た華やかな人間がいるにしては、確かに店の裏手というのはそぐわないのかもしれない。
だが。
「香水! その匂いが部屋に充満する! 布にも移る!」
「あら。これでも比較的軽い香りのものを選んできたのよ?」
そう言いながらも、自分の服の匂いを確かめて。それでもやっぱり分からなかったらしく、首をかしげている。
その姿に大きなため息をついた俺は、決して何も間違っていなかったはずだ。
「ったく、これだからお貴族様育ちは嫌なんだ。いいか? 平民ってのはそもそも香水をつけるような習慣もなければ、基本的にそんな高価なものに手を出す余裕もないんだ」
「あら。じゃあもしかして、こういった香りには敏感なのかしら?」
「だから、そう言ってんだろ」
前にも一度注意しているはずだが、どうやら香りの強さを指摘されたと勘違いしてたらしいと、俺はここでようやく思い至った。育ちの違いからの解釈の不一致というのは、どうしてこうも面倒くさくて訂正するのも難しいのか。
「それなら仕方ないわね。今度からは香水をつけないように気を付けるわ」
「だから! そもそも店まで来るなって話なんだよ!」
しかも何の連絡もなしに、唐突に。
本来なら着替えてもう家に帰っていたはずなのに、明日は定休日だから顧客の店にこっそり顔を出してみようと住所を確認していて遅くなったら、このザマだ。前触れもなく突然やってきたかと思えば、いきなり本題に入ろうとするから。その腕をひっつかんで、店の外までようやく連れて来たところだった。
一応裏口から入ってきてはいるし、すでに表の店が閉まって誰もいない時間帯を選んでくれてはいるらしいが。
「いいじゃない。私とあなたの仲でしょう?」
「そうじゃないだろ」
自分ごと優先なこの性格は、どうにかならないものだろうか。毎回これに振り回される身にもなってほしい。
あと、護衛や侍女はどうした。ここまで徒歩で来たわけじゃあるまいし、どっかに馬車だって停めてるはずだろう。
そう考えながら、もはやため息だけではこの感情を逃がすには足りないような気がしてきて、思わず額に手を当てた。このままだと頭痛もしてきそうだったからだ。
「だって、スノウはいつまで経っても頷いてくれないじゃない。ねぇ、私と一緒に暮らしましょう?」
「だから、何度も言ってるだろ。俺は平民だから無理だって」
「無理じゃないわ。お母様だって賛同してくださっているもの」
「むしろ何でそこが許すんだよ、おかしいだろ」
俺たち母子はどちらかといえば、そっちから恨まれるべき存在じゃないのか。前々からその部分はずっと疑問だったが、あまり深入りはしたくなかったのであえて聞くようなことはしてこなかった。世の中には知らなくていいことっていうのがあるからな。
「いいえ、おかしいのはお父様よ。お母様が私を身籠っている間に使用人に手を出して孕ませたくせに、それが発覚するのを恐れて身重な女性を不当に解雇して、さらには一人放り出すなんて。どう考えても、正気の沙汰ではないわ」
「いや、それが貴族の普通だろ」
「それなら愛人の一人として囲ってしまっていたほうが、よっぽど貴族としては普通だったわね」
「いやいや、貴族怖すぎだろ」
むしろそれを普通と言い切れてしまう目の前の人物も、ある意味で怖すぎる。
ただ、残念ながら。
「あら、スノウだって半分はその貴族の血が流れているのよ? 私の弟なのだから」
「気に食わないことにな」
そう。この目の前の人物は紛れもなく、半分血のつながった実の姉で。俺の体の中にも確実に、会ったことどころか顔すら知らないそのクソオヤジの血が流れているのだ。
こればっかりは変えられない事実なので、仕方がないと諦めるしかないが。それでも気に食わないことに変わりはない。
「本来なら、ソラナム伯爵家で何不自由なく暮らせたはずだったのよ。もう一人弟がいるから、家督を継ぐ必要もなかったのだし」
「いや、平民出身の母親から生まれた俺に家を継がせるつもりなんて、ハナからないだろ」
「だからこそ、よ。本当だったら今頃、私のお母様とスノウのお母様はゆっくりお茶を楽しんでいたかもしれないのだから」
「やめてやってくれ。母さんが緊張で倒れる」
それでなくても申し訳なさから、きっと顔を合わせることすらできないだろうに。
けど、この半分血がつながっているだけの生粋の貴族育ちの姉には、正確にそのことが伝わらなかったらしい。
「大丈夫よ! 実質的なソラナム伯爵家の実権は、お母様が握っているようなものだから!」
「いやいや! むしろそのほうが怖ぇだろーが! 逆によ!」
結局、今日も貴族と平民の考え方の違いをこの姉に教えるだけに終わってしまった会話は。
「私、諦めないわ! 必ずスノウと一緒に暮らしてみせるんだから!」
「もうそこは諦めろよ!」
いつもと同じ平行線をたどるだけで終わってしまったのだが。
まさかこれをライラに目撃され、さらには中途半端に会話を聞かれてしまったせいで、色々と勘違いが生まれていたのだと俺が知るのは、もっと先のことだった。




