3.助手兼事務員兼お世話係
翌日、いつものように出勤した私は。
「ライラ! オーナーが呼んでたよ!」
先輩従業員にそう言われて、開店準備の中一人、オーナー室へと向かうことになって。
(……もしかして、昨日のあれって、夢じゃなかった?)
私の記憶の中では、確かに昨夜オーナーと話した覚えはあるけれど。あまりにも都合が良すぎて、夢だったんじゃないかと思っていた。だからいつも通りの時間に起きて、いつも通りの時間に出勤してきたのに。
「あら、ようやく来たのね」
「おはようございます」
オーナー室のソファーに座っている、それはそれは綺麗なこの方が、このブティック『スノードロップ』のオーナー。
シルバーブロンドの長髪に、動きやすそうなけれど華やかさもある赤いドレス。組んだ足先に見える、同じく赤い少しだけヒールのある靴。そして極めつけが、その顔を上品かつ華やかに彩る化粧たち。一見すると、女性にしか見えないその風貌だけれど。
「……で? 昨日の話、覚えてるか?」
「は、はいっ」
オーナー室の扉が完全に閉まったことを確認してから私の目を見て発せられた言葉は、普段の独特な高めの声ではなく、明らかに男性のものでしかなくて。言葉遣いも、私がよく知っているオーナーのものとは全く違っていた。
「じゃあ今日からは、基本的に仕事中は常に俺と一緒に行動すること。出勤も今後は表からじゃなく、裏口からだ」
「え、っと……」
「あぁ、鍵か? 一応予備は作ってあるから、あとで渡す。それよりも先に、今日の納品先の顧客情報を覚えておいてくれ。これが資料だから」
そう言って差し出された紙の束を急いで受け取って、私はようやく昨夜の出来事が夢ではなかったことを理解した。同時にオーナーが本気で私を、助手兼事務員兼お世話係にするつもりなのだということも。
そしてあの出来事が夢ではなかったと証明されてしまった以上、これが本来のオーナーの声と話し方だということで。色々ありすぎてしっかりとは覚えていないが、髪色もシルバーではなくブロンドだったような気がしているし、もっと短かったはず。ということは、今のシルバーブロンドの長髪はきっと、カツラか何かということなのだろう。
「それだけ頭に叩き込んだら、なるべく早く出かけるぞ。今日は納品以外にも、結婚式のドレスに関する打ち合わせが一件入ってるからな。で、戻ってきたら資料の整理だ」
「あの……本当に、私でいいんでしょうか?」
正直私は、オーナーのことをよく知らない。『スノードロップ』で働き始めて二年になるけれど、オーナーと直接会話を交わしたことなど片手で足りてしまうくらいしかない上に、そもそもなぜ仕事中は女性のように振舞っているのかすら聞いたことがないのだから。
そんな私よりも、もっとちゃんとオーナーや仕事のことを理解している人のほうがいいのではないか。そう思って、疑問を口にしたのだけれど。
「あ? 何言ってんだ。この店の中で俺の秘密を知ってるのは、お前ただ一人。だったらせめて、この部屋の中にいる時ぐらいは気楽に過ごしたいって思うだろ」
「そういう、ものですか?」
「そういうもんだ。っつーか、本来なら誰にも知られるつもりはなかったんだけどな。正直なとこ言うと、お前が誰にもこのことを言わないように見張ってるっていう意味合いもある」
「わ、私言いませんよ! 誓って! 誰にも!」
そもそもオーナーが実はちゃんとした男性だったとしても、それを誰かに伝える必要性が私には一切ない。むしろそのせいで働けなくなってしまうほうが、私にとっては大損なのだから。
ただ、そんなことよりも。私にとっての損得を知っているはずなのに、それでも見張っている必要があるのだろうかと疑問に思うよりも先に、信用されていないのではないかという不安に駆られてしまって。思わず強く否定してしまった私に、けれどオーナーは昨夜と同じように不敵に笑ってみせたのだった。
そうしてオーナーの口から次に出てきた言葉に、予想すらしていなかった私は驚くことになる。
「だろうな。まじめな性格と手を抜かずにしっかりと仕事をする人間だってことは、俺もよく知ってる」
「……え?」
これまでは接点など、ほとんどなかったはず。だからまさか、ちゃんと知られているとは思ってもいなくて。つい真正面からその視線を受け止めて、不思議な色合いのその瞳に一瞬、吸い込まれそうになった。
夜の暗い中ではダークグリーンに近い色合いをしているように見えていたオーナーの瞳が、昼間の明るい光の中だとイエローブラウンのようにも見える、なんて。どう考えても今このタイミングではないはずの感想が、なぜか頭をよぎる。
ただ、私からの返答が何もなかったからか。それとも単純に、時間が惜しかっただけなのか。
「じゃあ、俺は隣の作業部屋で別の仕事をしてくる。覚えたら扉をノックしてくれればいい」
「あ、はい」
オーナーは立ち上がって、そのまま本当に隣の部屋の扉を開ける。その、去り際。
「あぁそれと、今後は店頭に立たなくていい。お前の職場は、基本的にこの部屋の中だから」
思い出したように、こちらを振り返ってそう伝えてくる。それに頷きをもって私が返すと、小さくフッと笑って。
「んじゃ、今日からよろしくな、ライラ」
この時初めて、オーナーは私の名前を呼んでくれたのだった。それが嬉しくて、なんだか認めてもらえたような気がして。
「は、はいっ! よろしくお願いします!」
資料を胸に抱えながら急いで頭を下げた私は、この時一気にやる気に満ち溢れたのだった。
そうしてオーナーが作業部屋に籠もっている間に、私は言われた通り渡された資料に目を通しながら、必死に顧客情報を頭の中に叩き込む。幸いにも何度かお店のほうで接客したこともある方だったおかげで、そこまで苦労せず時間もかけることなく、作業部屋の扉をノックすることができた。
その後、包装済みの商品を手にして出てきたオーナーに続いて、私は人生初の馬車に乗り込むことになったのだけれど。
「ライラ、あなたは基本的に黙っていていいわ。接客は全てアタシがやるから」
「は、はい」
あまりに緊張しすぎていたのか、この会話のあとのことはあまりよく覚えていない。というよりも怒涛の一日すぎて、緊張していなかったとしても覚えていられた自信がない。
オーナーがあっちにもこっちにも出かけているのは知っていたけれど、まさか有名な商人の奥様のために自宅まで商品を納品してそのまま世間話に付き合ったあとに、今度は別の商人の娘さんの結婚式のドレスの打ち合わせのために式場まで赴いて。階段の有無や段差の高さまで確認してからデザイン画の提案をして、さらにはその場で普段着の新調という新しい仕事まで取りつけるなんて、私には一切予想できなかった。
『スノードロップ』にはオーナー専用の馬車があるけれど、確かにこの仕事量をこなすためには確実に必要なのだろうと、今日一日で私は嫌というほど思い知らされた。同時に、オーナーがどれほど人並外れた量の仕事を一人でしていたのかも。
「ライラ、約束の鍵だ」
「あ、はい。ありがとうございます」
それでいて、戻ってきてからも普通に書類の整理の仕方を私に教えてくれていたのだから、もはや超人としか思えない。
「思ったよりも早く終わったし、今日はもう帰っていいぞ」
「え? でも……」
オーナー用の机の上にあった書類は確かに全て処理できたけれど、向かい合って座っているソファー用のテーブルの上には、まだ大量の書類が積み上げられていて。それなのに時計に目を向けてそんなことを言い出したオーナーに、私は思わずその大量の書類たちに目を向けてしまった。これはどうするのかという疑問を、一切隠すこともせず。
ただ、オーナーからすれば私のこの反応は予想通りだったようで。
「これは明日やる予定で出してきた分だからな。何度も出したりしまったりするのは、効率が悪いだろ」
そう私に返しながら、ぐーっと伸びをしていた。
正直まだ少しオーナーのこの女性の見た目と、男性の喋り方や声が結びついていないところはあるけれど。それでもどこか素の感じでリラックスしている姿を見ると、やはり本来はしっかりと男性なのだと認識できるようにはなってきていた。あとはきっと、慣れの問題なのだろう。
「ってことで、今日はここまで。おつかれー」
「あ、はい。お疲れ様でした」
「俺は着替えてから帰るから、ライラはこのまま帰っていいぞー」
「あ、はい。ありがとうございます」
ただなぜか、この時の私はすぐにこの状況に慣れてしまうような、そんな気がしていたのだった。