4.炎と絶望
「……え」
「当然だろ? 正義の粛清を続けるためには、俺はこれからも火をつけ続けなきゃならないんだ。そのための小さな犠牲は、致し方ない」
「ッ!?」
まるでちぎれかかった人形の首のように、おかしな角度でこちらに目線を向けてきたかと思えば、次の瞬間には完全に私への興味すら失ったように部屋の扉を開けて。外からランプを一つだけ持って、また部屋の中へと戻ってくる。
「ここも、貴族からの支援を受けて経営してた宿なんだよ。だから経営してた夫婦と一緒に、宿ごと燃えて消えるのが正しい」
「え……。待って、まさか……」
「運悪く、宿泊客のいる部屋で火が着いたままのランプが落ちたせいで、夫婦は逃げ遅れた。客もその時ベッドで寝てて、燃え盛る炎に気付かなかったんだ。かわいそうにな」
心にもない言葉を口にした次の瞬間、彼はランプに火をつけると、そのまま思いっきり床に投げつけた。途端、床に広がるオイルのシミと、それに引火するランプの炎。
「なっ……!?」
「じゃあな」
そんな状況下で、もはや焦点すら合っていない目を一瞬だけこちらに向けたかと思えば、男性はその背を丸めたまま部屋を出て無慈悲に扉を閉めてしまった。残されたのは、ベッドにつながれているせいで身動きの取れない私だけ。
「ちょ、っと……! 待ってっ! 誰か! 誰かいませんか!」
もしかしたら他にも宿泊客がいるかもしれないと思って、大きな声で叫んでみるけれど。今は昼間で、先ほどから一切人の気配がしていなかったことも考えると、誰かの助けを期待するには明らかに絶望的な状況だった。
「こんな……! 私には何の関係もない場所で……!」
しかも何一つ関わっていないことのせいで死ぬなんて、どう考えても納得できるはずがない。必死に細い布を引っ張ってはみるものの、私の力ではちぎれそうになくて。指先で足の結び目も探ってみたけれど、縛られている手ではどう頑張ってもほどけないような、ちょうど真後ろに位置する場所にそれらしき感触があっただけ。
どうにかして逃げ出す方法はないかとあたりを見回してみても、布を切ることができそうな刃物すら一つも見当たらない。
「どうしようっ……こんなところで、私まで火事で死んじゃったらっ……」
ヴェルは、一人ぼっちになってしまう。しかも家族全員を火事で亡くしたとなれば、もう二度と立ち直れないかもしれない。せっかく最近体調を崩すことがなくなってきているのに、昔のように寝たきりに戻ってしまう可能性だって、十分にあり得る。
「そんなの、ダメっ……!」
だから、私は帰らなければならないのに。どうしても脱出するための方法が思い浮かばない。
しかも恐ろしいことに、想像していた以上に火の回りが早い。廊下側の壁部分に燃え移っているので、反対側にいる私はまだ直接炎にあおられているわけではないけれど、その熱さはここまで伝わってきていて。同時に、徐々に白い煙が立ち込めてくる。
(どうしようっ……どうすればいいっ……!?)
正常な判断が下せるかどうかも分からないような状況下で、焦るなというほうが無理だろう。今は特に、どうにかしなければこのまま本当に炎に巻かれて死んでしまうのだから。
「っ……誰かー! 誰かいませんかー! 火事ですっ! 助けてくださーい!」
体が自由に動かせないのであれば、とにかく誰かに気付いてもらうしかない。そう考えて、私は必死に声を上げるけれど。心の中では、別のことを考えていた。
(ヴェルを一人になんてできないし、このままだとオーナーにだって迷惑がかかる……!)
このままいけば私はある日突然、何の前触れもなく失踪してしまったことになるだろう。もしくは何らかの事故や事件に巻き込まれたと思われるかの、そのどちらかしかない。実際には事件に巻き込まれているので、後者が正解ではあるのだけれど。とはいえ、ここにいたのが私だとは誰も思わないし、予想もできないだろう。そうなれば、真相は永久に分からないままになってしまう。
そして、万が一この場所にいたのが私だと分かった場合には。
(きっと『スノードロップ』に、オーナーのところに聞き込みが行くはず……!)
そうなれば、本格的にお店の迷惑になってしまう。できれば、そんなことにはしたくないのだけれど。かといって、今すぐにここを脱出する方法も見つけられていない。
「誰かー……! 誰かっ……! 誰かっ、いませんかー……!」
必死に叫びすぎたせいで喉が痛くなってきたのだと思った、次の瞬間。目の痛みと同時に、激しくせき込んでしまう。そのまま声を出すこともできそうにないくらい苦しくなって、思わずその場にうずくまってしまった。
(どうしよう……もう……)
目も開けられないまま、呼吸も苦しくて。どんどん意識がもうろうとしてきてしまう。
この時私の頭の中に浮かんだのは、ヴェルの優しい顔と、私を呼ぶ声。そして――。
(オーナー……)
恋人がいるのは、この目で見たから知っている。だから、想いを告げるつもりはなかったけれど。
(もう、会えなくなっちゃう……)
それだけが、ただ悲しい。仕事中の女性の姿でも素の男性の姿でも変わらない、光の当たり具合で変化するあの不思議な色合いの瞳を思い出してしまって、目の痛みではない涙があふれてくる。
「…………ごめん、なさい……」
誰に対しての何に対する謝罪なのかは、自分でも分からなかったけれど。無意識に口からこぼれたのは、そんな言葉で。
目の前まで迫ってこようとしている炎の熱を肌で感じながら、もう諦めようと意識を手放しかけた、その瞬間。
「ライラ!」
遠くから、オーナーが私を呼ぶ幻聴が聞こえた気がした。
 




