5.訪問
ヴェルの体調も確認しながらになるので、オーナーとは次の定休日かその次までを一度予定日にしようという話になっていたけれど。薬を変えた効果なのか、次の定休日までの間にヴェルが体調を崩すこともなく予定通り当日を迎えることになったのは、私からすれば奇跡のようなもので。
「本当に? 本当に大丈夫? 無理してない?」
「だから、姉さんってば心配しすぎ。最近は本当にずっと調子がいいんだよ。姉さんだって、見てて分かるでしょ?」
「そう、だけど……。でも、もしも少しでも体調が悪くなりそうだったら、無理せずにちゃんと休んでね?」
「分かってるよ。姉さんってば、本当に心配性だなぁ」
ヴェル本人にまでそう言われてしまったけれど、こんな経験は初めてだから仕方がない。とはいえ、調子が悪いのを隠しているわけではないことは顔色を見れば明らかなので、そこはある意味安心できるかもしれないとは思っている。
ただし体を冷やさないためと、長時間ダイニングのイスに座らせておくのは少し不安だったので、ヴェルにはベッドに座ってもらっていることを条件に入れた。なので必然的にオーナーをヴェルの部屋に通すことになっているのだけれど、幸いなことに私たち姉弟はそれぞれベッド横に両親が買ってくれていたサイドテーブルがあるので、今回はそれを飲み物を置く場所として使うことにした。普段この部屋の中では薬を置く場所としてしか使われていないので、むしろ別の役目を与えることができてよかったのかもしれない。
「それよりも、姉さんはいつも通りの服装でいいの?」
淡いグレーの瞳でのぞき込んでくる姿が可愛くて、思わずその頭をなでたくなってしまったけれど。さすがにもうそろそろ、あまりそういうことはしないほうがいい年齢だろうと、グッとこらえた。
「オーナーさんって、お店で一番偉い人でしょ?」
「だからって、家の中でオシャレしてたら変でしょう? それに普段からこの格好は見られてるから、このままでいいの」
「そういうものなんだね」
というよりも、変に意識していると思われたくない。そんな私の個人的な考えもあるし、あくまで今回の訪問理由はヴェルだからというのもある。
それに私は、飲み物の準備をしたりとか色々やることもあるだろうから、ある程度汚れてしまっても大丈夫な服装をしていたほうが安心できるというのもあった。
と、そんな話をしていたら、玄関の扉をノックする音が聞こえてきて。
「あ! 来たかも!」
嬉しそうなヴェルの表情に、私もつられて笑顔になってしまう。
「迎えに行ってくるから、待っててね」
「うん!」
同時にその笑顔に気が抜けてしまったのか、つい先ほどの考えが完全に飛んでしまって、思わずそのレッドヘアーに手を伸ばして軽く頭をなでてしまった。とはいえ本人は一切気にしていないようだったので、問題なかったけれど。
ヴェルの部屋を出て、急いでダイニングを通り過ぎて玄関の扉を開ける。そこに立っていたのは、当然素の男性の姿をしたオーナー。
「どうだ? 体調は問題なさそうか?」
そして開口一番、ヴェルの心配までしてくれて。その不意打ちに、危うくときめきそうになってしまった。
「っ……はい、大丈夫そうです。どうぞ」
とはいえ、なんとか返答することができた私は、そのままオーナーを家の中に招き入れる。このままヴェルの部屋まで直行してもらおうと、扉を閉めて鍵をかけてから振り向いて、歩き出そうとしたのだけれど。
「そうか、ならよかった。あと、これ」
「……?」
今度は、紙袋を差し出してくるオーナー。いったい何だろうと、中身を見てみれば。
「え……? あの、これ……」
「缶のほうは、貰い物の紅茶だ。道具がなくても熱湯の中に入れれば簡単に飲めるらしいから、ちょうどいいと思って持ってきた。できればそのまま貰ってくれると助かる」
「いえ、あの、それはいいんですが……その……」
問題は、もう一つのほう。明らかに日持ちしなさそうな、いい香りのする焼き菓子のようなそれは、貰い物とは思えなくて。それでいて、明らかにいいお店の包装がされていた。
すると案の定。
「あぁ、それは途中で買ってきた。どうせ紅茶があるなら、菓子の一つぐらいあったほうがいいだろ。最近人気らしいしな、そこのフィナンシェ」
さらりと答えをくれるオーナー。ただ私はむしろその言葉に驚いて、思わずその顔をまじまじと見上げてしまう。
「フィナンシェ!? フィナンシェを買ってきたんですか!?」
「あぁ。ダメかったか?」
「いえっ、だってっ……! フィナンシェって、お金持ちの人が食べてるイメージが……!」
金の延べ棒のような形をしているのは、そういったものに慣れ親しんだ上流階級の人々にも手に取ってもらいやすくするためだと聞いたことがある。実際この手のお菓子は金融系の仕事の関係者がよく手にしていると、オーナーと一緒に行った先でお得意様が話していたはずだ。
「あくまでイメージだろ? それに、買うのは個人の自由じゃないか?」
「そう、です、けどっ……!」
だからといって、まさか我が家へ来るだけなのに、こんなにも高級なお菓子を持ってこられるとは思ってもみなくて。どうしようかと自分の家の中で右往左往しそうになっている私に、オーナーは軽い口調で言う。
「食べたことないなら、ちょうどいいな。今後のためにも、少しずつそういうものに慣れとけ」
まるで、これからこういったものに触れる機会が増えるだろうと言わんばかりに。
(もしかしたら、本当に増えるかも……)
ただそれならば、せめて買ってきたオーナー本人も巻き込んでしまいたいので。せっかく紅茶も用意してくれているし、あとで一緒に出してしまおうと、この瞬間決意した。
とはいえ頂き物は一度ダイニングのテーブルの上に置いて、まずは。
「分かりました、あとでいただきます。ただ、今日はそれよりも先に、ヴェルに会ってあげてください」
そう言って、私がヴェルの部屋へと続く道を手で指し示すと。
「もちろんだ。今日はそのために来たんだからな」
オーナーは笑顔で頷いてくれたので、どうやらこれ以上の衝撃を受けることはなさそうだと、私はようやく安心したのだった。




