4.可愛いお願い
それは私からすると、突然の出来事だった。
「姉さんボクね、オーナーさんにお礼がしたいんだ」
今までに類を見ないほど調子のいい日が続いているヴェルが、ある夜の夕食後そんなことを言い出して。
「ボクがこうして元気でいられるのも、オーナーさんのおかげでしょ?」
「まぁ、うん。確かにそう、ね」
実際あの夜以降、仕事内容が変わったのと同時にお給料も本当に倍以上になって。おかげでヴェルの定期健診もしっかりできているし、必要なお薬もより良いものを選ぶことができるようになった。そしてその効果は、以前よりも起き上がっていられる時間が増えるという、目に見えて分かる形で表れている。
「だからもし可能なら、オーナーさんに会って直接お礼が言いたいなって。……ダメ、かな?」
まだ私よりも身長が低いヴェルは、顔色を確かめるように下からそっと目線だけを向けて見上げてくるのだが。その姿が、あまりにも可愛くて。
(ダメなんて、言えない……!)
そもそも普段お願いなんてひと言も口にしない子だからこそ、こういった珍しい時には全て叶えてあげたくなってしまうのだ。
ただ今回に関しては、私一人で結論を出すことはできないので。
「明日、オーナーに聞いてみるね」
そう返すしか、この時の私にできることはなかった。
「うん! ありがとう姉さん!」
そんな私に返ってきたヴェルの笑顔は、それはそれは晴れやかで眩しいくらいだったので。これは何としてでも叶えてあげなければと、強く心に決めた。
それが、昨夜のこと。
「礼を言われるようなことじゃないんだけどな。俺も実際に作業に集中できるようになって、助かってるわけだし」
ひと息ついたらしいオーナーが作業部屋から出てきたところで、そんなヴェルの可愛いお願いを聞いてほしいと相談してみると。返ってきたのは、そんな言葉たち。
とはいえ、ここで引き下がるわけにはいかないので。
「お願いします。せめて少しだけでもいいので――」
ヴェルのお願いを叶えてあげようと、必死に説得しようとした私の言葉は。
「いや、別にそれ自体はいいんだけどな。会うとしたら定休日に、ライラの家でってことにならないか?」
「……え?」
オーナーの質問に完全に遮られてしまったのと同時に、その意味を一瞬理解できずに考えてしまって。けれど理解した瞬間、驚きにオーナーへと視線を向ければ、呆れたような表情を返されてしまう。
「病人に店まで来させるわけにはいかないだろ。だったら、俺が直接出向いたほうがいい」
「あの、でも……それだと、せっかくの休日が……」
「俺の休日なんて、基本的に家で裁縫してるか街に調査に出てるかのどっちかしかないんだよ」
「え……」
それはそれで極端すぎて、驚きでしかないのだけれど。さすがに本人を目の前にして、素直にそれを口にする勇気はなかった。
とはいえヴェルを外出させなくていいのであれば、そのほうが私としても大変助かるので。
「どうする?」
「え、っと……。お願い、します」
問われて、素直に頭を下げた。
個人的なことを少しだけ言うとすれば、自分の家にオーナーを招くことがあるなんて考えたこともなかったから、色々な意味で妙に緊張してしまうけれど。
(大丈夫。今回はただ、ヴェルのお願いを聞いてもらうだけ)
それ以上に、私には一切の望みがないことをもう知っているから。期待は、しない。
頭ではそう理解していても、休日にも会えると思うだけで嬉しくなってしまうのは、まだこの恋を忘れられていないから。ただそれだけは、そう簡単にできることではなさそうなので。
(少しずつ、恋を知る前の私に戻っていくしかないよね)
結局そこに戻ってきてしまうのだ。
胸の痛みは、すぐにはなくならない。一喜一憂してしまうのも、仕方がない。そう諦めて、受け入れて。ただ時が経つのを待つだけ。
そう自分に言い聞かせながら頭を上げて、日程も今相談してしまおうと考えていた私だけれど。
「あ、そうそう。会いに行く時は、今のこの格好はしていかないから。よろしくな」
「……はい?」
先にオーナーから告げられた言葉に、胸の痛みすらどこかへいってしまって。というよりも、それどころではなくなってしまって。
「いや、さすがにこれで外を歩くのはちょっと……。色々噂になるだろうし、それ以上に病気の弟にこの姿は衝撃的すぎないか?」
「…………そう、かもしれませんね……」
困ったような表情で聞かれた言葉を、よくよく考えて。確かにそうかもしれないと納得してしまった私は、素直に頷くしかなかった。
言われてみれば以前の市場調査の時と同じで、女性の格好のままだと目立ちすぎる。しかもそんな人物が集合住宅を訪れたとなると、それはもう一気に噂が広まるだろう。そして大変になるのはきっと、ご近所さんから質問攻めされるであろう私のはずで。だから大変ありがたい申し出でもあったのだけれど。
「ただ、その……いいんですか?」
本来であれば、オーナーの素の姿は秘密のはずだ。いくらヴェルが外に出られないとはいえ、どこからそれが漏れてしまうかも分からないのに。
そういう意味合いも込めて問いかけた私の言葉に、オーナーはその不思議な色合いの瞳をふっと柔らかく細めて。
「ライラの弟なんだ。心配する必要なんて、どこにもないだろ。それに元気になったら本当のことを言って、ウチで働いてもらうのもいいかもな」
そう、言ってくれた。
オーナーの気遣いに、本当に感謝しつつ。その時が来たらぜひお願いしますと、もう一度深く頭を下げた私はこの日の夜、ヴェルにそのことを報告したのだった。




