4.苦い衝撃
見知らぬ美女は、格好からしておそらく貴族のはず。そうでなくてもあのプラチナブロンドの髪の艶やかさを保つには、相当なお金と時間をかける必要がある。そんなことができるのは貴族か商人くらいしかいないけれど、私が普段オーナーと一緒に出向いている商人の奥さまやお嬢様方とは全く違う雰囲気を持ってることからも、貴族であることは間違っていないと思う。
ただ問題は、どうしてお店の裏口に貴族の、しかも妖艶な女性がオーナーと一緒にいるのかということ。
(表が閉まってるから、わざわざ裏口まで探してきた?)
それにしては、以前の厄介なお嬢様の時みたいに使用人を連れている様子もないし。
そんなことを考えていたら。
「いいじゃない。私とあなたの仲でしょう?」
「そうじゃないだろ」
二人の会話が聞こえてきてしまって。盗み聞きするつもりはないので、あとで戻って来ようと一歩足を後ろに引いた瞬間。
(あれ……? 今、オーナー……)
私は、気付いてしまった。格好は女性のままなのに、なぜか素の声と話し方で貴族の女性と接していることに。
その事実に、なぜだか嫌な予感がして。思わず胸元の服を握りしめながらオーナーに目を向けると、どこか苦悩しているような表情でため息をついてから、額を押さえるように片手を当てていた。対して妖艶な美女は、綺麗なブルーの瞳を真っ直ぐオーナーに向けていて。そこには遠目から見ても明らかなほど、大きな愛情が含まれていた。
そして彼女は、その整った美貌を柔らかな微笑みに変えて、甘えるような声でオーナーにこう言ったのだ。
「だって、スノウはいつまで経っても頷いてくれないじゃない。ねぇ、私と一緒に暮らしましょう?」
「ッ……!!」
その言葉を聞いた瞬間、私は気付いてしまった。この貴族の美女が、女性の格好をしている状態でもオーナーが素を出せるような存在、つまりは恋人なのだと。
「だから、何度も言ってるだろ。俺は平民だから無理だって」
しかも身分差のある恋をしていて、叶わぬものだと苦悩している。だからオーナーは諦めてしまっているけれど、美女は諦めるつもりはなく、むしろそれほどオーナーのことを愛しているのだということまで、私には分かってしまったから。
「無理じゃないわ。お母様だって賛同してくださっているもの」
「むしろ何でそこが許すんだよ、おかしいだろ」
これ以上ここにいて会話を盗み聞きしてはいけないと、二人に気付かれないようにそっとその場を離れて。急いでもと来た道を引き返して、家まで走って帰ったのだった。
そこからはどう過ごしていたのか、あまりよく覚えていない。ただいつも通りに食事を準備していたような気はしているけれど、食べる気にはなれないまま。ヴェルに心配されても、少し食欲がなくてと言葉を濁すことしかできなかった。
ただその時の私は、あまりヴェルに心配をかけすぎてはいけないと、そのことしか考えていなくて。ヴェルが部屋に戻ってから片付けや軽い掃除を終わらせて、ようやくひと息ついた瞬間に視界に入ってきたオレンジに、さすがにお腹に何も入れないのはよくないと思い。ナイフを取り出してきてしっかりと切り分けてから、果実を口にしたのだけれど。
「……苦い」
他のオレンジよりも皮の色が薄かったので、もしかしたらまだ完全に熟しきっていなかったのかもしれない。
ただ、今まで食べてきたオレンジの中で、一番強く苦味を感じてしまったこの瞬間。
「うっ、ふっ……」
自分の意思とは関係なく、涙が溢れ出してきてしまって。そのまま、止まらなくなってしまった。
だって、知らなかったのだ。オーナーに恋人がいたことも、そのお相手がオーナーと並んでも引けを取らないくらい美人の貴族だったことも。そして、身分差のせいで叶わぬ恋をしているのだということも。
「わ、たしっ……」
何一つ、オーナーのことを知らないままだった。分かっていなかった。
それなのに、一人で舞い上がって意識して。いったい今まで何をしていたのだろうと、自分が情けなくて呆れるばかりで。
「うっ、うぅ~……」
けれど同時に、今まで感じたことがないほど胸が張り裂けてしまいそうに痛くて。これが言葉でしか知ることのなかった失恋の痛みなのだと自覚したところで、じゃあ今からこの恋心を捨てますだとか、オーナーへの想いを忘れますだとか、そんな簡単なことはできるわけもなく。
「……アクセサリー、取りに戻れなかった」
ようやく涙がおさまって最初に呟いた言葉がそれだったことからも、それは嫌というほど思い知らされて。けれど私にとって大切な宝物が今この場にないことが、明日の大切な約束に一緒に連れて行けないことが、この恋が叶うことはないのだという事実を表しているような気がしていた。
結局この日はベッドに潜り込んでもなかなか眠ることができず、むしろオーナーと美女が並び立つ姿を思い出しては、一人涙を流してばかりで。ようやく眠りにつけたのは、夜もかなり更けてからのことだったと思う。
ちなみに翌日エミィと会った時には何も言われなかったので、おそらく目は腫れていなかったはず。そして肝心のエミィの恋人は、少し癖のある淡いブラウンの髪にメガネをかけた、優しそうな人だった。二人で笑い合っている様子を見ているだけで、私もどこかあたたかい気持ちになったから、きっと幸せになれるはず。そう思えるほど、二人は本当にお似合いだった。
「エミィのこと、よろしくお願いします」
「いえいえ! こちらこそ、よろしくお願いします」
途中エミィが席を外している間に、そう言って初対面同士なのに二人で笑い合ったりもしていたけれど。前日に失恋したばかりの私が、今こんなにも穏やかな気持ちでいられるとは思わなかったから。二人の幸せそうなあたたかい雰囲気のおかげで、少しだけ前を向けるような気がしていて。
でもまさか私たちのそんな様子を、偶然休日に街に出ていたオーナーに目撃されていたなんて。この時の私は、知る由もなかった。




