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ヒーローは、オネェさん。  作者: 朝姫 夢
第四章 苦い衝撃
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2.ハプニング

 とにかく落ち着いて、まずは仕事を終わらせることから。そう頭を切り替えようと、何度もゆっくり深呼吸して。ようやく顔の熱も引いたところで立ち上がって、思考がおかしな方向に飛んでいってしまう前に、資料の整理を開始した。

 自分でも驚くほどの集中力を見せたおかげか、いつもよりもずっと早く仕事が終わってしまって。なのでその分、別の仕事にも手をつけることができたのは、よかったのだけれど……。


「ライラ、出かけるぞ」

「は、はいっ」


 問題は、馬車の中で二人きりになる時間だった。向かい合って座っているせいで、ここだけはオーナーが目の前にいる上に、資料整理やオーナー室の掃除で気を紛らわせることもできない。だからといって、意識しすぎるわけにもいかず。結果、ここぞとばかりに今後の予定の確認だったりをして気まずい空気にならないようにと、変に質問するようになってしまった。

 ただ同時に、こういう機会でもなければ疑問に思ったことを気軽に聞いたりはできないので、これはこれで大変有意義な時間になったことは確かだった。特にその日のお得意様への対応の仕方は本当に勉強になったので、意図せずしてまじめに仕事をしている状況になったのはよかったのかもしれない。

 とはいえ、いつどこで何が起こるかは誰にも分からないもので。


「なるほど。奥様のおしゃべりに捕まってしまわないように、私も気を付けます」

「えぇ、本当に気を付けて。一度捕まったが最後、いっ!?」

「きゃっ!?」


 会話中に突然馬車が停止してしまって、その勢いのまま体が後ろに引っ張られてしまう。幸い革張りの背もたれのおかげで、背中や頭を強く打ち付けることはなかったけれど、その代わりに。


「あ、っぶなー……」

「っ!!」


 あまりにも近い距離で聞こえてきたオーナーの声に、驚きに閉じてしまっていたまぶたを持ち上げてみれば。


「ライラ、大丈夫か?」


 なぜか、すぐ目の前に、化粧が施された綺麗な顔があって。思わず酒場で出会ってしまったあの夜のことを、私が思い出していると。


「頭とか、打ってないか?」

「っ!?」


 心配そうにのぞき込んできた、不思議な色合いをした瞳と目が合って。そしてこの至近距離だというのに、後頭部にあたたかい手のぬくもりまで感じてしまって。

 誰かに聞かれてしまっても大丈夫なように、少し高めの声で女性のような話し方をしていたはずのオーナーが、小声とはいえ素の声と話し方に戻っていることにも気が付かないまま。一瞬息が止まってパニックになりかけた私は、急いで首を何度も小さく縦に振るのだった。


「そうか。それならよかった」

「――っ!!」


 それなのに、こんなにも近すぎる距離で、安心したように微笑むから。あまりにも綺麗すぎるその顔に思わず見とれてしまった私はこの時、自分の心を偽ることすらできないほどのときめきを、確かに感じてしまっていて。


「ちょっと、急にどうしたの? 何か問題でもあった?」

「すみません! 実は目の前に犬が飛び出してきたもので……!」

「あら、じゃあ仕方ないわね。ぶつかったりはしていないんでしょう?」

「もちろんです!」

「じゃあいいわ。ありがとう」


 オーナーが御者と話している間、強く目をつむりながら両手で胸のあたりの服を握っていたのだった。

 その後はさすがに、何の問題もなく目的地を回ることができて。普段の外出時と同じように、一度お店に戻ってきてから顧客データの整理をして。それで今日の業務は終了だったので、オーナーにあいさつをしてから帰路(きろ)につく。


 そこまでは、よかった。仕事に集中していたことで、余計なことを考える必要がなかったから。

 だからこそ、問題はここからで。


 なるべく早足で家まで向かって、寝ているかもしれないヴェルを起こさないように静かに鍵を開けて、素早く家の中に入り。そこでようやく、安心してひと息つくことができた。

 けれど、気を抜いたら色々と思い出してしまいそうになって。そのまま夕食の支度を終わらせてしまおうとキッチンに向かったのに、そこで目に入ってきたのは、爽やかな香りを放つオレンジ。


「っ……」


 その瞬間、色々と思い出してしまった私は、そのオレンジを一つ手に取って。それを両手で、包み込むように持ちながら。


「……好き」


 そう、呟いてしまっていたのだった。

 口にしてしまえば、認めざるを得ない。自分の心を偽り続けることも、もうできるわけがない。

 せっかく仕事に集中することで、気付きそうになっていた感情に目を向けずにいられたのに。これでは台無しだと、冷静な自分がどこかでそう思うのと同時に、素直に受け入れることで自分の感情をこれ以上偽り続ける必要はなくなったのだと、どこかでホッとしている自分も存在していた。

 この時手にしていたオレンジは、夕食後のデザートとしてヴェルと二人でおいしくいただいたのだけれど。爽やかな香りや酸味よりも、今までで一番強く甘さを感じたのは、私の気のせいではなかったと思いたい。



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