1.遭遇
夜も明るい店内のテーブルのあちらこちらから、楽しそうな笑い声が聞こえてくる。ひと仕事終えた人たちの憩いの場となっているこの酒場の雰囲気を、私は案外気に入っていて。十八歳になったばかりだった私を雇ってくれた酒場の主人たちの人柄が、店内のこの雰囲気にも反映されているように感じていた。
「ライラ! 三番テーブルに追加のエールと、口直しのオレンジを運んどくれ!」
「はい!」
注文に呼ばれるかもしれないと思いながらあたりを見回していたら、後ろから女将さんに呼ばれて慌てて振り向く。渡された木のトレーには、確かにエール一つと切り分けられたオレンジの入ったお皿が乗っていて。私は言われた通り席の間を縫って、三番テーブルへとそれらを持って行った。
ちなみにこの爽やかな香りを放っているオレンジは、毎年この時期になると女将さんの実家から大量に送られてくるそうで、家では消費できないからお客さんに口直しとして無料で提供しているらしい。このサービスのせいもあってか、この時期になると途端にお店が繁盛し始めるらしく、人手はいくらあっても困らないのだとか。だから実は、このオレンジのおかげで私も雇ってもらえたと言っても過言ではない。オレンジ様様である。
「お待たせしましたー! ご注文のエール一つと、口直しのオレンジです!」
酒場は騒がしくなる場所なので、とにかく大きな声でハッキリと元気よく接客することと最初に教わった私は、今日もこうしてこの場所で働いていた。ここまでは、ちゃんと普通に。
それが大きく変わってしまうことになったのは、このあとの会話からだったと思う。
「あ、注文いいっすかー?」
「はい、どうぞ!」
「スノウ、お前どうする? 今来たから、とりあえずなんか頼むだろ?」
「あぁ。じゃあ、この野菜炒めとソーセージ盛り合わせとー……」
スノウ、なんて珍しい名前の男性がこの街には二人もいるのかと、内心驚きを感じながら顔を向けた先で。目が合った人物は男性用の服を着用してはいるものの、明らかによく知っている人物と同じ顔をしていて。
きっと、ここでお互い驚いた顔をしてしまっていたのが、まずよくなかった。
「……オーナー?」
さらに思わず口から出てしまった言葉のせいで、事態はより悪化する。
「……ちょっと待て。お前、ウチの従業員だよな?」
「あっ、いえ、あの……」
「え!? スノウの店の!?」
「え!? 今日スノウが遅くなったのって、店の仕事があったからだろ!?」
テーブルにいる数名の男性が、私とスノウと呼ばれた人物の顔を交互に見てくる。その表情はもれなく全員、驚きに満ちていて。そして私はといえば、目を合わせることすらできなくて視線を彷徨わせていた。
「最近顧客が増えて、事務仕事が一人じゃ時間までに片付かなかったんだよ。だから残ってたのは俺一人だけだが……」
下から見上げられているだけのはずなのに、思わず肩が跳ねてしまった。しかも目を合わせてすらいないのに、だ。
いくら普段とは違う低い声だからといっても、決して大声を出されたわけでも威圧されたわけでもなかったのに。なんだか責められているような気がして、居心地が悪くて。
「その……仕事の掛け持ちは、契約違反ではないはず、ですよね?」
言い訳のようにそう口にした言葉に、向けられる視線がさらに鋭くなったような気がした。
「違反じゃない。が、掛け持ちするほど俺の店の給料は安いか? 不服か?」
「い、いいえ! まさか! 普通に生活するには、十分すぎるくらいです!」
「へぇ? それなら、逆に聞きたい。昼間に俺の店で働いておきながら、どうして夜も酒場で働く必要がある?」
「そ、れは……その……」
理由はちゃんとあるけれど個人的すぎる内容なので、誰が聞いているかも分からない酒場で話すわけにもいかず。どうしようかと私が視線を彷徨わせていると、なぜか突然目の前から大きなため息が聞こえてきた。それは当然、私が「オーナー」と呼んでしまった人物で。
「っつーか、これって俺もバレたってことじゃねぇか」
「あぁ、そっか。お前、本性隠してたんだっけ」
「人聞き悪いこと言うな。仕事の顔と使い分けてるだけだ」
困ったような顔をしているスノウと呼ばれた人物は、私が昼間働かせてもらっている『スノードロップ』という名のブティックのオーナーで。基本的に女性向けの商品のみを扱っているからか、普段は常に女性の格好をしているはずだった。
話し方も、もっと女性的で。だから、素でそういう人なのだと思っていたのに。それが今はなぜか、どこからどう見ても男性にしか思えない見た目と話し方をしていて。
(え、っと。つまり……)
理由は分からないけれど、本当はちゃんとした男性なのに、仕事のために女装をしていただけ、ということになるのだろうか。話し方や振る舞いまで、女性らしく見えるようにしてまで。
だとすれば、それはそれで大変なのではないだろうか? いくら仕事だからって、見た目のみならず話し方まで普段とは違うものに変えているなんて、普通の人にできるようなことではないのだから。
「悪い。ちょっと、従業員と話してくる必要がありそうだ」
「えー? お前、今来たばっかだろーが」
「個人的な理由なら、こんなとこで聞くわけにもいかないだろうが。一応先に、店の人間に話つけてくる」
「……え!? ちょ!」
私が変なところに感心している間に、なぜか勝手に話が進んでいたようで。しかも行動力がありすぎるオーナーは、気がついた時には本当に女将さんと何かを話していて。まだ木のトレーを持ったままだった私に視線を向けた女将さんは、険しい顔をして首を横に振っていた。
それがどういう意味を持っているのかも分からないまま、ただ首をかしげていた私は。
「許可取ってきた。行くぞ」
「え!? あの……!」
いつの間にか戻ってきていたオーナーに腕を掴まれて、お店の外まで連れ出されてしまったのだった。しかもご丁寧に、関係者しか通れないはずの裏口を使って、酒場の裏手の路地へ。
つまりその時点で、女将さんもオーナーの味方ということなのだろう。確かに昼間も働いていることは、一度も口にしたことはなかったけれど。もしかしたら、さっきのあの険しい顔はオーナーと同じで、仕事を掛け持ちしていることに対するものだったのかもしれない。
そうして、今に至るわけだけれど。
「こっちとしては正当な理由がないまま、昼も夜も働かせるわけにはいかないんだよ。酒場の女将も、俺と同じことを考えてた」
「え……」
「従業員ってのは、店にとっては大事な資産なんだ。経営してる身からすれば守るべき存在で、倒れられたら困るんだよ」
つまり、掛け持ちしていることそのものを怒っているということではなく。
(二人とも、私が倒れるかもしれないって心配してくれてた……?)
おそらくは、そういうことなのだろう。
二人の優しさからきていたその表情を、無断で仕事の掛け持ちをしていたから怒っているのだと考えていた先ほどまでの自分が、なんだかとても恥ずかしく感じた。
「で? いい加減、理由を答えろ」
オーナーがこうして誰にも聞かれないような場所をわざわざ選んでくれたのも、もしかしたらその理由があまり人に聞かせられない事情かもしれないと考えて、気を遣ってくれたからなのかもしれない。
そこまでしてもらってもなお黙っているべき理由など、特別あるわけでもないので。
「実は……」
私は素直に、これまでの経緯を話すことにしたのだった。




