7.甘酸っぱい ~sideスノウ~
「ライ――」
作業部屋から出てすぐ目に入ってきた人物の名前を呼ぼうとして、けれど途中で気付いてやめた。どうやら書類整理の途中で眠ってしまったらしく、ソファーに座りながら静かな寝息を立てていたのだ。
朝からフィッティングをし、その後すぐに出かけたので、疲れてしまっていたのだろう。急ぎの仕事も今は特にないはずなので、ひと言声をかけてくれさえすれば今日は帰ってもよかったのに、と思う反面。うたた寝をしてしまっている珍しい姿を見られたので、個人的には少しだけ得した気分になったのも事実。
「……完全に寝てるのか?」
小さな声で問いかけた言葉に、返事はない。ということは、かなり深い眠りに入ってしまっている可能性が高いだろう。
起こしてしまうのもかわいそうなので、このまましばらく寝かせておこうとは思うものの。せめて持っている書類だけはと、華奢なその手からそっと抜き取って、テーブルの上に置いた。その際に少しだけ見えた内容に、思わず寝ている相手に呆れた視線を向けてしまったのだが。
「新規顧客のデータ整理なんて、明日でもいいだろ」
普通にそう声に出してしまってから、急いで口元を覆った。今さらな気もするが、そろりと横目で様子を見た感じではまだ目覚めてはいないようで、ひと安心する。
大きな音を立てて起こしてしまうと悪いので、とりあえず普段あまり座ることのない専用机のイスに腰かけると、ふと目に入ってきたのはライラが俺用にと取り分けてくれていたオレンジ。それを何気なしに手に取ってみたら思っていたよりもずっしりと重く、けれど心地のいい冷たさが先ほどまで作業をしていた手に染み渡っていくようだった。
傷一つないその皮の濃く鮮やかな色合いに、ついライラと二人で出かけた時のことを思い出してしまって、自然と笑みがこぼれる。あの日のライラは、俺が今と同じ女装姿でいるものだと思っていたらしいが。
「目立つだろ、どう考えても」
それ以前に、酒場で会った時に俺は普通に男の格好をしていたし、普段の出勤時もそれは同じだ。それを彼女は知っていたはずなのに、なぜかそんな勘違いをしていたのは、もしかしたら仕事の場合は常に女装をしていると思われているからなのかもしれない。
その勘違いのおかげなのかどうかは分からないが、あの日普段とは違うライラの姿を見られたのは幸運だった。ミモレ丈のワンピースは街歩きにはもちろんのこと、多少の段差など気にすることもなく歩ける長さでありながら、しっかりと上品な印象を与えてくれる。これがロング丈やマキシ丈になってくると小さな段差でも、いちいちスカートをしっかりと持ち上げる必要が出てくるのだから。
「パーティー用の丈だな」
ロング丈やマキシ丈のような長すぎる丈については、個人的にそう思っている。だからこそ今回ライラに贈ったワンピースはロング丈を、逆に仕事用にはミモレ丈を採用しているのだ。
そもそも平民の女性は基本的に、動きやすいミモレ丈のスカートを好んで選んでいる。実際に『スノードロップ』の店頭で最も人気があるスカートは、毎回ミモレ丈のものばかりだった。
「ま、そうだよな」
豪華なドレスは、商人だったり富豪からの注文ばかりで一点ものなので、基本的に店頭に並ぶようなことはない。けれど逆にそういったオーダーメイドほど、丈の長いスカートが採用される傾向にあるのだから、要するにこれが住む世界が違うということなのだろう。
ただ一つだけ弊害があるとすれば、ウチの職人たちがロング丈やミモレ丈に挑戦する機会が極端に少ないということ。そのせいで技術的な向上が遅くなってしまっているのは、今後どうにか改善していきたい課題でもあった。
「今はまだ、か」
これが簡単そうに見えて、実は難しいのだ。最近ではありがたいことにどんどん忙しくなってきていて、針子の数を増やさなければ今後の生産量が追いつかなくなってしまうのではないかと、密かに危惧しているくらいには。
ただそのための教育も強化したばかりで、そこから何人が残ってくれるのかもまだ未知数なのだから、こればかりは仕方がない。才能の有無だけでなく、様々な事情が絡み合っての結果になる以上、まずはそこまで到達しない限りは判断すら下せないのだ。となれば、次の課題に取り組むのはもっと先になる。
「一歩ずつだな」
そう結論づけて、俺は手に持っていたオレンジに爪を突き立てた。途端、部屋中に広がる爽やかな香り。
実を傷つけないよう気を付けながら、白く薄い内側の皮部分もできる限り取り除いて。そのひと房分を口の中に放り込むと、甘酸っぱい果汁が一気に溢れ出してきた。
「甘いな」
それは、以前ライラと一緒に食べた時以上に甘く。同時に以前よりも強い香りが、口から鼻へと抜けていった。
実は甘いものはあまり得意ではないのだが、果物に関してだけは平気だったりする。だから時折、こうして口にすることもあるが。
「……そういうこと、だよな」
オレンジを手に取った時も、口の中に入れた時も。ライラと出かけたあの日のことばかりを思い出してしまうのは、自分の中で大きな変化があったからだ。
残念ながら俺は決して鈍いわけではないので、こうなってしまっているおおよその見当はついている。というよりも、明らかにそれしかないだろう。そもそもあのデートだって、それを確かめるためのものでもあったのだから。
「さて、どうすっかな」
天井を仰ぎ見たところで、事実を変えることはできない。
何がきっかけだったのかとか、いつからだとか、そういったことは全く分からないが。一つだけ明らかなのは、俺が日々ライラに惹かれていっているという事実だけで。今もソファーで無防備に眠るその姿に、若干の喜びと悔しさの両方が胸の中で渦巻いていた。
「……まだ寝てるんだろ?」
呼びかけてみても、一切の返答は返ってこない。そして普段のライラの様子からしても、おそらく俺のこの想いは一方的なものなのだろう。
彼女には気付かれないよう完全に隠している上に、一人で勝手に振り回されているだけなのだが、それでもやはり納得できなくて。いっそのこともっとしっかり寝顔を堪能してやろうと、そっと席を立ってゆっくりと近付いてみた。
普段は真っ直ぐ見上げてくるグレーの瞳は、今は瞼で隠されてしまっているけれど。その分髪色と同じブラウンのまつ毛が優しく影を落としており、まだ十代のライラのあどけなさを表しているようにも見えた。
「可愛いな」
するりと口をついて出た言葉はあまりにも自然すぎて、もはや驚くよりも先に苦笑してしまった。それだけ自分の中では、当然のことだと思っているという証拠だろう。
こんな格好をしているが、これでも一応中身はれっきとした男なのだ。異性に惹かれるのは不自然なことではないし、そんな相手と部屋の中で二人きり、ましてや無防備に目の前で寝られてしまえば、本来の欲が出てきてしまってもおかしくはない。もちろんこんな状況で手を出すつもりは一切ないのだが。
(けど、こんな機会滅多にないだろうからな)
そもそも彼女が起きている間に言葉にすることは、今後もしばらくはないだろうからと。そっと耳元に唇を寄せて、聞こえるか聞こえないか微妙な声量で。
「好きだ」
想いだけはしっかりと乗せた、小さなささやきを落とす。
そのまますぐに離れて、席に戻ってから残っていたオレンジをまたひと房口の中に放り込むと。不思議とその一口分からは、先ほどよりも甘みが強くなったような気がしたのだった。




