3.市場調査
まだ寝ている弟のヴェルを起こさないように、小さな声で「行ってきます」と呟いてから家を出た私は、待ち合わせ時間に遅れないように気持ち早めに街の中心地へと向かって歩いていた。
ヴェルには事前にお店がお休みの日に、オーナーといわゆる市場調査に出かけてくることは話しておいたので、特に問題はないけれど。オーナーからは、万が一弟の体調が悪そうだった時はそちらを優先していいと言われていたので、遅れて到着してしまえば変に心配される可能性もあったのだ。
ただ、本当の問題はそこではなく。私はこの時完全に、普段の仕事中と同じ姿のオーナーと街中を見て回るのだと思い込んでいたので、なるべく身綺麗な格好をしていくべきだと考えていて。結果、私が持っている中で唯一と言ってもいい、よそ行き用の淡いグリーンのワンピースを着てきたのだけれど……。
「……え!?」
時間に余裕をもって待ち合わせ場所に到着した私は、いつもと同じ赤いドレスを探して。それなのに目に飛び込んできたそれに、心底驚いたのだった。
「あぁ、来たか。早いな」
「え、いや、あの……え……?」
もはや言葉すら出てこなくなった私は、ただただオーナーの姿を上から下まで何度もじっくり見てしまっていて。けれどこの衝撃だけは、どうしても隠しきれそうになかった。なにせオーナーは仕事時の女性の姿ではなく、初めて酒場で会った時や出勤時と同じ格好、つまり男性の姿をしていたのだから。
ちなみに、この時点ではまだ待ち合わせ時間ではなかったというのに、私よりも早く到着しているオーナーはいったいどれだけ早くから待っていたのかと、本当は別の理由で驚くところでもあったのだけれど。それ以上の衝撃のせいで、この時の私の頭の中からは完全にそのことが抜け落ちていたのだった。
「どうした?」
「いえ、あの……その……」
どうしていつもの姿じゃないんですか、なんて。私の様子を見て不思議そうに首をかしげているオーナーに、こちらから聞くのも変な気がしてしまって。なかなか言葉にはできずに、ひたすらその格好を見ながら口を開けたり閉じたりしていると。
「……あぁ、なるほど。今日は仕事着じゃないのかってことか」
私の言いたいことを察してくれたオーナーが、自分の姿を見下ろしてからそう口にしてくれたので、私は無言で何度も首を縦に振る。てっきり女性の姿のオーナーと並ぶことになるのだと思っていたのだと、それだけで伝わるように。
そんな私の反応を見て、オーナーは小さく苦笑した。
「んなわけないだろ。あの格好じゃあ、変に目立つだけだ。それに誰なのかすぐバレるような姿をしてたら、市場調査にならないだろ」
「……言われてみれば、確かに」
考えてみれば、当然のことだった。『スノードロップ』のオーナーは特徴的すぎて、遠目からでもすぐに誰だか分かってしまう。そうなれば注目を浴びるだけではなく、今日訪れる予定のお店の従業員も、身構えてしまう可能性があったのだから。
「仕事中以外にあの格好をしてることは基本的にないからな。『スノードロップ』のオーナーがどこで何してるなんて、誰も知らないだろ?」
「そう、ですね。聞いたことがないです」
もしもあの格好のまま街を歩いていれば、すぐに噂が広がるはず。それがないということは、オーナーの言う通り仕事以外で女性の格好をすることはないのだろう。
どこの誰なのかが一発で分かってしまうような目立つ格好をしては、市場調査にはならない。どうしてそんな簡単なことに気が付かなかったのだろうと、思わないわけではないけれど。私が落ち込むよりも先に、唐突にオーナーが話題を切り替えて。
「にしても、ライラのその格好は初めて見るな。エンパイアラインの、淡いグリーンのワンピースか。使ってるのは一色でも、そのデザインなら十分上品に見えるな。それに、よく似合ってる」
「えっ……。あ、あの……ありがとう、ございます……」
急にブティックのオーナーらしい発言が飛び出してきたかと思えば、最後にしっかりと笑顔で褒めてくれた。けれどそんな言葉を言われ慣れていない私は、どう返せばいいのかよく分からなくて。結果、多少どもりながらお礼を言うことしかできないという不甲斐なさを発揮することになってしまった。
それなのに。
「靴とバッグの材質と色を同じ革にすることで、淡い色を小物で引き締めてるんだな。なるほど、いい合わせ方だ」
私の今日の服装を見て、まだ感想を口にするオーナー。ある意味これも、職業病というものなのかもしれない。あるいは、これすら今日の目的の一つでもあるのか。
いずれにせよ、これ以上は私が耐えられそうになかったので。
「オ、オーナーも素敵ですよっ。シンプルな着こなしの中にも、ちゃんと遊び心を取り入れていますしっ」
実際シンプルなホワイトのシャツにダークブルーのベストを合わせて、そのポケットの中にはおそらく懐中時計が入っているのか、ゴールドのチェーンがベストのボタンへと続いている。そしてそれに合わせているのは、ベストよりも薄い色のズボン。しかも遠目からはシンプルに見えるそれは、よくよく見ると薄く縦ストライプが入っていて。ベストとズボンの色合いを変えてきているだけでも、かなりのオシャレだというのに。そこにもう一つさり気なさを加えてくるところが、さすが『スノードロップ』のオーナーだと素直に思った。
ちなみにシャツの一番上のボタンを外すことでキッチリしすぎず、あえてラフさを出すことで最近の流行をしっかりと取り入れているところがまた、服飾店のオーナーらしい。それでいてベストの一番下の飾りボタンは、当然のようにアンボタンマナーが守られていた。
「へぇ? 意外だな。男物の服の着こなしを知ってるなんて」
「い、一応勉強しました」
オーナーについて回る以上は、必要になる日がこないとも限らないと思って。時間のある時に街の図書館に行って服飾系の本を読み漁っていたのが、どうやらこんなところで役に立ったらしい。
「それはいい心がけだ」
心なしかオーナーが嬉しそうな顔をしているので、こういった小さな努力というのはきっと大切なことなのだろう。そして無駄にもならない。
服装だけではなく仕事への向き合い方も褒められて、私は少しだけ自信がついたような気がした。とはいえオーナーと並んでお得意様を訪問するには、まだまだ知識も経験も足りていないのだろうけれど。
「さて、それじゃあ行くか」
「はいっ」
ただ今日は、どこかのお宅へ訪問するようなわけではなく。むしろ二人で一緒に今の流行を調査するという、明確な目的があるので。
(少しでもオーナーのお役に立てるように、頑張ろうっ)
性別だとか年齢だとか、そういった部分でオーナーとは違う着眼点があるかもしれないからと、市場調査についていくことになったのだから。しっかりと仕事をして、今以上に認めてもらえるよう努力することを私は決意するのだった。




