5.転機 ~sideスノウ~
初めて針を手に取ったのは、母親の影響だった。あまり裕福とは言えない暮らしの中、穴が開いた服があれば端切れを使って綺麗に修復している姿を見て、自分もやってみたいと思ったのだ。
母はできることが一つでも多くあるのは強みになるからと言って、俺のやりたいという言葉を否定することもなく、丁寧に教えてくれて。その時の優しいダークブラウンのまなざしは、今でもよく覚えている。
そして同時に、俺は母も驚くほどの才能を見せていたらしい。
比較対象がいなかったので知らなかったが、どうやら俺はこと裁縫に関しては覚えも勘もセンスもよかったようで、一度教えてもらえれば次からは一切間違えることなく再現することができた。個人的にも楽しかったので、その後も服に穴が開くたびに練習と称して自分で修復していて。気が付いた時には簡単な刺繍にまで手を出し始めていて、しかもその頃にはすでに母親の腕前をとっくに超えていたのだ。
そんな折に、俺たち親子みたいな貧しい家族を支援してくれている施設が、バザーを開くことになって。自分たちで物を売ることもできるから参加してみないかと誘われ、そこで初めて何でもないタオルに刺繡を入れて出店してみたところ、これが飛ぶように売れた。しかも驚くことに、施設側からは無料提供してくれたタオル分の代金しか受け取らないと言われてしまい、人生で初めてかなりの額の大金を手に入れ。さらに幸運が重なって、たまたまバザーを見に来ていた有名なブティックのオーナーに声をかけてもらうことになった。
そこからは、信じられないほどトントン拍子に進んで。俺が師匠と呼んでいたブティックの女性オーナーからは、数十年に一度の逸材だ、天才だと言われながら、毎日一つずつ技を盗みつつ教えられつつ。そうして初めて作った母親のための服をプレゼントした時は、いつもは微笑んでる優しいその瞳から、大粒の涙がいくつも流れていた。ちなみにこの時の服は気に入ってくれているのか、今でも時折着てくれている。
俺は母親が喜んでくれるのが嬉しくて、そこで初めて自分が目指すべき道を見出した気がしていた。だが同時に、師匠に言われた言葉もよく覚えている。
「ブティックっていうのは、基本的に女性向けの商品を扱うのよ。しかもデザインや採寸という初期から関わるものだから、いくら天才でも男性に裸に近い状態を見られるのは、抵抗があるっていうお客様も多いかもしれないわね」
それはある意味、俺にとって初めての挫折だった。実際母親は採寸用の服を着て測らせてくれたが、師匠についてお得意様のところに顔を出したとしても、男だからと一切関わらせてもらえないことのほうが多かったのだ。師匠の愛弟子だと師匠自身が説明してくれても、それは変わることはなく。いつまで経っても、母親以外の服を作れずにいた。
だが俺が作りたかったのは、あくまで女性用の服。母親が喜んでくれるからと、母親のために始めたことだったが。その奥深さと楽しさに、俺はいつの間にかすっかり引き込まれてしまっていたのだ。
「師匠、どうすればいいですかね?」
「そう、ねぇ」
だから、何でもいいから取っ掛かりが欲しかった俺は、師匠に相談しながら必死に考えて。けれどそのどれもが上手くいかなかった時に、ふと呟いていたのだ。「どうせなら、女に生まれたかった」と。
それが、ある種の転機になった。俺の悔し紛れでの呟きを拾った師匠が、まるで何か妙案を思いついたかのようにこう言ったから。
「じゃあいっそのこと、女性の格好をしてみたらどうかしら?」
「はい?」
さすがの俺も、最初は懐疑的だった。それはそうだろう。母親に似て女顔だと言われることは多々あったが、どう考えても俺は男だったのだから。女性の格好をするなんて、普通ならばあり得ない。
ただこの時の俺は、本当に何でもいいから取っ掛かりが欲しくて。
「女性向けの商品を扱う手前、女性に近い姿のほうが安心してもらえる可能性は高いと思わない?」
その師匠の言葉に、気が付けば頷いてしまっていた。
その日から、まずは自分の男にしか見えない体形を隠すための服作りと、化粧と女性らしい喋り方の研究を始めた。同時に、女性にしては短すぎる髪をすぐに伸ばすことはできないからと、専用のカツラを用意することになって。最終的には素の自分の印象とは全く違って見えるよう、長髪のシルバーブロンドのカツラを使うことにしたのだ。
こうして、前代未聞のオネェのお針子が誕生したわけだが。これが意外と、好評だった。
「男性の目線から見て、こういったデザインはどうなのかしら?」
「甘くなりすぎず、けれど大胆にもなりすぎていない、いい距離感で男に意識させることができますわ」
見た目は女性、中身は男性というのは、自分で考えていた以上に需要があったらしい。特に意中の相手や婚約者がいる女性であれば、なおさら。
こうして俺は、他とは違う方法で徐々に地位を確立していって。師匠からも最終試験への合格を認められ、それまでに貯めてきていた資金を使って、自分の店をオープンさせたのだった。
そうして、今。
順調に軌道に乗った店の中で、唯一俺の素が男だと知っているライラと二人、オーナー室で貰い物の菓子と紅茶で休憩していた。
「わぁ! これおいしいですね!」
目の前で、グレーの瞳と淡い色の唇が幸せそうに弧を描く。一見のんきそうなこの人物が、両親も亡くし病弱な弟のために昼夜関係なく働いていた苦労人だと、誰が分かるだろうか。
(……いや、無理だな。見た目じゃ判断できないだろ)
実際に俺自身も、あの夜本人を問い詰めて聞き出していなければ、今も知ることはなかっただろう。
正直、その境遇に同情したのは事実だ。もちろん、俺が普段は男だということを誰にも口外しないか見張るつもりでいたのも、紛れもない事実ではあるが。どちらかといえば、同情心のほうが強かったような気はする。
だが。
(今は少しだけ、違う気もするな)
実際に彼女の仕事ぶりは、期待していた以上だった。読み書き計算ができるということで雇っていたが、想像していた以上にしっかりと教育されていて。ともすれば、俺よりも教養は高いかもしれない。そしてだからこそ、俺は彼女をそばに置く便利さも知ってしまって。正直なところ見張る必要性の有無や同情心なんかよりも、有用性というただその一点のためだけに手放したくないとすら思い始めていた。
そう、そのはずだったんだ。つい、数分前までは。
(貴族の得意先を得て店に箔を付けることよりも、俺の信念を信じてくれるとは思わなかった)
というよりも、そんな人物がいるなど考えたこともなかった。基本的に商売というのは、得があるほうを選ぶのが定石だ。それに対して俺のやった行為は、完全に得があったとも損があったとも言い切れないのだから。
(まぁ、今回は損のほうが大きそうではあったけどな)
ただ、それをしっかりと言葉にして、しかも面と向かって言い切ってくれた彼女に、少しだけ救われた気がしているのも確かで。
(さて、どうするかな)
全てを話すことができるような間柄ではないとはいえ、今回に関しては俺からも何か返したいと思った。もちろん、日ごろの感謝も込めて。
彼女を助手兼事務員兼世話係にしてから、作業に集中できる時間がかなり増えたのも事実なのだから。せめて少しでもできることはないかと考え、いい機会だからじっくりとライラを観察してみることにしたのだった。




