4.揺るぎない信念
まるで嵐が過ぎ去ったかのようとは、きっとこういうことを言うのだろう。実際、私だけではなく店内にいたお客様も含めて全員が、ホッと胸をなでおろした瞬間だったのだから。張り詰めていた緊張の糸がほぐれたかのように、どこからともなく小さなため息がいくつも聞こえてくる。
「大変お騒がせいたしました。どうぞゆっくりと、お買い物を続けてくださいませ」
その空気をオーナーも感じ取ったのか、先ほどの貴族のお嬢様に向けていた笑顔とは全く違う柔らかな表情で、店内にいるお客様に向かってそう告げた。それに安心したのか、いつも通りの日常が戻ってくる。
ただ従業員の中には、そうでない人たちが多少なりとも存在していたようで。
「オーナー……本当に、大丈夫だったんですか?」
「相手は貴族のお嬢様ですよ? 明日にはお店が潰されたりだとか、そんなことになりません?」
数人が近くに寄ってきて、オーナーにそう問いかける。同じ思いなのか、それともその様子を見て心配になったのか、遠巻きにこちらに視線を向けている従業員もいて。そんな彼女たち一人一人に目を向けてから、オーナーは最後に小さくため息をついたのだった。そしてお客様には聞こえないくらいの声量で、こう告げる。
「あんたたち、よく覚えておきなさい。アタシの店では、お客様は全員平等なのよ。特別扱いなんてしないわ。いいわね」
それは、有無を言わせぬような迫力があって。決して大きな声でも、怖い表情でもなかったはずなのに、問いかけてきた全員が口をつぐんで黙って頷くほどに、強い力があった。
誰もがみな、気圧されてしまったのかもしれない。オーナーの揺るぎない信念のようなものを、その声から、言葉から、視線から、そして表情から汲み取れてしまって。
「行くわよ」
私まで圧倒されてしまって動けなくなっていたら、振り向いたオーナーからそう声をかけられて。問題は解決したとばかりにオーナー室へ戻ろうとしているのか、歩き始めてしまったから。
「は、はいっ」
急いで私もそのあとを追うのだった。
来た時とは反対に、在庫置き場を抜けて廊下へと出て。そのままオーナー室へと向かう道中、オーナーはひと言も言葉を発しようとはしなかった。だから私も、ただ無言でその後ろをついて歩くだけで。
(でも、なんか、ちょっと)
普段よりも歩く速度が速い気がしたのは、おそらく気のせいではなかったはず。その証拠に私が早足で歩いても、決して追いつけなかったのだから。
それでも何とか引き離されないようにオーナー室までたどり着き、オーナーに続いて部屋の中に入り扉を閉めた、次の瞬間。
「どうして俺が貴族の依頼を受けなかったのか、お前も気になるか?」
こちらを振り向きもせず、唐突にそう質問される。
もしも先ほどの貴族のお嬢様がもっとまともな人物だったとすれば、気になっていたかもしれない。けれどそうではなかったからこそ、私はむしろオーナーの判断に完全に賛成しているし、あの場で相手に断らせる方向へと話を持っていくことのできるオーナーを、カッコイイとすら思っていた。
だから。
「いいえ。オーナーが信念を持ってお店を経営しているのは、近くで見ていれば分かります」
私は素直に、そう答える。先ほどの凛と立つあの姿からは、確かにオーナーの信念を感じたのだ。
たった十日そばで見ていただけの私が分かることなのだから、長くオーナーの下で働いている先輩従業員ならば、なおさら知っているはず。そう思って、当然のことだという意味合いも込めて伝えた言葉に。
「え……?」
なぜかオーナーは、意外そうな顔をしてこちらを振り返る。ふわりと舞うドレスのスカートの裾が、場違いなほどに綺麗だった。
「貴族だぞ? 一人でも貴族のお得意様がいれば箔が付くって言われてるその依頼を、俺は断ったんだぞ?」
「はい。むしろ、あんなワガママで身勝手な貴族のお嬢様がお得意様にならなくてよかったと、私含めあの場にいた従業員のほとんどが思っています」
実際オーナーに心配そうに寄ってきて声をかけたり、遠巻きに視線だけを向けてきていた従業員以外は、全員がホッとした表情をしていた。おそらく彼女たちはあの時、私と同じことを思っていたことだろう。断ってくれてありがとうございます、と。
そもそもドレス一着を作るのに、どれだけ時間がかかると思っているのか。そこからして疑問だったというのに、さらには他のお客様の予約を後回しにしろ、とまで言い出すような人物がお得意様になったあとのことを考えたら……。本当に、よかったとしか思えない。
「それに『スノードロップ』は基本的に、平民や商人の女性向けのお店ですから。お得意様の中に貴族がいないのは、今までと変わりません」
「……貴族にこの店が潰されるとか、思わなかったのか?」
「まともな貴族なら、そんな横暴なことはしないと思います。そもそも平民向けのお店を個人的な感情で潰していたら、あっという間に噂が広がってしまいますから」
けれどそんな噂は、今まで一度も聞いたことがない。どちらかというと貴族がどこのお店のお得意様になっただとか、どこのお店から乗り換えただとか、そういう噂ならよく聞くのだから。きっと平民向けのお店を潰すことに、あまり利がないことを知っているのではないだろうか。
それ以前に私は両親から、貴族は基本的に上品で余裕があって、劇場の従業員に対しても横柄な態度や口調で接する人物はいなかったと聞いているから。きっと本当の上流階級の人々というのは、そういうものなのだと思う。だからこそ、変に噂になるようなことはしないような気がしていた。
「それよりも、予定外のお客様対応で疲れていませんか? 頂き物の紅茶がたくさんありますし、一度休憩にしましょう。私、お湯沸かしてきますね」
もしもこの先、まともな貴族のお客様が来店してくださってお得意様になっていただける機会があったら、その時にご予約をいただけばいいだけで。今回は縁がなかったということで、これでおしまいでいいと私は思っている。
それよりも今私が気になるのは、ワガママお嬢様の相手を一人でしていたオーナーの疲労のほう。肉体的には疲れを感じていなかったとしても、精神的な疲れがなかったわけではないと思うから。この十日間で来客時用にと、実は密かに練習していた腕前を披露するためにも。私は頂き物がたくさん入っている棚の中から美味しいと思った紅茶の缶と、ティーポットとティーカップをそれぞれトレーに乗せて、部屋を出たのだった。




