終
総合病院は、相変わらず人が多い。特に多いのが会計窓口の周辺で、今日も長蛇の列を為していた。
祖母の付き添いで病院に来ていた千景は、窓口で会計の手続を終えて、ソファーに座って列をぼんやりと眺めていた。壁に掛けられたモニターにはたくさんの数字が並んでいたが、ちとせの番はまだ先だ。待ち時間に耐えかねて、祖母は千景を置いて手洗いに立っていた。
退屈な時間を、ひとり頬杖をついて、列の最後尾に増える人の数を数えて、潰している。
遅々として進まない時間に欠伸を噛み殺していると、千景の側に人が立つ。人の多い病院のこと、特に気にしていなかったが、「あの……」と声を掛けられては、顔を上げずにはいられなかった。
「私のこと、覚えてる?」
自らを指差す長い髪のその女性。こざっぱりとしたその顔を暫し見つめて、千景は彼女が『ナルシマ ユキコ』であることに気がついた。憔悴していたときとだいぶ印象が違う。そしてなにより――ロングコートを羽織った彼女の腹に、膨らみがなくなっていた。
「一週間前にね、生まれたの」
千景が自分を覚えていたことを知ったユキコは、嬉しそうに話しはじめる。胎児の調子が悪く、緊急で帝王切開することになったこと。無事、子どもが取り上げられたこと。保育器に入れられはしたものの何事もなく、こうして今日母子揃っての退院を迎えられたこと。
「これも、あなたのおばあちゃんのおかげかな」
そうしてユキコは、鞄から何かを取り出した。手を広げて差し出されたそこには、祖母の戌のストラップがあった。
「ありがとう。お返ししておいて」
千景はそっと御守を拾い上げる。泥の中で、小さな体を張って、化け物と戦っていた白い犬。役目を終えて、戻ってきたのだ。
「……良かったです」
言葉少なに返す千景の脳裏には、泥の中で足掻き続けた女の姿があった。あのあと彼女は誇らしげに笑んで、
『ありがとう。本当に助かったよ』
千景に鉞を返して、ふ、と煙のように消え去った。
千景は掌の中の戌を見つめる。確かに、この御守は役立ったようだ。だが、ユキコの赤ん坊を守ったのは、他の誰でもないあの女で。
彼女こそ讃えられるべきだ、と千景は思った。
「あの……」
らしくない、と自分でも思いつつ、千景は立ち去ろうとするユキコを引き留めた。彼女は少し眉根を寄せて振り返る。
「腹帯、できれば大事にしてください。……箪笥の隅にしまっておくだけでもいいから」
とんでもないお節介だと自覚していた。だが、彼女が顧みられることなく捨てられるのはあまりにも悲しくて、要らぬ世話を焼いてしまった。
――どうか彼女が報われますように。
千景は、そう祈る。
「うん。そうするね」
ユキコは千景の言葉を拒絶することなく受け入れて、今度こそ立ち去っていった。
ふう、と息を吐き、ソファーにもたれる。これで本当に終わったのだと胸を撫で下ろした。
余韻に浸っている間に、祖母が手洗いから帰ってくる。
「どうしたの? なんか嬉しそうだね」
表情があまり変わらない千景の顔を見て言う祖母に、千景は戌の御守を差し出した。
「そうかい。無事生まれたかい」
お手柄だったねぇ、と祖母は御守を労って、鞄にしまう。
「千景ちゃんも、お疲れ様」
さらに孫を労う祖母に、千景は首を横に振ってみせた。
「おばあちゃんのおかげ」
一週間前のあの日、散歩に鉞を持っていくように、と助言したのは祖母だった。なんでも儀式で使うものだったらしく、少しばかり神聖な力が宿っていたそうだ。あれがあったから、いつも見ているだけの千景も戦えた。赤ん坊が生まれるのに、手を貸すことができた。
少しばかり、誇らしい。
ぽん、と壁のモニターから音がする。振り返ってみれば、ちとせの会計番号が表示されていた。
千景はソファーから立ち上がる。祖母を連れて、会計機械の列に並んだ。
その足取りは、軽かった。