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 祖母の通院に付き添ってくれ、と母親に頼まれて、千景(ちかげ)は町の総合病院に来た。古臭い病院のイメージを覆さんとする、煉瓦色の外壁。しかし洒落ているのはそれだけで、やはり病院に過ぎないその建物の、一階中央の広間の椅子に腰掛けていた。やや切れ長の目を細め、天井のガラスから降り注ぐ日光の下で、時を数えて。


「お待たせ、千景ちゃん」


 どれほど経過したか、祖母が千景の前に現れた。

 千景の祖母ちとせは、まさに〝おばあちゃん〟の典型だった。シミの浮いた皺だらけの顔。真っ白になった短髪。杖をつくほどではないものの、軽く曲がった腰。黒地に赤い薔薇の模様が入った毛玉だらけのセーターを着て、良く伸びそうな紺のズボンを履いている。優しそうなおばあちゃん。


「ごめんねぇ、待たせたでしょう」

「そうね」


 千景は遠慮せず、かといって責めるようでもなく、淡白にそう言うと、椅子から立ち上がった。黒のワンピースの裾を払い、祖母を見下ろす。


「お会計でしょう。行きましょう」


 女子高生らしからぬ大人びた口調で祖母を促し、手摺にかけた灰色のコートを拾い上げる。


 会計窓口のカウンターの前は、長蛇の列だった。ヘアピンのように折れ曲がった列の最後尾に立つ。五分ほど待って番号札を発行してもらい、列の脇に置かれたソファーの空いた場所を見つけて、祖母を座らせる。壁に掛けられたモニターにはたくさんの数字が並んでいたが、ちとせの番はまだ先だ。

 祖母と話すような話題もなく、千景はぼんやりと目の前の列を眺めた。カウンターの前から、手続を終えた女性が離れていく。三十前後のその女性は、ふらふらと斜めに歩いた。そして、手から小さい紙を落とす。

 千景は直ちに彼女に駆け寄って、番号札を拾い上げた。彼女の腹は、大きかったのだ。


「ありがとう、ございます……」


 女性は蚊の泣くような声でお礼を言う。長い髪の合間から覗くその顔は憔悴(しょうすい)しており、目は真っ赤になっていた。

 千景は何も言わず、紙を差し出した。女性は力なく腕を上げ、紙を受け取ろうとして――そのまま崩れ落ちた。

 嗚咽(おえつ)が漏れる。

 声を殺して泣く女性を、千景はしばらく無言で見ていたが、やがて彼女の傍らにしゃがみ込み、そっと手を取った。ゆっくりと祖母のもとまで連れて行く。孫の意を汲んだちとせは立ち上がると、女性に席を譲った。

 涙ながらに礼を言う女性に、番号札を渡す。そこから『ナルシマ ユキコ』の名が読み取れた。


「どうかしたのかい?」


 ユキコの嗚咽が収まった頃、ちとせが心配そうに声を掛ける。ユキコは、自らの膨らんだ腹に手を当てて、「子どもが……」と小さく喋った。

 臨月のユキコは、妊婦健診に来ていた。そこで診察を受けたのだが、なんと胎児の心拍が低下していると宣告されたらしい。ひとまず経過観察ということで帰されたものの、そう告げられて平静でいられるはずもない。夫の付き添いもなく一人で抱えるしかなかったユキコは、ここに来て千景の親切を受けて、(こら)えていた感情が溢れ出してしまった。


「どうして……」


 ユキコは嘆く。普段の生活に細心の注意を払っていたというのに、と自分を責める。

 祖母は、そんな彼女の背をさすった。


「大丈夫だよ。お前さんは、何も間違えてはいないよ」


 優しく言い含められて、ユキコの目に再び涙が浮かぶ。

 祖母は、ユキコが落ち着くまで、辛抱強くその背をさすっていた。そのおかげか、彼女は微笑みを取り繕えるくらいにまで回復したらしい。先程よりもだいぶしっかりした声で千景とちとせに礼を言い、頭を下げた。

 祖母は、我がことのように嬉しそうに頷く。

 そして、


「ところでお前さん。腹帯(ふくたい)はしているね?」


 すべてを台無しにするような発言をした。

 腹帯。妊婦が腹に巻くという布。戌の日の安産祈願の際に着用し、妊婦と腹の子を守るという。

 一瞬だけ虚を突かれたユキコの目から、火花が散った。唇を引き結び、顔はみるみる赤くなる。しかし周囲が称賛するほどの忍耐でもって彼女は罵声を堪え、「しています」とただの一言応えた。

 祖母は満足そうに頷いた。


「そのまま忘れずにしているんだよ。それから……そうだ」


 ちとせは脇に抱えていた鞄を漁り、くたびれた財布を取り出した。小銭入れのチャックに付いた根付を外し、ユキコに差し出す。

 干支(えと)の置物に見られるような、白くて丸い(いぬ)のストラップが、首元の鈴をチリと鳴らした。


「これは、この子の父親を産んだときの御守さ」


 ちとせは思い出話を交えながら由来を語り、如何に利益があるかを語る。そして、「持っていきなさい」とユキコの手に握らせた。


「ありがとうございます」


 ユキコは、げんなりとした顔で受け取った。

 端から見て迷信深い老婆のお節介を、千景は黙って見守っていた。ユキコの迷惑を察しつつ、口を挟むことをしなかった。ただ戌が迷惑そうなユキコの荷物に紛れるのを見送った。

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