妻妾同居
「ただいま」
リビングの出入り口から夫の亮太の声がした。ソファでスマホを見ていた美也子は顔を上げて振り返る。
「おかえりなさい――」
声が尻すぼみになる。夫の後ろに見知らぬ若い女が立っていた。
年齢は20代半ばぐらい。小柄で南国系の顔立ち。ジーパンに白いブラウス、肩に亮太のジャンパーを羽織っている。
「彼女、しばらく家に泊めるから」
あっけにとられる妻を残し、女を連れて廊下に戻る。ソファから立ち上がった美也子は二人を追いかけるようにリビングを出ていく。
「チャラポン、そこに荷物を置いて」
亮太は自分の部屋で女をベッドの縁に座らせ、彼女の顔を覗き込んでいた。怪我でもしたのか、左目に大きな白いガーゼを貼っている。
「ちょっと――」
亮太を部屋の外に呼び出す。声が聞こえないようリビングまで夫を連れ戻す。
「どういうことか説明して」
こめかみに手をあて、美也子は怒りを押し殺した声で訊ねた。
「彼女は俺のよく行く飲食店の従業員なんだ」
ようは行きつけのタイスナックの店員らしい。
夫の亮太は、東南アジアでOEMの革製品を作り、日本に輸入販売していた。たまに海外に出張に行くことがあり、日本に帰ってからも現地の言葉を覚えるためと称してタイ人やフィリピン人のいる店を好んで利用していた。
「同伴のノルマが未達で店長に殴られたんだ。顔を見ただろ? 怪我をしてるんだ。今は精神的にも参っているし、しばらく俺の部屋に置かせてくれ」
「それって警察の仕事でしょ?」
「彼女は不法滞在なんだ。警察には行けない」
「だったらなおさらよ。そういう人をかくまうと、私たちも犯罪の片棒を担ぐことになるのよ」
「だから少しの間だけだって」
亮太がいらだったように言った。あきれて言葉も出ない。たかが行きつけの店の従業員のためにそこまでする訳がない。おのずと二人の関係が察せられた。
「ホテルに連れていけばいいでしょ」
「店長の知り合いの地回りのヤクザが彼女を探してるらしい。ホテルに一人で泊めるのは危険だ」
「ウチだって巻き込まれるかもしれないのよ」
不法滞在だの暴力団だの、物騒な話題に美也子はいらだちを隠せない。
「頼むよ。あの格好を見たろ。彼女、財布も持たずに寮を飛び出してきたんだ。怪我をしている無一文の女性を外に放り出せない」
かたくなな妻の態度に今度は泣き落としにかかってきた。
「どうしてウチで預からないといけないのよ。あのコの友達とか、職場の同僚に泊めてもらえばいいじゃない」
言い争いをしていると、リビングの中扉が開く気配がした。南国系の顔立ちの小柄な女が立っていた。
「リョウチャン、ゴメン。ワタシ、イクヨ……」
亮太が駆け寄り、女の手を握った。
「チャラポン、いいんだ。気にするな。今夜はここにいろ。後のことはゆっくり考えよう」
女子高生といっても通じる幼さの残る顔立ち。左目を覆う大きな白いガーゼが痛々しかった。助けてやりたいと亮太が思うのも無理はない。
亮太が戻ってきて小声で言った。
「彼女、タイから一人で来て、日本では頼る人間がいないんだ。他の従業員のところに行けば、店に通報されるかもしれない」
美也子はちらっと女の方を見た。
異国から来た娘は、肩から寒そうにジャンパーを羽織り、捨てられた子犬のような目でこちらを見ている。
ため息交じりに、わかったわ、とうなずいた。
「今夜だけよ。明日からどうするかは二人でちゃんと考えて」
「ありがとう」
亮太に頭を下げられ、美也子は苦笑した。夫から「ありがとう」なんて言われたのは何年ぶりだろう。
「彼女、ご飯は食べてきたの?」
「いや、病院でけっこう時間を喰ったから……」
「なら、とりあえず夕飯を食べましょう。怪我をしてるみたいだけど、お風呂には入れるの?」
「医者は湯に浸かるだけなら大丈夫だって」
「じゃあ、あなたはお風呂を洗っておいて。私は夕食の支度をするわ。ええと――」
女の方を見て、美也子が言いよどむ。
「チャラポンだ」
「チャラポンさんは準備ができるまで部屋で休んでいてくれる?」
美也子がてきぱきと指示を出す。性格的なものだが、こうと決まったら勝手に身体が動いてしまう。
キッチンに入り、コンロの鍋に火をかける。ぼんやりとお玉でクリームシチューをかき混ぜる。
(私、夫が女を家に連れ帰ってもなんとも思ってない……)
夫婦関係が冷え切ってから長い月日が経っている。
きっかけは亮太の浮気だ。結婚して三年目ぐらいだろうか。仕事を通じて知り合った若い女と付き合っているのが発覚した。
(あのときは私も怒ったな……みっともないくらい泣きわめいて……)
亮太は土下座して「二度としない」と誓い、そのときは美也子も許した。だが、半年もたたないうちににまた別の女と浮気した。
(二度目はもう怒る気力もなかった……)
それ以来、夫とはお互いのことに関知せず、家事を公平に分担するルームシェアの同居人のような関係になった。
美也子は小さな出版社で編集者をしていた。仕事は好きだったし、子供を産んで主婦になる自分をイメージをできなかった。
(離婚して独身に戻って、また誰かと付き合うのが面倒くさかったしね……)
子供のことさえ考えなければ、今の生活を悪くないと思っていた。ただ、さすがに想像もしていなかった。夫が愛人を家に連れてくるとは――
◇
テーブルを美也子、夫の亮太、それにタイ人のチャラポンの三人が囲んでいた。
「クリームシチューは食べられる?」
美也子がテーブルの向かいにいる若い娘に訊ねた。
タイ人は牛肉を、イスラム教徒は豚肉を食べないと聞いた覚えがあるが、鶏肉は大丈夫だろうか。
「ええと……チキン、オーケイ?」
「ダイジョウブ、オイシイデス」
笑うと褐色の肌に白い歯がのぞく。
「日本語上手ね」
「カタコトデスケド」
「それだけしゃべれれば充分よ。日本に来てどのぐらいなの? えっと……ハウメニイイヤーズ、インジャパン?」
「ゴカゲツデス」
「へー、じゃあ、観光ビザじゃないわよね。就労ビザって今、簡単にとれないんじゃなかったっけ?」
亮太が「美也子――」と疲れたようにため息を洩らす。
「今はそういう話はいいだろ。チャラポンも疲れてるんだ」
美也子は肩をすくめる。地回りのヤクザだの、不法滞在だの、面倒なことにかかわりたくなかったので一応確認したまでだ。
しばらく、とりとめない話をしながらシチューを食べ続けた。
チャラポンがどこまで日本語を分かっているのかはわからない。難しい単語が出たり、込み入った話題になると付いていけていない気はした。
会話が途切れたタイミングで美也子は訊ねた。
「……で、いつから二人は付き合ってるの?」
亮太とチャラポンが顔を見合わせる。
「三ヶ月ぐらい前からだよ」
あっさりと亮太が認めた。何か言いかけるチャラポンを、いいのよ、と手で制する。
「どういうことか、わかってる」
にしてもタイ人とは、愛人も国際的になってきたものだ。
「アノ……」
チャラポンが何かを言いかける。
「美也子よ」
「ミヤノー?」
「み、や、こ」
「ミヤノー」
「いや、だから美也子だって……ま、ミヤノでもいいけど」
タイ人には発音しにくい音なのだろう。日本人だって英語のRとLとか、苦手な音があるのだからしかたない。
食事が終わり、チャラポンはお風呂に入りに行った。リビングに夫婦ふたりだけになり、美也子は訊ねた。
「この後どうするのか考えてるの?」
「……とりあえず、今の店は辞めさせる。彼女の友達が勤めている別の店があるから、そっちで働かせる」
「帰国させたら?」
「彼女はタイに病気の父親や幼い弟妹がいる。稼いで家族の面倒を見なくちゃならないんだ」
「ばっかじゃないの。そんなの作り話に決まってるじゃない」
「どうしてそう決めつけるんだよ!」
あほらしい、と美也子は思った。親の入院費を稼ぐためとか、弟の学費を稼ぐためとか、キャバ嬢の定番の嘘ではないか。
(ほんっと亮太って甘ちゃん……っていうか、日本の男ってチョロい……)
なんでこんな男と夫婦を続けているのだろう。つくずく自分が嫌になる。結局この年になって、新しいパートナーを見つけてやり直すのが面倒くさいのだろう。
(亮太もそうだと思ってたけど、違ったわけね……ま、いいけどさ)
これが日本人だったら、もっと怒っていたかもしれない。言葉もカタコトの外国人なのでショックが和らぐというか、現実感が希薄だった。
夜も遅くなり、就寝する時間になった。夫婦二人暮らしのマンションに空き部屋はない。チャラポンは夫の部屋で寝ることになった。
「パジャマのサイズは合ってる?」
水色の寝間着を着た異国の娘に美也子が訊ねる。
「ダイジョウブデス」
ベッドの下に布団が敷かれていた。彼女をベッドで寝せて、亮太は下で寝るようだ。
「じゃ、おやすみなさい」
美也子は隣の自分の部屋に行った。ベッドに上がると、布団をめくり、体を潜り込ませる。
夫婦関係が冷えてから、寝室は別々にしていた。今さらなんとも思わない。だが、壁一枚向こうに夫と愛人がいると想像すると、モヤモヤした気持ちになる。
(明日には出ていってもらわないと……)
リモコンで天井のライトを消し、美也子は頭から布団をかぶった。
◇
すぐに追い出そうと思ったが、チャラポンはその後も家にいつづけた。美也子が許したのだ。
美也子は出版社で編集者としてフルタイムで働いていた。異国の若い娘は、掃除、炊事、洗濯をよくやってくれた。正直とても助かった。
追い出しそびれるうちに、二日、三日、四日……と妻妾同居生活が長引いていった。
「おいしい……この料理なんていうの?」
美也子は割り箸で平らな麺を持ち上げる。
「パッタイクンソットデス」
チャラポンが言った。
平日の夜、二人は夕食のテーブルを囲んでいた。亮太は仕事でまだ帰宅していない。最近はこうやってチャラポンと夕食をとることも増えていた。
夫不在の「妻妾生活」は、意外にギスギスしたものはならず、長年の先輩と後輩のような関係で意外に楽しく過ごせていた。
(タイ人ってどこか愛嬌があるんだよね……憎めないというか)
チャラポンは性格に表裏がなく明るい性格なので一緒にいて気が楽だった。少なくとも職場のお局などより100倍付き合いやすい。
「パッタイは知ってる。このもちっとした平打ち麺のことね」
「クンソットハ、エビデス」
「あ、海老ね」
ぷりっぷりの新鮮な海老、シャキシャキのもやし、ナンプラーとオイスターがよく絡んだ平麺、かすかに香るライム……濃厚な甘辛さが癖になる。
美也子はグラスに注いだシンハービールを呷る。キンキンに冷えた苦みのあるラガービールが喉を滑り落ちていく。
「ミヤノー、エビ、スキ?」
相変わらずミヤノと呼ぶが、どうでも良かった。とにかくこのパッタイはビールによく合う。
「好き好き」
笑顔で言いながら内心で思った。
(ま、都合のいい家政婦だと思えばいいのか……)
日本人なら我慢できなかった。心のどこかでタイ人を〝下〟に見る気持ちがなかったかと言えば嘘になる。
(どうせいずれはタイに帰っていくんだし……)
それまでは家政婦代わりに置いてやればいい。
「しっかし、チャラポンもさ、あんな男のどこが良かったわけ? 亮太よ、亮太。めちゃくちゃ浮気癖があるし、外にすぐ女作るし、サイテーの男だよ」
「リョウチャン、イイヒトデス」
「いい人は浮気しないって。まあ、今はあんたにぞっこんみたいだけど、どうせまた女を作るに決まってるって」
タイ娘にあてつけのように言った。あんたが愛されているのは今だけだぞ、と。酒の酔いもあって絡むように言った。
「ミヤノー、フマンデスカ?」
「不満があるかって?……別に……今の生活にもう慣れたかな」
それは夫に愛される方が幸せに決まってるが、世の女性がみなパートナーに愛されてると思うほど子供ではない。
「ジャア、シアワセデスカ?」
「……どうかな。幸せとか考えたことないよ。まあ、好きな仕事があって、住むところがあって、こうやっておいしいものを食べて、ビール飲めるから幸せなんじゃないの」
エビに平麺を絡め、箸で口に運ぶ。
「ワタシ、シアワセデス」
「はいはい、ごちそうさま」
正妻なのに愛人から「幸せです」と言われるのも皮肉な話だった。なぜだろう、愛人のチャラポンの方が自分よりもはるかに幸せに見える。
「ねえ……タイってどんなところなの?」
夫の亮太は仕事でよく行ってるが、美也子はテレビやネットの知識でしかタイを知らない。
「アタタカイ、ゴハンオイシイ、ウミガキレイ……」
チャラポンは指を折りながらタイの長所をあげていく。
「デモ、イチバンハアイガアルヨ」
「アイ?」
美也子が訊ね返すと、チャラポンが言い直した。
「エエト……ヒトガアタタカイヨ」
「ああ……なるほどね」
「ミヤノーモ、タイニクレバイイヨ」
鼻先で薄く笑いながら美也子は訊いた。
「あんた、向こうに家族がいるんだっけ?」
亮太いわく、彼女はタイに病気の父親や幼い弟妹がいるらしい。日本で稼いで家族の面倒を見ているとか。嘘に決まっているだろうが。
「カゾク、イルヨ」
美也子は一人っ子だった。幼い頃に父親が浮気して家を出ていき、シングルマザーの母親に育てられた。
温かい家庭というものを知らない。想像もできない。だからだろう、亮太のような家庭に不向きな男に逆に引き寄せられてしまう。
「……今度の夏休みにタイに行ってみようかな」
「ミヤノ、アンナイスルヨ」
「だから、美也子だって」
「ミヤノー」
「美也子だって言ってるでしょ。ま、いいけどさ……」
酔いに濁った赤い目で美也子はこぼし、再びグラスの生ぬるい液体を喉に流し込んだ。
◇
「では、あなたは何も知らなかったと?」
自宅のリビング、テーブルの向こうには背広姿の若い男がいた。
不法入国や滞在を担当する警察の捜査員だった。数日前、チャラポンが不法滞在で逮捕され、美也子に事情を訊きに来ていた。
「はい、夫が連れてきただけです……」
「夫?」
捜査員が首をかしげる。
「夫の亮太です」
「タイ本国に問い合わせたところ、亮太さんとチャラポンは、一年前にタイで婚姻届を出していたようですが」
捜査員の話によると、現地に家もあり、タイではチャラポンの両親や家族と同居していたという。
「亮太さんはチャラポンにあなたのことを〝愛人〟だと説明していたようです」
美也子は言葉をなくした。自分は彼女のことを愛人だと思っていたが、あの娘も美也子を〝愛人〟だと思っていたというのか。
「チャラポンはあなたのことを心配していました。ミヤノはちゃんと食べていけるのか、一人になっても大丈夫かと」
「美也子です」
癪にさわるのでしっかり否定しておいた。すると、捜査官が自分のミスに気づいたように、すいません、と謝った。
「私の聞き間違いです。たぶんミアノーイですね。タイ語で〝愛人〟という意味です」
一瞬、美也子は虚をつかれた表情になり、やがて、はは、と苦笑した。
名前を間違えられたのではない。自分はずっと彼女に「ミアノーイ(愛人)」と呼ばれていたのだ。上から目線でチャラポンを見下していたけれど、同情されていたのは自分だったのだ。
美也子はリビングの窓に目を向けた。南国のような青空が広がっている。
(今度の夏休み、タイに行ってみようかな……)
チャラポンやその家族は〝日本の愛人〟をさぞ歓待してくれるに違いない。それも悪くないと思った。
ミアノーイ【เมียน้อย】……タイ語で「愛人」。奥さんのいる男性の浮気相手のこと。
(完)