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80   あるいは新たな時代の到来を(後)

 クラウディオ・ディ・フォカッチャの乗った駅馬車が領都アルフォデロに着いた頃、アルグヘロ伯爵領はすでに「緋色の戦士団」の支配下だった。正確に言えば、アルグヘロ伯爵がベアトリーチェ側につくことを宣言しただけなのだが、実質的にはそうである。理由は推して知るべし。

 この情報は近隣の所領へも拡散している。もちろん、ベーグル王国との戦争でフォカッチャ王国軍の士気を壊滅させたあのドラゴンをベアトリーチェが従えたことも。

 王都フォカンツァへと伝わるのも時間の問題だろう。

「――まあ、ここで姉上のみならず、あの時のドラゴンや汝とも再会したのは予想外であったが」

「くはは、むしろ俺以外に予想できた者がいたら連れてきてほしいくらいだな」

 アルグヘロ伯爵家の屋敷――その客室の一つで、クラウディオはザインと再会を果たしていた。部屋の中にはベアトリーチェやマルティーナの他、カロン、パンドラ、エリオといった面々もいる。マックスは別室でラーのお守りだ。

 実を言えば、クラウディオが領都アルグヘロに現れたことはザインにとっても意外なことだった。ヌホロ子爵領でベアトリーチェから話を聞いた段階では、クラウディオが王都フォカンツァを出ることは非常に困難なように思えたからだ。

 だが、実際には次兄ブリツィオのはからいで、こうして脱出に成功し、ベアトリーチェやザインに重要な情報をもたらしている。

 同時に、それはベアトリーチェを懊悩させることにもなったが。

 クラウディオの話を聞いてからというもの、一言も発さずに考え込んでいるベアトリーチェを横目で見ながら、

「(……ところで、ベアトリーチェはなぜあんなにも悩むんだ? どのような結論を出すにしても、やるべきことは変わらんはずだが)」

 ザインは小声でクラウディオに問う。

「(姉上は弟妹大好き人間なのである。アルフィオやデメトリオがクズなことも見て見ぬフリをしてきたほどに。おそらく、自分の中で折り合いをつけているのであろう)」

「(ふむ……大丈夫なのか?)」

「(姉上は何だかんだで我が強いであるからな……己を見失うことはないはずである)」

 二人はしばらくベアトリーチェの様子をうかがい、まあ今は放っておくか、と今後の相談を始めた。

「――それで、ドラゴンを味方につけたわけであるが、汝は今後の展開をどのように予測しているのであるか?」

「そうだな……向こうが領主達をどの程度まで掌握しているかにもよるが、彼我の戦力差は概ね同じになったと言えるだろう。だが、時が経てば経つほど、こちらの情報は拡散し、均衡はどんどん崩れていく。時間がこちらの味方であることは向こうも理解しているはずだ。となれば、短期決戦以外に向こうが取れる選択肢はない――わけだが……」

「うん? 何か懸念でもあるのであるか?」

「逆だ」

「逆……?」

「すでにフォカッチャ王国は冬に突入している。雪も多少は積もっている。このまま数日が過ぎれば、行軍など考えられん状況になるかもしれん」

「なるほど…………そうなったらアルフィオは諦めるしかないであるな」

 当然だが、本来、ドラゴンという超生物に人類が対抗するにはそれなりの大軍が必要だ。だが、大軍であればあるほど準備には金と時間がかかるもの。もしもその間に大雪でも降れば、進軍すら遅々として進まなくなるだろう。

 それに、そもそも雪中の行軍は兵士が最も嫌がることの一つである。士気の低下はまぬがれないし、疲労が蓄積した状態でドラゴンと戦おうという者はいない。……どこぞの異端者一行と戦士団を除いては。

「さらに言えば、向こうがすでに進軍の準備を進めていて、たとえ短期決戦に持ち込まれたとしても――ドラゴンを前にして刃を向けられる兵士が何人いることか」

「ああ……それは確かにあり得そうであるな……。いや、そうなる予感しかしないのである……」

 フォカッチャ王国においてドラゴンは神聖な生き物だ。その意識は王侯貴族から市井の民まで広く根付いている。それが敵に回るということは、ザインが想像する以上のプレッシャーを与えるだろう。

「故に、戦略的にはすでにこちらがほぼ勝利しているわけだ。向こうが挙兵することは、いたずらに人的被害を広げることと同じ。さすがにそこまで愚かだとは思いたくないな」

 ザインがフォカッチャ王国でやっていることは、本質的にはメビウス法国におけるクーデターと同じである。聖女と呼ばれたパンドラには権力などほとんどなかったが、聖女という肩書きには強力な権威があった。彼女が発する言葉には市井の民を動かす力があり、多くの市井の民が動けば、それだけ多くの高位聖職者も動く可能性があった。まあ、実際には諦念に囚われていた市井の民が自発的に動くまで待つ余裕などなかったため、コフィー大司教の人体実験記録を暴露して人々を煽り、寺院兵団という精鋭軍を使って強引に法王を引きずり降ろしたのだが。

 とはいえ、今回の場合は、権威に加えてドラゴン自体が超戦力であるという大きな違いもある。刃を向ける忌避感に超戦力と対峙する恐怖が重なれば、士気は激減することだろう。雪中行軍も加わればもはや皆無かもしれない。アルフィオ側から敗北を認め降伏してくる可能性も高かった。

「であるが、確定したわけではあるまい。アルフィオ達が逆転する可能性もあるのではないか? 例えば、他のドラゴンを味方につけるとか、であるが」

「いや、それはほぼ無いな。フィリによると、神淵龍の系譜に連なる者に限らず、ドラゴンという生き物には『勝者に従う』という不文律があるらしい」

「それはまたわかりやすい不文律であるな……。王国騎士団長のイルミナートであれば多少は戦えるであろうが……いや、無理か。汝の助力あっての勝利だったと姉上も言っていたのである」

「俺から言わせればドラゴンを殴って気絶させる貴殿の姉の怪力あっての勝利なんだがな……」

「……改めて聞くと我が姉上ながらヤバすぎるであるな……。細いながらも角が生えるほど竜人の血が濃いとはいっても、膂力までドラゴンに近づくはずはないのであるが……」

 ドラゴンと人の間に生まれたと言われる竜人だが、その能力はあくまで人類という枠組みに収まる程度でしかない。いくら身体能力に優れていても鬼人より膂力があるということはないし、ブレスも吐けなければ鉄の刃を通さぬ硬い鱗もない。あくまで見た目の身体的特徴がドラゴンに似ているだけなのだ。まあ、飛膜の翼がある紅竜族は空を飛べたり、尾とヒレがある蒼竜族は水中を飛べたり、角がある黄竜族は竜人の中でもさらに身体的能力が高かったりするが。

 となると、もはや人類という枠組みすら超えそうなベアトリーチェの膂力は、細いながらも角があるという黄竜族の血の濃さに、生まれた時から発現していた「怪力」というスキルが合わさったからこその結果なのかもしれない。

 よくこんな奴を捕らえられたな、と今更ながらベーグル王国内戦を振り返るザイン。

 ベアトリーチェから言わせればドラゴンの鱗より硬い影の壁をつくるザインの方がおかしいのだが。

「まあ、姉上の話は置いておくのである。それよりもアルフィオ達のことであるな。他のドラゴンを味方につける可能性が皆無なのであれば、今は亡きフルザキ公爵やオスカル王子がやった手法はどうであるか? つまり、他国を味方につけるということであるが」

「ふむ……ベーグル王国に対しては、干渉せんようにと俺が手紙を出しておこう。そうでなくとも、夏に内戦があったばかりでまだ多少の混乱が続いているしな。となると、あとはグリッシーニ王国だが……」

「あの国とは少し前にいろいろあったであるからなあ……。そう簡単に協力することはないと思うのである」

 クラウディオの言う「いろいろ」とは、もちろん、フォカッチャ王国の者達(を傀儡化したザイン)がグリッシーニ王国の村々をいくつも壊滅させた件である。ベアトリーチェとマルティーナはそれがザインの策略だったと知っているが、この場にいる他の者達は知らない。ベーグル王国での内戦中にザインが二人にそのことを明かしたのは、あくまで会話の流れで話した方がいいと判断したからでしかなかった。

 ザインはチラリとベアトリーチェがまだ考え込んでいるのを確認し、続いてマルティーナを見た。彼女は心配そうにベアトリーチェを見つめている。その意識はベアトリーチェのみに集中しており、ザイン達の会話を聞いていた様子はない。

(パンドラやカロンはまだ大丈夫だが、エリオやマックスはどう反応するかわからんからな……。むやみに話すことはないだろうが、今の状況で内輪揉めは避けたい)

 少なくともこの国での一件に片が付くまでは――そんな考えをおくびにも出さず、ザインは「別の可能性もあるだろう?」と話題を逸らす。

「別の可能性、であるか……? ……っまさか――」

 ――コンコンッ。

 クラウディオがザインの言葉の意味を理解したその時、ノックの音が部屋に響いた。だが、その音は扉からではなく、その反対側――窓の方からしていた。

 ――コンコンッ。

 再びノックの音。

 だが、窓の外には誰もいない。いや、そもそもこの部屋にはベランダがない。文字通りの(くう)である。

 異様な現象にギョッとしてクラウディオが固まる一方で、ザイン達は落ち着いていた。この現象に心当たりがあったからだ。

 椅子から立ち上がり、ザインは近くの窓を開ける。一瞬、冬の冷たい空気が弱い風となって室内を駆けた。

「それは……鳥、であるか……?」

 戻ってきたザインの右腕には真っ黒な鳥がとまっていた。ノックの音の正体はこの鳥だったのだ。

 元々はシトロン・レモネード司祭との緊急連絡用として傀儡化した偽物の鳥である。ザインは他でも必要となる可能性を考え、同じものを何羽か確保し、これまでに出会った何人かに渡していた。例えば、シャルロッテ・オシリス・アリスワーニ、ツェザリ・バルトシュ・ジェシェフ伯爵、「棺桶屋」レオポルド、ミルザム・フォイエン、クラリス・ド・ファヴェルゼーヌ男爵令嬢――といった者達に。ベアトリーチェ・ディ・フォカッチャもその一人だ。

 真っ黒な鳥の足に結ばれた紙をほどき、広げて内容を読む。

「――やはりか……」

「??? 何がであるか?」

 勝手に読め、と言わんばかりに手元の紙をクラウディオへ放り、ザインはベアトリーチェの座る椅子を蹴り倒す。

「なっ……! 何をするのですか!?」

「立て、ベアトリーチェ。悩んでいる暇はなくなった」

 床に倒れこんだベアトリーチェに駆け寄り、守るように体で庇って抗議するマルティーナを無視して、ザインは厳しい声色で「立て」と繰り返す。

「すぐに兵を集めろ。こちらから王都フォカンツァへ進攻しなければならん」

 待つだけで勝利できる――自身もその可能性の高さを認めていたにもかかわらず、ザインは短期決戦を仕掛けろと意見をひるがえした。

 マルティーナは困惑するしかない。

 そこに、一枚の紙が差し出された。

「姉上、マルティーナ、吾輩も即時進攻に賛成である」

「賢弟殿下もですか……?」

 よほど重大な凶報なのか、とマルティーナは紙を受け取り――瞬間、横から伸びてきた手がそれを奪い取った。

「殿下……」

 手の主はベアトリーチェだった。

 ベアトリーチェはサッと内容に目を通し、スッと立ち上がると、

「マルティーナ、『緋色の戦士団』総員をすぐに動けるようにしとけ。オレはアルグヘロ伯のとこへ行ってくる」

 そう命じ、客室から出ていった。

 その姿は、もはや弟と戦うことを悩む一人の女性ではなく、フォカッチャ王国最強とうたわれる「緋色の戦士団」団長としての姿だった。

 ホッと息を吐くマルティーナの前に一枚の紙が落ちる。

 風雲、急を告げる――床に落ちた紙に書かれている内容を読み、マルティーナは知らず知らずのうちに唾を飲み込んだ。

(確かに、今すぐにでもこの内戦を終わらせなければなりませんね……!)

 それはグリッシーニ王国ヴェローネ伯爵領軍巡視隊長エラルドからの密書だった。

 そしてそこにはこう書かれていた。

 ――グリッシーニ王国に進軍の兆しあり。




 王都フォカンツァの王城の中――アルフィオ・ディ・フォカッチャは玉座で頭を抱えていた。神経質そうに細い脚を揺らしている。

 ベアトリーチェとは違い、その頭に角はない。いや、そもそも、アルフィオは蒼い長髪に薄紅色の瞳で、これは蒼竜族の特徴だ。だが、その体には尾もヒレもなかった。

「ドラゴン……!? ドラゴンだと!? バカな、あの暴力しか取り柄のない女のどこにそんな高貴さがあるというのだ! 余計なことしかしないのか、あの女は……! ドラゴンにふさわしいのは私のはずだ……! そうだ、こんなのは何かの間違いだ……!!」

 それを冷めた目で見つめる男が一人。他には誰もいない。

(これはいよいよダメかもしれないな……)

 アルフィオに気付かれないよう、男はそっと左手で鞘を握る。親指で柄を押し、わずかに刃を出した。これでいつでも剣を抜ける。

 直後、その視線は玉座の間の大扉へと向き、剣と左手は元の位置へと戻された。

 大扉がわずかに開かれ、隙間から衛兵が入ってくる。その時には、もう男の表情は堅物そうなものへと変わっていた。

「何用だ?」

「バルダッサーレ将軍がお越しになりました」

 衛兵の言葉にアルフィオがピクリと反応する。

「通せ」

「はっ!」

 衛兵がまたわずかに開いた大扉の隙間から出ると、今度は大きく開かれ、血のように赤い髪にところどころ白いものが混じった壮年の男が入ってきた。

「失礼いたしますぞ、陛下。バルダッサーレ・ディ・シアッカ、お呼びと伺い参上いたしました」

「おお、バルダッサーレ将軍か。待っていたぞ」

 つい今まで頭を抱えていたはずのアルフィオは、バルダッサーレの姿を認めた途端、玉座から立ち上がり両手を大きく広げ――そこでわずかに固まった。

「……うん? そういえば、イルミナートはどうした? 奴も呼んだはずだが?」

「ああ……イルミナート騎士団長でしたら、すでに王都にはいませんぞ」

「何っ?」

「『緋色の戦士団』がドラゴンを従えたという報告を聞いたあと、すぐに単身発ちました。おそらく、自分の首一つでレオンフォール伯爵家を許してくれるよう願いに行ったのでしょうな」

「は……???」

 一片も理解できないとばかりに呆然とするアルフィオ。

 力なく両手が垂れる。

 まばたきを二度し――瞬間、その顔が怒りに歪んだ。

「――っざけるな! ふざけるなよっ、イルミナートォォ!!! 戦わずして諦めるなどそれでも我がフォカッチャ王国の騎士団長か!! それでも私に忠誠を誓った騎士か!! あ~~――の不忠者がぁぁ!!!」

 ひとしきり喚き散らしたあと、荒い呼吸を何度か繰り返し、アルフィオの瞳はギロリとバルダッサーレを睨む。

「……バルダッサーレ!」

「はっ、ここに」

「今すぐ兵を集めろ! 武器を握れるならば老いぼれだろうが女だろうが子どもだろうが誰でも構わん!! 集められるだけ集めて進軍しろ! そしてあの女の首を獲ってこい!!!」

 だが、バルダッサーレは頷かない。

「……恐れながら、陛下。敵にはあの天空の覇者――ドラゴンがおります。非力な民などいくら集まろうと物の数には入りませぬ。それではいたずらに人命を亡――」

「いいからやれ!! 私がやれと言っているのだからさっさとやれ!! お前はただ頷いて私の命令を果たせばそれでいいのだ!!」

「――……ですから、それではいたずらに人命を亡くすだけだと申しております」

「~~~~!! ――……それはつまり私の命令には従えないということか?」

「そのようなことはありませぬ。ただ、将軍として、むやみやたらと徴兵することは避けるべきだと進言しておるだけです」

「つまり私の命令には従えないということではないか! この、フォカッチャ王たる私の!」

 大きく息を吐き、アルフィオは玉座にどさりと座る。

「もういい――お前はクビだ!!  新たな将軍にはブリツィオ、お前を任命する!」

 そしてバルダッサーレにそう宣告し、傍らでずっと黙して二人のやり取りを見ていた男――ブリツィオを新たな将軍に指名した。

 ブリツィオはその場で跪き、アルフィオへ向かって頭を下げる。

「謹んで拝命いたします、陛下」

 その言葉に満足げに頷き、アルフィオは同じ命令を繰り返す。

 何人死のうと構わないから、ベアトリーチェの首を獲ってこい――と。決して自分で首を獲るとは言わないところに、アルフィオの性格がよく表れていた。

 ブリツィオの頭が静かに上げられる。

 黄緑色の短髪に青紫色の瞳、そして常に眉間にしわが寄った堅物そうな顔――それがブリツィオ・ディ・フォカッチャという男の特徴だった。そして、その性格も堅物そのもので、前国王のエレウテリオや兄であるアルフィオの命令を忠実に守る男として認識されていた。

 だからアルフィオは、自身を見つめるその瞳が冷めていることに気付けなかった。

 白刃が煌めく。

「――ごふっ……!?」

「殿下!?」

「……アルフィオ……もしも父上が君と同じ状況に陥ったなら、きっと潔く諦めたと思う。君は父上が凡君だったからだと言うだろうが、負けを負けと認めずいたずらに人命を失わせるのは暗君のすることだ。それは凡才に劣る悪でしかない」

「な……な、ぜだ……ブリツィオ……!?」

「だから、君が暗君だからさ。僕だって人間なんだ、死ぬとわかってる戦いには行きたくない。たとえそれが命令であってもな。いいか、アルフィオ、君が死ぬ前に一つだけ教えてやる」

 アルフィオの胸に突き刺した剣をさらに押し込みながら、ブリツィオは決別を告げる。

「僕も姉上も民も――君の道具じゃない」

 その言葉がアルフィオに届いたかどうかは永遠にわからない。

 ただ、この瞬間、王位をめぐる内戦は確かに終わったのだった。




 降伏を告げる使者がベアトリーチェのもとを訪れたのは、進軍を開始して四日目の昼過ぎのことだった。

「……つまり、アルフィオは死んだんだな?」

「はっ、その通りです」

「………………」

 使者の言葉にほうっと息を吐き、ベアトリーチェは呆然と空を見上げる。

 正直なところ、ホッとしていたのだ。何しろ、これで自らの手で弟の首を落とす必要がなくなったのだから。

 椅子の上で脱力して何も言わないベアトリーチェに代わり、マルティーナが使者を下がらせる。

「……結局、オマエもアルフィオも何がしたかったんだ? なあ、イルミナート……」

 ベアトリーチェの視線の先には布に包まれた木箱があった。その中には緑色の髪に無精ひげを生やした男の首が入っている。

 イルミナートはこれまでの行動全てがアルフィオと共謀したものだったと証言したが、理由については最後まで「全てはフォカッチャ王国のためだ」の一点張りだった。結局、胸の内を何も明かさないまま、彼はその責を問われ、斬首刑に処された。少なくとも、レオンフォール家に対してはそれで手打ちにするという約束を信じて。

「――あ、姉上……? それで、俺様のことも許して――くれるん、だよな……? なっ?」

(ああ……そういやコイツもいたんだったな……)

 ベアトリーチェの注意を現実に引き戻したのは、橙色の瞳を不安げに揺らす薄紫の長髪の優男――デメトリオ・ディ・フォカッチャだった。

 デメトリオは、ベアトリーチェが逆賊認定されたあと、完全にタガが外れ、王城で傍若無人に振舞っていた。だが、アルフィオが死んだことで自身が非常にマズい立場に陥ったことをようやく自覚し、降伏の使者に無理矢理同行したのだ。なお、使者とは違い正座させられている。

 本人が言うには許しを請いに来たらしいが、ベアトリーチェとしては、自身の目の届かない場所でデメトリオのタガが外れるのはいつものことだったため、さほど深刻に受け止めていなかった。

 だが、そこにクラウディオが待ったをかけた。

 ――デメトリオは強い側にこびへつらう典型的な金魚のフンである。そういう者は、保身のためだけに裏切りを繰り返す最も信用してはならない者なのである。だから姉上、デメトリオへの処罰は吾輩に任せてほしいのである。何、さすがに命を奪うようなことはしないのである――

 少し悩んだあと、その言葉を信用することにしたベアトリーチェは、デメトリオの処遇をクラウディオに一任した。だから許すも許さないもなく、デメトリオのことはベアトリーチェの中でとっくに終わったことだった。

「クラウディオの指示に従え」

 さっさと結論だけ告げられ、下がらせられるデメトリオ。

 無能な働き者に対してクラウディオが下す処罰やいかに。

 なら次にすべきことは何だ、とベアトリーチェは考える。

 もう彼女のそばにザイン達はいない。グリッシーニ王国に対応するため、第二王女が嫁いだミゼルニア公爵家への手紙を持って先行している。ザインは、そのままフォカッチャ王国を出るつもりだ、とベアトリーチェに話していた。最後の協力としてグリッシーニ王国の進軍を多少は遅らせよう、とも。

 そしてベーグル王国もザインの手紙で動くことはない。

 アルフィオの死とブリツィオの降伏で王都フォカンツァの支配権は確実なものとなった。このまま軍を進めて王城へ入るだけで王位は手に入る。

 だが、ベアトリーチェが言う「次」とはそういう意味ではない。

 全ての不当を滅ぼすために何をすべきか、ということである。

 ベアトリーチェは懐から紙束を取り出し、一枚ずつ丁寧に開いてじっと読み込む。

「…………まずは学校とやらをつくらせるか……」

 ザインはベアトリーチェに二つの道を示した。

 一つは、王制を廃止して王という存在そのものを無くし、国民が主権者となって、国権を縛る憲法を基に国民が統治を行う「共和制」。

 一つは、王制を残しつつも、主権者は国民とし、王権を縛る憲法を基に国民が統治を行う「立憲君主制」。

 どちらの道を選ぼうとも、特権階級としての貴族はいずれ消滅することになる。フォカッチャ王国でもう一度内戦が起こるか否かは、後に続く者達の選択次第だ。

 いずれにしても、ベアトリーチェの願いを叶えるためには、民主主義であることは最低条件だった。そしてそれは十年や二十年でできることではない。百年単位の時間が必要だ、とザインは何度も執拗に繰り返し――それでもいい、とベアトリーチェは頷いた。

 では民主主義を実現するのに必要なことは何か?

 人権思想、特権階級の消滅、国民主権――考えれば考えるほどに必要なことは増えていくだろう。だが、根本的に必要なことは一つだ。

 国民教育である。

 自身が自身の人生の主人公であるということを自覚するには、何よりも教育が必要だ。知識を詰め込む教育ではなく、知性を育む教育が――国家のためではなく、国民のための教育が。

 全ての不当を滅ぼす第一歩は、それがどのような不当かを認識する知性を持つことである。知性を持つ国民が増えれば増えるほど、真の意味での民主主義へと近づくことができる。だから何よりも国家の介入がない教育を国家が保障することが重要だ。

 ベアトリーチェの呟きは、開いた紙の文中でザインがこれを力説していたためのものだった。

(まずはこれが貴族と民の双方の利になると説得するとこからだな……)

 御前会議で貴族達全員が首を傾げる様を想像し、ベアトリーチェはフッと笑った。

 彼女が王位に就くことによって、当主は男性に限るという不文律は崩れるかもしれない。だが、それはベアトリーチェが目指すもの――男女平等には程遠い。

 フォカッチャ王国がそれを実現するには、ザインが言うように百年単位の時間が必要だろう。つまり、それはベアトリーチェが志半ばで倒れることは確実だということでもあった。

 だからクラウディオはザインザード・ブラッドハイドという男を指して「嘘つき」と非難するのだ。

 新たな時代の到来は未だ遠く。

 だが、確かな一歩を歴史に刻み、ベアトリーチェはたたかい続ける。

 たとえどんな困難があろうとも、その志は受け継がれていくだろう。

 この世界から、全ての不当を滅ぼすまで。

 細かい話は活動報告にて。


 それから、そろそろここに書いても許されるかなと思ったので、評価や感想などよろしくお願いします。

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