63 願いは声にした瞬間に始まる
ラサラス・ボルトという少女のことを我はよく知っている。――いや、もう少女と呼ばれるような年齢ではなかったか……。
どうにも、いつまで経ってもあの頃のままのような気分で話してしまうな……。
当人に接している時はそうでもないのだが……。
我が彼女と面識を持ったのは、かれこれ十年前くらいになる。……そうか……道理で、彼女も立派な女性になっているわけだ。
我も――立派かどうかはわからないが――おじさんと呼ばれる年齢になってしまった。
……おっと、今はラサラス君の話だったか。
彼女は雷虎族だ。同じ猫系獣人でも炎獅族である我とは違い、金色の髪に碧い瞳を持つ。彼女はその長い髪を、こう――頭の後ろの高いところで結んでいるのだが……、あれは何と言ったかな……?
ボルトという名を聞くと、なぜか他種族の者は決まって「ボルト獣帝国の皇帝と何か関係があるのか?」と尋ねるが、雷虎族の中ではボルトという姓はありふれたものだ。とはいえ、遠い血縁ではあるかもしれないが。他にはオームやアンペアも多いな。
さて……では、我とラサラス君の出会いを話そう。
――十年前、ベーグル王国北東部のある村が襲撃された。当初は盗賊の仕業だと思われていたらしい。村の家々が焼かれ、何人もの村人が死に、金目の物が無くなっていれば、そう思うのも仕方がない。
しかし、あとになって奴隷狩りの仕業だとわかった。
証言者が現れたからだ。
わずか八歳の少女だったがね。
彼女はその村から奴隷狩りによって攫われ、一度は確かにフォカッチャ王国に入りながらも、しかしブリオッシュ王国北西部の村で保護された。同じように攫われた獣人達によって逃がされたらしい。
彼女は――たった一人で、モンスターが跋扈するキコリオネ大森林を越えた。「君だけでも逃げろ」と、いくつもの同じ言葉に背中を押されて。
わずか八歳の少女が、だ。
どれほど怖かっただろうか。
どれほど苦しかっただろうか。
それでも彼女は懸命に生きて帰ってきた。
獣人にとっては初めてのことだったよ。奴隷狩りに攫われて、なお、生きて帰ってきたのは。
彼女の証言によって、かの村の襲撃は奴隷狩りによるものだとわかった。
そして、その奴隷狩りがフォカッチャ王国のキコリッティ侯爵領から来ていることも。
つまり、その少女こそがラサラス・ボルトであり――彼女を保護した村人というのが、我の父と母だった。
だから、我にとってラサラス君は年の離れた妹のようなものなのだ。彼女が冒険者になると言った時も、父や母とともに猛反対した。冒険者が苦労の多い仕事であることは、自身の経験で実感していたからね。その結果はあの通りだが。
……確かに才能はあった……。我もあの頃からそう思っていたよ。何しろ、キコリオネ大森林をたった一人で、しかもわずか八歳で横断したのだから。
しかし――それを指して、彼女には才能があるなどと――……。
それは、あまりにも残酷な言葉だと、そうは思わないか……?
「んむ……数が多すぎるな」
二日をかけ、奴隷とされた同胞達の居場所を調べた結果、そのような結論を出す他なかった。
人手が足りない。
あまりにも単純で、しかしだからこそ解決しがたい難題だ。
こういう時は誰かに相談したいところだが……相談できそうな者は今、ことごとく別行動中だ。各地で指揮にあたらなければならない以上、それは致し方ない。
……それに、予想できなかったと言えば嘘になる。
今回の作戦はあくまで救出が目的。奇襲も陽動も、しかる後の撤退も、それを実現するための手段に過ぎない。
――二十人。
たとえ二万人が住む王都フォカンツァであっても、それ以上を割くことはできなかった。他の都市でも同様の作戦を行うこともそうだが、連れていく人員を選抜しなければならなかったからだ。
数を揃えるだけならば、二倍でも五倍でも連れてくることはできる。しかし、その場合、間違いなくフォカッチャ王国側に感付かれる。そしてこの作戦は発覚した瞬間に決死の脱出作戦へと変貌する。
――やはり、数を揃えた上で襲撃した方が良かったのではないか?
否だっ!!
ふと頭に浮かんでしまった最悪の選択肢を即行で殺す。
決して――決して、彼らに同胞達を攻撃する口実を与えてはならない……!!
たとえ我らが失敗しても、同胞達はそう酷い目には合わないだろう――そんな甘い考えができるのは、ブリオッシュ王国しか知らないからだ。あの人々の温かさを知ってしまっているからだ。
ここはフォカッチャ王国だぞ、ミルザム・フォイエン!
ザイン殿に言われたことを思い出せ……!
――肝に命じろ、ミルザム・フォイエン。この作戦を成功させれば、貴殿は英雄にも救世主にもなれるだろう。だが、失敗すれば、裏切り者として未来永劫憎まれ続けることになる。万が一は考慮しなくてもいいが、一か八かには絶対に賭けるな。――想像しろ。わずかな言葉を交わしただけで鞭打たれる同胞達を。それが襲撃を受けた差別主義者達の答えだ。そしてフォカッチャ王国の民達は、それを見て嗤うぞ――
「…………なるほど、打開策はすでに打ってあったのか……」
ザイン殿の言葉を思い出したことで、図らずも相談すべき相手がわかった。
マックス殿だ。
ザイン殿が用意した移動手段(という名の奴隷商人の馬車)と合流したあと、マックス殿は護衛の冒険者の一人として我らに同行し、王都フォカンツァへ来ている。
戦力は一人でも多く欲しかったので、実にありがたかったが、一人増えたところで大して変わりはないと思ったのも事実だった。
しかし、ザイン殿はあの時、確かに続けてこう言ったのだ。
――まあ、一か八かにさせるつもりはないがな――
人手が足りないと実感した今こそ、一か八かに賭けるか否かの瀬戸際だ。少人数の奇襲では確実に失敗する。しかし、襲撃箇所を選抜しても失敗するリスクが高くなる。
我が予想できていたことをザイン殿が予想できなかったとは考えにくい。でなければ、法国でのクーデターを成功させられるわけもなく、ベーグル王国の内戦とフォカッチャ王国の参戦をあれほど早く予想できるわけもない。
ザイン殿は確実に打開策を打っている……はずだ。
まずはマックス殿を探さなければ。
そう思い、会議室に改装された応接用のテントから大テントへと出る。
半ばほどまで進んだところで、入口の方から声が聞こえてきた。
「――申し訳ないが、実を言うと、今は契約魔法を使える人がいねえんだ。オレはただ、留守中にお前さんみたいなお客さんが来たら説明しろって言われただけなんだよ」
「おやまあ……フェルディナンド商会らしくありませんが……、まあ、そういうことなら致し方ありませんね……。わかりました、今日のところは帰りましょう」
「すまねえな。コルネリオ会頭にはお前さんが来たことを伝えておくよ」
足音が遠ざかったところで、大マントの中にマックス殿が入ってきた。
マックス殿は今、あの奴隷商人によって暇を出された奉公人の代わりを務めている――フリをしている。どうやら、また準備中にもかかわらず商談をしにきた「厄介な客」の対応をしていたらしい。
「マックス殿」
「あん? おう、ミルザムの旦那じゃねえか。どうした?」
「んむ、実は少々、相談したいことがあるのだが――」
そう前置いて、我は人手が足りないという話をした。
「人手ねえ……。あー……あれはそれのためだったのか……」
「何か心当たりが?」
やはりザイン殿は打開策を打っていたか。
「いやまあ、あるっちゃあるが……。ったく、ザインの奴、何で先に言わねえんだ……」
ボヤくマックス殿をせっつき、その打開策を話してくれるように頼んだところ、マックス殿は「会った方が早いな」と言って、大テントを出ていった。
なお、その間に厄介な客が来た場合、非常に困るので、大テントの入口は檻を二つ積み上げて塞いでおいた。ムフリッド君が口をポカンと開けて驚いていたが、このくらいは造作もない。
マックス殿が戻ってきたのは少し経った頃のことだった。
一人の女を連れていた。
「んむ……念のために尋ねるが、この人間は信用できるのだな?」
「わ、ワタシ達ケインへ――傭兵団は、ぶ、ブラッドハイド卿のご命令とあらばっ、その、忠実に、従わせていただくでありますっ」
「ミルザムの旦那、もう少し抑えて……。ビビらせちゃ話せるものも話せねえよ」
そう、マックス殿が連れてきたのは人間の女だった。
茶髪に黒い瞳というのは北方では珍しい。その上、肌が黒かった。さらに珍しい。
「……目立って仕方がないと思うのだが……。他にいなかったのかね?」
「あー、いやそれは――」
「ワタシはこれでもケイン兵団の兵団長であります。それでも文句があるというのなら、そちらこそ他の者を――あ……」
「…………。ケイン兵団……?」
傭兵団を言い間違えた、などということではなさそうだ。
どういうことかとマックス殿を詰問したのは言うまでもない。
しかし、我の疑いはあらゆる意味で裏切られた。もちろん、良い意味でだ。
「――つまり、ケイン兵団とはメビウス法国のコーラ枢機卿領――」
「元であります」
「――失礼。元コーラ枢機卿領のケインという街を守っていた領軍のようなもの、という認識で合っているかね?」
「ようなものではなく、領軍そのものなのでありますが……」
「街を守っていたかどうかは疑問だがな。なにしろ、こいつら、住民を見捨ててモンスターパレードから逃げ出しやがったらしいし」
「あ、あれはっ、代官様が『全軍で領都リブレに来いとのコーラ猊下のご命令だ』と嘘をついたのに騙されたのであります! 我らも被害者なのでありますぅ!」
「……本当に使いものになるのだね?」
話を聞けば聞くほど、我の中で別の疑いが育っていったのは無理のないことだと理解してほしい。
とはいえ、その女――そういえば名を聞いていなかった――もとい、兵団長(他にいないのでこう呼ぶことにする)が信用できることに疑いの余地はなくなった。
兵団長がメビウス教徒であることは確認したし、何があったのかは知らないが、ザイン殿のことを酷く恐れていることも実感した。そもそも、メビウス法国の領軍(兵団?)がフォカッチャ王国で獣人を騙して、いったい、どんな利があるというのか。我には一つも思い浮かばない。
そして、ケイン兵団が今、どのように動いているのかを話してもらったところで、
「なるほど……。んむ……それは先に言っておいて欲しかったな……ザイン殿……」
我はマックス殿と同じようにボヤくことになった。
ケイン兵団は四百人ほどいるらしい。そして、現在は「ケイン傭兵団」を名乗り、我らが救出作戦を行う各都市や鉱山に散っているそうだ。ここ、王都フォカンツァには八十人を割いていた。
つまり、これで動かせる人手が一気に五倍になったわけだ。
二倍いれば必要最低限、五倍いれば万全だったと考えていたが、まさか現実になるとは。
……しかし、なぜ、ザイン殿は先に言ってくれなかったのだろうか……?
疑いは晴れてなお、疑問は増すばかりだった。
ケイン兵団(傭兵団)八十人を加えた作戦を組み立て、急遽共有し、その日の深夜に決行した。
フェルディナンド商会の留守居役(のフリをしているマックス殿)が、接点などないはずのケイン傭兵団の団長を連れて商会の大テントに入ったのは多くの人に見られている。噂が広まるのは時間の問題であり、そうなれば少々、動きづらくなる。
それに、あの厄介な客が言っていたようなフェルディナンド商会らしくないことをし続けるのも限界だと感じていた。
最初に狙うのは四つの大商会と二つの奴隷商だ。その後、戦闘奴隷が囚われている三つの厩舎を襲撃する。戦闘奴隷を二番目に回すのは、なまじ戦えるからこそ、同胞達が彼らと戦おうとするのを避けるためだ。
ザイン殿を「閣下」と呼ぶあの奴隷商人が、フォカッチャ王国で最も大きな奴隷商なのは意外だった。しかし、助かったのも事実だ。どのような方法でかは……知らない方が良いのだろうが、ザイン殿は一手目から我らの負担を減らしてくれていた。
何より、あの奴隷商人が、同胞達を売った先を全て明かしたことが大きい。そして、王城や貴族の屋敷には同胞達がいない可能性が高いことも。
「王室の方々は獣臭いのがお嫌いなようで、獣人の奴隷は買われないのでございます。上級貴族の方々もそれにならい、王都フォカンツァの屋敷には獣人の奴隷を置きません。下級貴族の方々も――一部は使っているようでございますが――言わずもがな。そもそも獣人の奴隷は肉体労働を期待されておりますので」
自分のところでそうなのだから他でも同様だろう、というのが、あの奴隷商人の言だった。
……我らは獣人であって獣ではなく、よって獣臭いというのは勘違いなのだが……、悲しいことに、それがフォカッチャ王国の者の共通認識らしかった。
「――状況は?」
「南西側と北東側の一部が未だ交戦中であります。南東側と北西側、奴隷商の方は救出完了であります。北西側と奴隷商に向かった隊はそのまま南西側の厩舎に向かわせたであります」
ケイン兵団というのは、有事の際には領都リブレの兵団の指揮下で動くため、その兵団長はどちらかというと副官が本業だと言っていたが、確かに兵団長は副官として優秀だった。
戦況把握に余念がなく、報告も簡潔でよどみがない。何より、我の指揮をある程度先回りして動かしている。
南西側と北東側が少々、手こずるのは予想していた。
フォカッチャ王国はベーグル王国とグリッシーニ王国と直接交易している。つまり、南西部はベーグル王国、北東部はグリッシーニ王国へと通じる街道があり、ひいてはそこを拠点としている大商会も、国内のみで利益を得ている他の二つに比べて大きい。
北西部には厳しい海しかなく、南東部にはブリオッシュ王国があるが、キコリオネ大森林に阻まれている。
それでもなお、我は各大商会に等分して襲撃させた。
一つは、南東側と北西側の大商会、二つの奴隷商は早めに救出完了できると予想され、厩舎もある南西側に送れば支援と同時に二つ目の目的も達成できると踏んだこと。
二つは、南西側か北東側のどちらかが救出完了すれば、残った者達とともに南側の厩舎を襲撃できること。
とはいえ、これらは順調に進んだ場合の話だ。厩舎を襲えば、当然、王国軍も動き始める。
「んむ……あの白い石造りの建物でいいのだね?」
「そうでありますが……本当にここから届くのでありますか?」
「法国にも同胞はいるのでは?」
「風狼族は――法国にいる獣人はその民族ばかりなのでありますが――大きな斧を振り回して戦うのであります」
「なるほど、弓を使う同胞は見たことがないと」
我と兵団長は今、冒険者ギルドの屋根の上にいる。王都フォカンツァの街中で最も高いからだ。
兵団長は嵐風魔法を使っていたが、同胞にとって壁登りはさして苦ではない。
そしてまた、夜目が非常に利くのも同胞の特徴だった。
「では、お教えしよう。同胞が使う弓は、人間が使うそれよりもやや大きい程度だが、素材の堅さはかなり違う」
狙いを定めつつ、兵団長の問いに答える。
狙うは王国軍が管理する食糧庫の一つ――その扉。建物は窓のない石造りだが、その扉だけは木で作られていた。
的としては大きすぎるほどだ。
そして、同胞を奴隷として扱うフォカッチャ王国は、同胞の使う弓の性能を知らなかった。
「まして我は炎獅族。その弓はさらに大きく、さらに堅く、しかしなおかつ折れにくい。――本来なら、だがね」
「なるほど、それで先ほどから弓がヤバい音を発しているでありますか。……ところで、矢の先に結わえ付けたそれは何でありますか?」
「んむ、これか。これは――」
その瞬間、風が止み、指は無意識に弦を離していた。
矢は夜闇を裂き、弓は空気を弾いて音を鳴らし、瞬きを一つする間に標的を貫通した。
「――消せない炎をもたらすもの、だそうだよ」
「消せない炎……も、もしや、ブラッドハイド卿からでありますか?」
「王都フォカンツァも救出作戦に加えたいと言ったら設計図をくれてね。同時に、『戦争で使えば悪魔の兵器を生み出した者として憎まれる』とも忠告されたが」
「悪魔の兵器……でありますか」
食糧庫から煙が上がったのを確認し、二射目をつがえる。
狙いは当然、別の食糧庫だ。
これで王国軍をある程度、釘付けにできる。
「……限界だな。さすがに王国軍は対処が早い」
二射目が標的を貫通し、食糧庫から煙が上がったのを確認したところで、一か所目の方角から「火を点けた犯人を捜してこいっっ!!!」と怒鳴る声が聞こえた。
この先は街中を巡回する軍属が増えるだろう。
とはいえ、ここからは二か所しか射っていない。捜索範囲はある程度広くなるはず……らしい。
ザイン殿が三か所以上だと場所がバレると言っていたので二か所に留めたが……、本音を言えば、場所を変えてもう一か所、できれば二か所は焼いてしまいたかった。
巡回が増えれば発見される可能性が高くなる。そして我が姿を見られれば、同胞達にも危険が及ぶ。
「南西側と北東側は?」
「……救出完了であります」
「では、手筈通りに」
「了解であります」
短いやり取りを交わし、兵団長とともに路地裏へ降りる。さらに深いところへ歩けば、その先に同胞や兵団員達が集まっていた。南東側を襲っていた者達だ。
その周囲には、淡く赤に光る首輪を着けた同胞達がいた。この首輪こそ、同胞達が奴隷である証なのだが、今は外してやれる手段も暇もない。
弓を持つ兵団員三人に、それぞれ一本ずつ「消えない炎の矢」を渡し、簡単な地図で標的を示す。
三人は軽く頷くと、静かにその場を去った。わざと目撃されるために。
次に、足の速い同胞を二人選出し、南西側と北東側に南側の厩舎を襲えと伝えるよう指示を出した。
「んむ……ムフリッド君」
「っ! うっす!」
「いよいよ君の出番だ。存分にバカにしてくるといい」
「了解っす! じゃ、姐さん、行ってきます!」
「だから何で自分だけに言うんだよ……ったく……。あー……でもまあ、あれだ。……ちゃんと生きて帰ってこいよ」
「あ、姐さんが――デレた……!?」
「デレてないわっ!!」
「ごふっ!?」
「さっさと行け!」
「う……うっす……」
「……念のために言っておくが、ムフリッド君はこれから大事な役目を果たすのだから、あまり傷付けないでほしいのだが……」
いつものこととはいえ、時と場合を考えてほしいという思いと、指揮役としての責任から、そうやんわりと忠告したのだが……言わなければ良かった……。
ラサラス君は我を睨み、舌打ちをし、結局、一言も返さずそっぽを向いてしまった。
バツが悪い時の癖だとわかってはいても傷付きはするのだよ。多少なりとも。
殴られたムフリッド君に関しては全く心配しなかった。
奴はあれでも頑丈だ。痛そうなのもフリだけ。実際、すぐに奴の元気な大声が聞こえてきたよ。
ラサラス君はまたしても舌打ちしていたがね。
ムフリッド君には、逃走に長けた同胞を何人か引き連れてもらっている。中央で煽りに煽ったあと、南東側へ向かい、そこから反時計回りに動くよう指示した。
もちろん、最終的には南東側から脱出する予定だが――彼らはそう思わないことも計算のうちだ。
南東側の厩舎を最後にしたのもその一環。
違和感を覚える者もいるかもしれないが、ザイン殿曰く、「普段、接しておらん者ほど侮ってくれる」。ムフリッド君という見え見えの囮がそれをさらに助長させてくれるだろう。
とはいえ、油断はできない。中小商会から個人商店まで、同胞達が囚われている場所はまだまだいくつもある。
だから我らも動きたいところだが、彼らがムフリッド君らに対してどのように出るかによって今後のそれが変わる。
諦めるという選択肢は最初からない。
――獣人は同胞を見捨てないんだ――
ラサラス君が静かに叫んだあの言葉は、決して我らの結束を堅くするためだけの言葉ではない。
だからこそ、同胞達は誰一人、勝手に逃げ出さずに共にいる。
「……南西側の厩舎が救出完了であります。そのまま南側の厩舎に向かわせたであります」
「んむ。ムフリッド君らの方は――」
耳を澄ませる。
夜更け過ぎの静寂を裂く騒音は奴の大声のみだった。
「――釣れないか」
「釣れないでありますね」
どうやら、彼らはムフリッド君らを愚策な囮と認識したらしい。
……そろそろ、南東側へ動く時間か。
「――同胞達よ、待たせたな。囚われた同胞を根こそぎ救いに行くぞ」
我の言葉に、その場にいた全ての同胞達が首を縦に動かした。
他の二つの奴隷商からも販売先の記録簿は入手してある。
あとはただ、しらみ潰しにしていくだけだ。
南東側の厩舎へ向かい、ムフリッド君らと合流したところで、南側の厩舎が救出完了との報告を受けた。
南東側の同胞達を救出している間に南側と合流し、四百人ほどの集団となった我らは、北東側、北西側と次々に標的を襲撃して同胞を救出。その間に五つの食糧庫は燃え尽きたらしく、フォカッチャ王国軍が南西側の街門に集結しつつあるとの報せがもたらされる。
「……兵団長、いま一度確認するが……本当に良いのだな?」
「もちろんであります」
「そうか……」
北西側から、彼らが待ち受ける南西側へと移動している間に、兵団長と言葉を交わす。
おそらくこれが最後だと確信しながら。
「……悲しむ必要はないのであります。今日、この日の邂逅は幽霊に出会ったようなもの。明日、目覚めれば忘れているくらいでいいのであります」
「それでもだよ。それでも……一時の友のために悲しませてくれ」
いつか、同胞達に真実を話さなければならない日が来るだろう。
しかし、それはやはりいつかであって、今ではないのだ。
今はただ、一時の友らを背に駆けるしかない。
兵団長は別れる時まで笑っていた。
「――来たか、愚かなる獣共!! 囮が上手くいったように錯覚しているようだが、獣の浅知恵などお見通しよ! 獣に名乗る名などないが、冥土の土産に覚えて逝け!! 我はフォカッチャ王国騎士団団長アルフレ――」
「構え。撃てぇ!!」
「「「「――アクア・シェル!」」」」
「「「「天雷よ落ちろ!」」」」
「――ま、魔法だとぉ!!?」
「突撃ぃぃぃぃ!!!」
「「「「ウオオオオォォォォォォ!!!」」」」
獣人は基本的に魔法を使えないと彼らが理解しているからこそ、ケイン兵団による魔法の斉射が刺さる。
――しかし、それだけだ。
五百人に対してわずか七十一人で突撃するなど、無謀の一言でしかない。
だからこそ――我らは南西側の街門の前を素通りして南東側を目指す。
すでに潜入に長けた同胞は先行させていた。あの人数が南西側の街門に集結しているのなら、彼らがそこから出ると予想していたのは間違いない。苦も無く開けられるはずだ。
幼い同胞や弱っている同胞は戦闘奴隷とされた同胞に背負わせ、街中を一気に駆け抜ける。
ここからはどれだけ距離を稼げるかにかかっている。道中はほぼ飲まず食わずになるが、それでも走らせる。我らは五百人以上に膨れ上がったが、まともに戦えるのは四分の一ほどだ。略奪している余裕はない。
おそらく、途中で、南東部の領主達に我らを捕縛する命を伝える伝令役に追い抜かれるだろうが、それもあえて無視する。
夕方に領都フォカンツァを出たマックス殿が、ザイン殿と合流すれば、強力な助けを得られるからだ。
だから駆ける。
最後尾でただ走れと怒鳴り続ける。
――ワタシ達、ケイン兵団は、ブラッドハイド卿にここで死ぬまで戦えと命じられたであります――
少しだけ悲しそうにそう笑った、人間の友を背に。
――そして、背後の門は閉じられた。
数日後の深夜。
疲れ果てた同胞達が眠る中、我はなぜかよく眠れず、夜の散歩でもするかと起き上がった。
ここはすでにブリオッシュ王国の中だ。彼らはもう大っぴらには手出しできない。
明日からは、同胞達をそれぞれの帰る場所へ送り届ける仕事が始まる。
だから早く寝なければならないのだが……どうにも眠れなかった。
安心しきった顔で眠る同胞達の中を歩く。
「っ――君も眠れないのかね?」
その時、我以外に動く影が見え、話し相手にちょうど良いかと声をかけた。
影が止まり、少しして我に気付いたのか近づいてくる。
「――貴殿か」
影の正体はザイン殿だった。
ザイン殿とは、キコリオネ大森林沿いの街道を少し進んだところで合流した。マックス殿も共にいた。
もうすぐキコリオネ大森林の隠し道へと入れるというところで、キコリッティ侯爵領軍百五十人と遭遇し、戦闘へと突入した――が。
ザイン殿が出現させた黒い巨人がそのことごとくを粉砕し、すでに疲労困憊だった我らは特に戦うことなく危機を脱した。
キコリオネ大森林の隠し道はあの奴隷商人が作ったものらしく、キコリッティ侯爵ですら、存在は知っていても具体的なことは何も知らないらしい。だからそこに入れた時点で救出作戦の成功は確実と言っても過言ではなかった。
「実は我もよく眠れなくてね。良ければ少し話し相手になってくれないか?」
「ふむ、それは構わんが……まあ、ちょうどいいかもしれんな」
「? 何の話だね?」
「何、こちらの話だ」
少し歩こうか、と言うザイン殿に頷き、二人で夜闇の中を歩く。
「……まずは感謝を受け取ってほしい。ザイン殿のおかげで多くの同胞を救うことができた」
「俺は焚きつけて多少手助けしただけだ。成功させたのは貴殿ら獣人だ」
「いやいや、キコリッティ侯爵領軍と遭遇した時、ザイン殿がいなければ、百人近くの同胞達が再び奪われていただろう。王都フォカンツァからの救出が無事に成功したのは間違いなくザイン殿あってこそだよ」
「……まあ、そのくらいなら受け取っておくか」
「ぜひそうしてくれ。……ところで、王都フォカンツァからの追手がなかったことをどう見る?」
「キコリッティ侯爵は領軍の半数を出したが、フォカッチャ王国は本来、戦争準備中だ。兵を疲弊させるわけにはいかん。それに、近隣から獣人奴隷が全ていなくなった南東部と違い、王都フォカンツァの周囲にはまだまだ多くの獣人奴隷がいるはず。それらを集めればいいと考えたんだろうな」
「んむ……その同胞達は大丈夫だろうか……?」
同胞を残せば些細なことで鞭打たれるようになると言ったのはザイン殿だ。その不安をぶつけても構わないはずだ。
「いくら王の命とはいえ、数に限りのある獣人奴隷を容易に手放したくはないだろう。交渉はそれなりに長引くし、王が強権を発動すれば周囲との軋轢が生じる。どちらに転んでもフォカッチャ王国にとっては痛手だ」
「んむ……しかし、それだけでは――」
「まあ、急ぐな。今のはあくまで、時間が稼げるという話だ。その間に、キコリッティ侯爵領から噂が広がるはずだ」
「噂?」
「『獣人がいなくなったのは、彼らを奴隷として扱ったからだ』――そんな噂を流すよう、とある闇組織と取引してある」
「……それにどのような効力が?」
ザイン殿には言わなかったが、あまり意味のあることには思えなかった。
「いや何、ある亡国の王女がな、俺にこう叩きつけたんだ。『何よりも――失政を繰り返すような愚か者だと思われたことが腹立たしい』と」
「んぅむ……実に矜持ある言葉だな」
「俺は彼女を見くびっていたと反省し、同時に、矜持ある者は失敗を繰り返さないようにすると学んだ。故に、噂を聞いた矜持ある者達は、獣人を再び奴隷として扱うことに反対するだろう。たとえ彼らが少数だったとしても、彼らは彼らの矜持にかけて、その願いを声にし続ける」
「そうか……彼らの中にも、我と同じような者がいるのだな……。当たり前の話ではあるが」
いつの間にか野営地を離れ、人の営みなど皆無な大森林の中へと入っていた。
ザイン殿に合わせて歩いてきたが、こんなところに用があったのだろうか?
「――さて、ミルザム・フォイエン」
疑問を浮かべたその時、ザイン殿が改めるように我の名を呼んだ。
「これで貴殿は俺の依頼を完了させたことになる」
前方から茂みの揺れる音が近づいてくる。
それも複数――いや、数十もの数が。
しかし、我は慌てなかった。一言目で、ザイン殿がこれから何を話そうとしているかわかったからだ。
「故に、次は貴殿の願いを叶えるために俺が協力する番だが――貴殿も知っての通り、もうすぐベーグル王国は内戦に突入する」
やがて、森の奥から、マックス殿に連れられ、あの奴隷商人と傭兵のような恰好をした男達が五十人ほど現れた。
ザイン殿の足下――その少し先の影から何かがせり上がってくる。
数人分の死体だった。老いたものも若いものもある。そしてその全てに片腕が無かった。
「よって、貴殿への協力はその内戦が終わってからになるが――」
「んむ、それはもちろん、理解している」
ザイン殿が皆まで言う前に首肯する。
「――まあ、それほど長くはかからんはずだ。ベーグル王はフォカッチャ王国への逆侵攻はせず、フルザキ公爵領を平定した段階で停戦する腹積もりらしい」
「つまり、あくまで内戦という形で終わらせるわけだね」
「さすがにフォカッチャ王国まで併呑するのは俺も無理だと思っていた。妥当な判断だろう」
奴隷商人を筆頭に、男達が死体の周りに集まり、円形を形作る。
マックス殿だけが我らに並んだ。
「……彼らは流用しないのかね? ケイン兵団と同じように、捨て駒として使えると思うが」
「こいつらは完全に消えてこそ意味があるんだ。生きているか死んでいるかわからない曖昧な存在だからこそ、人はいつまでも追いかけ続ける。他の国で目撃されれば諦めるかもしれんし、死んだと思われれば言わずもがなだ。故に、ここに埋めておく。――棺桶」
彼らの周囲から影が空中に伸び、それはどんどんと半球を形成していく。
あの奴隷商人は、その完成直前に帽子を片手で軽く持ち上げ、「それではお先に失礼致します、閣下」と言って頭を下げた。
ザイン殿が前に伸ばした手をギュッと握ると、半球は一気に縮小し、中にある全てを圧し潰した。
「――杭――……杭、杭、杭………………」
次に、ザイン殿は同じ言葉を何度も執拗に繰り返した。そのたびに重低音が響く。
「ふむ……まあ、こんなものか」
影の半球が消え去った時、そこには深い穴だけが残されていた。その穴も、影から次々にせり出してきた土によって塞がれた。
「………………」
「多少は復讐したかったか?」
「……いや。たとえ彼らが多くの同胞を攫った奴隷狩りだとしても、我は復讐などしないよ。我の願いは、全てブリオッシュ王国を変えることに費やされている。そんなものに割く余地はないからな」
そうだ。
我がザイン殿に協力したのも、全てはブリオッシュ王国を変えるため。
我らの住む国は、完全には同胞達を受け入れてくれていない。
周囲の人々は同胞に同情的で優しいが、上を見るほどそれは無くなっていく。
冒険者も例外ではない。でなければ、「互助会」などという非公認クランを作るはずもないのだから。
「――我は、必ず、ブリオッシュ王国を変える。同胞達がその能力を認められない不当を正してみせる」
願いを声にする。
あの日――ザイン殿と出会った日に誓った願いを。
我の戦いは、その瞬間に始まった。
細かい話は活動報告にて。