33 想う強さの証明を(後)
敵は二千。
対して二人。
絶望的という言葉すらおこがましいほどの差を前に、だがソレイユもヒバリも退く気はなかった。
それは「神に選ばれし者」としてのプライドか、あるいは何も知らぬまま終われないという意地か、それとも――
「光武創製――ソード・ギガント!」
光輝く巨剣を創り出し、ソレイユは全力で振り下ろす。
「軍を前にして一歩も引かねえその度胸だきゃあ認めてやるよ! だがな――将に至った鬼の首は安くねえぞ! ラプラスの使徒!」
ホムラの全身を覆う外骨格に紅い亀裂が走り、四肢が太く大きくなっていく。
「おらあっ!」
そして巨大な炎腕が光輝く巨剣を受け止めた。光を集束させて創り出された巨剣は超高温に達している。だというのに爆散しないのは、対しているのも相当な高温だからか。
(先ほどよりも明らかに強いな……!)
原因は門が開かれたことか。それとも、鬼の軍が現れたことか。いずれにしても、勝利がさらに遠のいたことに変わりはない。
「この大きさじゃ振り下ろすだけで精一杯だろ?」
当然、その程度は見抜かれている。かといって別の手に変える余裕もない。ならば――いや、何も変わらない。自問するまでもなく、
(押し通すまで……!!)
「――お? おお? おおおぉぉ?」
ホムラの巨大な足がわずかに後ろへずり下がる。
「いやいやいや、膂力で鬼に押し勝つとか……てめえ、ホントにエルフか!?」
「正真正銘、エルフだが……!?」
「はっ、いいねえ! 燃えてきたあ!!」
興奮の発露か、ホムラの四肢が激しく燃え上がる。
「ぐぬぬ……!!」
「こんのお……!!」
一方、ソレイユとホムラの激突を合図に、鬼軍も動き出していた。ホムラの脇を抜け、ソレイユに迫らんとするそれらを、無数のチャクラムが弾き飛ばす。
「ソレイユったら、相変わらず後先考えないんだから、全くもう……」
だが、ヒバリのチャクラム同時操作限界数は約五百。二千もの敵を防ぐには足りない。渦巻くように回転させることで分断には成功したが、突破されるのは時間の問題だろう。ソレイユは一刻も早く押し切らなければならない。
(とはいえ、先程よりも明らかに――)
「ホムラさんにできることは、わたくしにもできることをお忘れですの?」
目の前の敵に集中したが故の思考の間隙を突き、チャクラムの波の向こう側で、フブキはホムラと同じ札を切った。
「っいけない……!」
気付いたヒバリは強引に回転速度を上げようとするが、それよりも早く、巨大な氷腕がチャクラムを蹴散らす。
もはや猶予はない。鬼の軍は我先にと迫っている。
一旦、退くか。
このまま押すか。
ソレイユは一瞬迷い、
「――!? ぐっ……!!」
ビキリッ、と右足に激痛が走った。
(ハンス・コーラに……やられた傷か……!!)
「ああん? んだよ、いきなり弱くなってんぞ!? ほらほら、どうしたあ!?」
「っ……まだまだぁ!!」
退くしかない。だが、敵に悟られてはいけない。何とか押し切らせなかったと一呼吸置かせるくらいでなければ。
たとえ、もはや痛み以外の感覚が右足に無くとも。
――地を叩く音が響いたのは、その瞬間のことだった。
全員がいっせいにその方向を見、一人を除いて驚愕に目を見開いた。
(((灰色の――波!?)))
然り。
将の采配を一糸乱れず忠実に実行する万軍がいれば、それを見た者は皆、波を幻視することだろう。すなわち、大津波を。
この時、一方はそれが敵か味方かを考え、もう一方は敵か第三勢力かを考えた。
答えは直後に示され、
「か――カペラちゃん!!」
(((カペラ……?)))
真っ先に動いたのはソレイユだった。
ここしかない、と本能が告げる。集中しろ、と己に命じる。これまでとはわけが違う。決して同じようにはいかない。試すのは初めてではないが、鍛錬と実戦では疲労度が全く異なるのだから。
まず、左の足先の角度を変える。
「ああ?」
迫る灰色の波を見てなお、緩むことのなかった敵の圧力が、わずかに抜けたことを感じ、ホムラはいぶかしげに視線を戻した。
「は……? っ!??」
だが、疑問が解消される間もなく、その巨大な手から硬質な感触が失われ――手の中の光輝く巨剣があっという間に巨盾へと変貌する様に、困惑はいよいよ極まった。
「――シールド・ギガント」
気付いてしまえば簡単なこと。「創製の光」で創り出した通常サイズの武具を別の武具に創り直せるならば、巨大な武具もまた創り直せてしかるべきである。その大きさ故に、かなりの集中を要するが。
その明らかに虚を突いた、しかして自らの身を隠すような動きに、はたから見ていたフブキがようやく「カペラ」という名の意味を察する。
「っ――いけませんわ! 総員、突撃に備えなさい!!」
そして、灰色の波が鬼軍に突っ込んだ。
莫大な数の人影は獣の如く鬼に襲いかかり、反撃を受けて何体も倒されながらも、だが確実に押していく。
フブキの警告はある意味では間に合っていた。直前とはいえ、確かに鬼軍は敵の突撃に対して備えられていた。
足りなかったのは敵への理解である。
敵が命無き者であると気付くまでに数拍の間を要してしまった――ただそれだけが致命的なミスとなって鬼軍を追い詰める。
命無き者が戦いにおいて、いかに己の身を顧みないか――いかに犠牲を惜しまないか、そんなことは言うまでもなく。
「ん、マニ姉、来たよ」
いつの間にか、二人のそばに無表情な狼系獣人の少女がVサイン片手にドヤ顔で立っていた。
褐色の肌、灰色の髪、緑色の瞳――すなわち風狼族。言わずもがな、カペラ・バートルである。
「ナイスタイミングよ!」
「ああ。実に良いところに来てくれた」
ヒバリが親指を立てて返し、ソレイユも続く。
(しかし……まさか、この獣人の少女が明王だったとは……)
ヒバリがその名を叫んだ瞬間は驚愕しかなかったが、味方が増えるという事実の前では、ソレイユもあらゆる疑問を呑み込む他なかった。たとえ、ヒバリからもザインからも事前に一切の説明がなかったとしても。
鬼と戦う灰色を見れば一目瞭然だった。数えることすら億劫なほど莫大な数がいながら、どれを見ても灰色一色で、全く同じ姿形をしている。何より、顔が無い。紛うことなき理不尽である。
「ん、雑兵の相手は任せて。大船に乗ったつもりで」
もはや灰色の波は完全に鬼軍を囲い込んでいる。だが、ホムラとフブキだけは無視され、結果、将と軍は完全に分断されていた。この二体だけは別格だと見たカペラの采配がピタリとハマりかけていた。
「――クソがっ!」
それに気付いたホムラがソレイユ達に背を向け、対処に動こうとするが、
「行かせないわよ!」
「チッ、この、邪魔を……!!」
ヒバリが残ったチャクラムで囲むように渦を形成し、行く手を阻む。
その一拍のためらい――大して傷付かないと理解しながらも、渦の中に突っ込む煩わしさを無視できなかったこと――目の前のわずかな障害を蹴散らすためだけに、踏み出さず炎の巨腕を振り上げたことは、ソレイユにとって明確な隙だった。
「――ソード・ギガントっ!!」
「っ!!?」
「ホムラさんっ!」
気付いたフブキが、防ごうと氷の巨腕を伸ばすが――届かない。
光輝く巨剣が迫る。チャクラムの渦ごと破壊せんと、無防備なホムラの背に向かって。
刹那、ギィンッ! と音が響いた。
何の音だ、とソレイユが疑問を浮かべるより早く、巨剣の上半分が右に吹き飛び、霧散する。
「――何かおもろいことしてるなぁ。うちも混ぜとぉくれやす」
「「「「「っ!?」」」」」
(いつの、間に……!)
マガツがそこにいた。ソレイユとホムラの間、チャクラムの渦に触れるか否かというギリギリの境に。だが、彼女が声を発するその瞬間まで、誰もがその存在に全く気付けなかった。
いったい、いつどうやって移動したのか。
ザインが足止めしていたはずではなかったのか。
(いや、そもそも、どんな手段で私の武具を破壊した……!?)
「光武創製――シールド・ツイン!」
追撃を警戒し、ソレイユは光輝く二枚の盾を創り出す。
だが、マガツはその場から動かず、ため息を一つこぼした。
「……あかん……あかんわ。そこで向かってきいひんのはあかん。敵を殺そうちゅう気概がなさ過ぎる。なぁ、あんた――」
呆れたように首を横に振り、マガツが一息で迫る。
「――何で戦場におるん?」
「くっ……! がっ!?」
確かに盾で防いだはずだというのに、衝撃が体を貫いた。
足が宙に浮く。
「ソレイユっ!? ――ヘヴンズ・ヘイロー!」
いくつものチャクラムを束ねた巨大チャクラムが背後からマガツを襲う。
「……ええ判断や。実力差がようわかってる。ただのチャクラムじゃ一歩すら止められへん、と。狙いも正確やし。――まあ、誤差やけど」
激しく回転する巨大チャクラムは、ついにその細腕にすら食い込めず、弾かれ、返す拳で地面に叩きつけられ砕かれた。
それでも、ソレイユが呼吸を整えるのには充分だ。
「……――ソード!!」
右の盾は霧散してしまったが、残ったもう一方を剣に変え、全力で斬りかかる。
「アハッ♪ そうそう、弱い奴はそうやって起死回生を狙わな――な!」
だが、マガツは半歩退いて悠々と避け、空振りして体勢を崩したソレイユに蹴りを放った。
「ナイフ! ごっ!!?」
「……今のはよかったわ。土壇場でいっぺんも見してへん手札を切るのんは意表を突けるし。まあ、二度目はあらへんけどな」
言いながら、マガツは右腕に刺さったナイフを引っこ抜き、ポイッと放り捨てた。
防御は間に合わないと判断し、ソレイユはとっさに剣をナイフに創り直して首を狙ったのだ。結果は右腕で防がれるに終わったが、かなり深々と刺さった感触はあった。だが、マガツの表情に変化はない。さすがは自称鬼神、この程度は問題にならないということか。
「助かったぜ、マガツ様!」
「ええで、ええで、この程度。……次はあらへんよ?」
「っ……!!」
「わかっておりますわ、マガツ様」
ビクリと固まって口をつぐんだホムラの代わりにフブキはそう頷くと、渦巻くチャクラムを蹴散らし、共に灰色へと突っ込んでいった。
そのことにはカペラもすぐに気付いたようだが、計算した結果、挟み撃ちによる損耗の方が上回ったのか、無理に妨害しようとはせず、軍と将が合流するに任せた。
それらを横目で確認し、マガツが再びソレイユとヒバリを見据える。
「――にしても、エルフのお嬢はんも翼人のお嬢はんも動揺してへんね? うちがここにおるのに、黒いお兄が死んだ思わへんの?」
「「思わないな(わね)」」
即答され、マガツの笑みが深くなる。
「へえ……? ずいぶんと信頼されてるんやな、黒いお兄は」
「……むしろ、お姉さんはあなたの方が逃げてきたんじゃないかって思うんだけれど」
「んー……まあ、半分くらいは当たってるかいな」
「あら、ずいぶんと素直に認めるのね?」
「半分くらい言うたやろ。……新手現れたら一旦様子見するのんは当然や」
「――つまり、貴様にとってもカペラの力は脅威に映るわけか」
ザインが突然、口を挟んでも、三者はピクリとも反応しない。当然、マガツからは走ってくるザインの姿が見えていたし、ソレイユとヒバリにはその足音が聞こえていたからだ。
「うちにとってはそうでもあらへん。そやけど、他の奴はちゃうさかい」
「まるで自分だけは傷付かんとでも思っている言い草だな」
ザインの言葉にマガツはコテンと首を傾げる。
「? 実際、そやで? あんたらなんかうちの相手にならへん。そやさかい、この体かて、わざわざ――あ、(しもた、今のは言うたらあかんことやったかも……)」
「…………」
「「???」」
「……ま、まあ、とにかく、うちは他の奴とは次元がちゃうちゅうこっちゃ。ほれ、遊んだるさかい、必死こいてかかってこいや」
笑みは深く、尊大で、絶対者の余裕を醸し出している。だというのに、ザインにはそれがどうにも「遊んでくれ」とねだる子どものように見えて仕方がない。
(まあ、内容は洒落にならんがな……)
いったい、どこの世界に殺し合いを遊びと宣う子どもがいるというのか。いや、あるいは、絶対者だからこそ子どもっぽさが抜け切らないのかもしれないが。
「――百手」
「なんや、それ、怖いなぁ。何されてまうんやろ?」
さて、どうするか――挑発に乗ったフリをしながら、脳裏でザインは考える。
マガツとの戦いは、一進一退ありながらも、わずかずつ追い詰めることができていた。故に、マガツが「半分は逃げてきたようなもの」と認めたのも嘘ではない。だが、残り半分の理由は嘘だとザインは確信していた。様子見と言い張るには、カペラの介入からホムラの救出までが早過ぎるからだ。将が欠けることを妙に恐れているような行動である。
仮に頷ける理由があるとすれば、鬼軍は一つにまとまっていたわけではない、といったところだろうか。命令系統が完全にわかれてしまっているのか、一体でも欠けると将が抱えられる数を大幅に超過してしまうのかは定かではないが、いずれにしても、この推測が正しいならば、一つの勝利条件が見えてくる。
(鬼主を守る――あの言葉には、戦略的な面もあったのかもしれんな)
カペラの介入は双方にとって大きな意味があったことになる。一方にとっては逆転への一手であり、もう一方にとっては窮地への一手だった。もちろん、ザインはカペラが来る可能性は高いと踏んでいたが、この一手がなければ、ソレイユとヒバリは遠からず敗北していただろう。逆に、地獄道にとっては、莫大な数を相手にしながら、暗殺の可能性を常に考えなければならない苦しい展開になったと言える。
「……ヒバリ」
「ええ。お姉さんが加勢に行くわ」
だが、虚軍と鬼軍の戦いは、後者に二体の将が合流したことで拮抗状態に陥っていた。いや、個々の戦力差を考えれば、虚軍が押し負けるようになるのも時間の問題だろう。
そして、ソレイユとヒバリにとっては、マガツよりもその後ろの戦況の方が注視すべきものだった。決してマガツを軽視しているわけではなかったが、半分とはいえ、あの異様な鬼を相手に優位に戦ったザインがそばにいることで、全体を見る余裕が生まれていたのだ。
(問題は、私が――…………っ)
はたと気付き、ソレイユはおののいた。
(今、何を考えた……? 無数の黒い手の猛攻を、戯れるように楽しむマガツを見て、いったい何を脳裏に浮かべた!!?)
――足手まといにならないかどうか。
あまりにも弱気な思考に、己への怒りで憤死しそうになる。確かにソレイユはザインに負けたことがあるし、未だ底の知れないマガツと差があるのも確かだろう。
だが、誰も、決して、ソレイユが弱いなどとは口にしていない。
ならば、己で己の価値を貶める必要などないではないか。
「光武創製――アロー」
光輝く矢を手にする。
ソレイユはいくつもの武術を習得してきたが、中でも特に熟練しているものは何か、と問われれば、迷いなく「弓術」と答えるだろう。それは、最も自信があるというだけでなく、最も古くから修練を積み重ねてきた武術であり、最も思い入れの深い武術だからである。それこそ、故郷が健在だったあの頃から。
「行け」
つがえ、端的に告げる。
マガツがチラリとソレイユを見た。その視線は駆け出すヒバリを追わず、今度はソレイユを無視することもなかった。
「へえ、次は二人がかりで遊んでくれるん?」
マガツの問いには誰も答えず、
「――壁」
その視線を黒い壁が遮る。
興が醒めた、とでも言いたげにマガツの眉間にしわが寄った。
「……そないにそのエルフが大事なん?」
「少なくとも貴様よりはな」
「アハッ♪ そないな言い方されたら、妬けてまうな」
そう笑ったマガツの顔が、次の瞬間、驚愕に染まった。わけがわからないという表情で、自身の右脇腹を見る。鈍く輝く矢が突き刺さっている。
次に、つい先ほど視線を遮った黒い壁を見た。わかりづらいが、丸く小さな穴が開いている。
今、その穴が一つ増え、同時に鈍く輝く矢が飛び出す。
「っ!?」
思わず、である。目の前に飛んできたそれを、マガツは手で打ち払ってしまった。いや、だからといって何ということもないのだが。その程度では決して隙など生じないし、間違いであるわけでもない。
ただ、くだらない奇策のために、何の脅威にもなり得ないものを打ち払ってしまったというその事実が、少々プライドを刺激しただけのこと。
(――おもろい……!)
自然と深い笑みが浮かぶ。
確かに、ソレイユの創る武具は目立つ。たとえどれだけ隙を突こうとも、死角からでない限り、その存在は容易に感知できるだろう。
だからといって、こんな手を使ってくるなどと想像できようか。
この喜びは、ザインとソレイユの二人を相手にしなければ味わえなかったもの。どれほどの金を積み上げようと味わえない極上の甘露である。
だからこそ――
(おもろい、んやけどなぁ……)
――残念でならない。
「光武創製――ジャベリン・ツイン」
自身を追っていた無数の黒い手が唐突に消え、間髪入れずに光輝く槍が飛んでくる。悠々と避ければ、頭上から黒い巨人の拳が迫る。
「――アロー」
飛び退いた先に魔力の矢。ギリギリで回避はしたが体勢が崩れた。
「杭!」
「光武創製――」
黒い杭が頬を浅く裂き、
「――モーニングスター・フレイル!!」
もはや余裕などなく、無理矢理横に跳ぶしかなかった。無様極まりない。プライドがジクジクと刺激される。
「斬!」
ついに一筋の影が自身を捉えるのを見た。視界いっぱいに黒いものが広がり――のけ反った先で角の先をかすめていく。
(強いなぁ……)
これほどの強者と戦えることは今後二度とないかもしれない。だが、身中の熱は急速に冷めていく。
「……ここまでやね」
「「……?」」
唐突に、目の前の敵からビリビリとひりつくような闘気を感じなくなり、ザインとソレイユは戸惑った。
「もう終わりなんやわぁ、あんたらの負けで」
「何を言って――」
「あの翼人、もう限界やさかい」
「何……?」
二人が視線を移せば、無数のチャクラムを操るヒバリの背が見える。どう見てもしっかりと立っている。限界などどこにも感じない。
チャクラムの群れは絶え間なく鬼軍に襲来し、その度に三体の鬼将は対処を迫られていた。指揮に集中したい鬼将達からすれば、この上なくうっとうしいことだろう。その間隙を突き、カペラの虚軍が鬼軍を押す。
ヒバリはまた魔力回復ポーションを一口飲み――指を鳴らした。全てのチャクラムが消え、またポーションを一口。頭上のチャクラムが凄まじい早さで分裂を始める。
そして。
唐突に。
その体がふらりと揺れ、そのまま力なく倒れた。
「ヒバリっ!?」
「ちっ――迷宮壁!」
実際のところは、互いに互いの役割を理解していたわけではない。分担する形になったのは偶然であり、単にそれぞれの目的を最優先させた結果だ。
だが、少なくともマガツには、ソレイユがなりふり構わず駆け出すのと、ザインが猛烈な勢いで黒い壁を乱立させ始めたのは、同時のように見えていた。
「貴様――何をした?」
「別に何も。ただ、量的にそろそろかな思ただけや。ほんまに倒れたのは偶然やで?」
「量……? ――っ! 過剰摂取か!」
至極当然の道理として、どんな薬も飲み過ぎれば毒になる。それがたとえ不可思議な原理で働くポーションの類であっても。
(となると……ちっ、確かに、敗戦は必至か)
ヒバリが戦闘不能に陥れば、当然、ソレイユとカペラは守ろうと動くだろう。ザインとしては、目的のためなら誰が犠牲になろうとも構わないが、唐突に死を迎えたスコッチ・チャンクの時とは状況が違う。一人で戦い続けたとしても、援助など見込めるはずもない。むしろ捨て置かれるのが落ちというもの。
脳裏に「撤退」の二文字がよぎる。
結論が出たのならば、あとは実行するだけだが――
「…………」
「?」
ジッと銀色の鬼を睨む。彼女との間に視線を遮る壁はない。ただ一度の攻防で、ザインはマガツの姿を見失うことの危険性を痛感していた。
視界の中のマガツは何もわかっていなさそうに首を傾げている。何もかも見透かしているような笑みのまま。
――問題は、敵がそれを許してくれるかどうか、だろう。
時間をわずかに巻き戻し――虚軍と鬼軍の戦いは、当初、前者が圧倒していた。
奇襲に近い形で突撃された鬼軍は、すぐさま態勢を整え、反撃しつつ後退。だが、想定よりも虚軍の攻撃は激しく、鬼主の座するほど近くまで押し込まれてしまう。屍鬼将であるヨミが最前線に出て強引に押し戻さなければ、いつ何時鬼主に攻撃が届いてもおかしくない状況に陥っていただろう。
とはいえ、ヨミが前線に長く留まるわけにもいかず、その後はジワリジワリと押される展開が続いていた。本来なら三体の鬼将がそれぞれの部隊を指揮するはずのところを、ヨミだけで何とかしていたのだから当然の結果である。
だが一方で、カペラは攻めあぐねてもいた。突撃の勢いに乗って相当な距離を押し込めたものの、たった一体の鬼にその勢いを殺されてしまった――莫大な数がいようとも突出した存在がいない虚軍では、そういった一点集中の作戦に対し、有効な対策が物量しかない。一度でも膠着してしまえば、あとは数を頼りにジワジワと押す他なかった。
そこへ、ホムラとフブキが突っ込んできたのである。
「――どけオラァ!!」
「落ち着きなさいな、ホムラさん。まずは合流が最優先ですわ」
マガツに釘を刺されたホムラは、目の前で蠢く灰色にその鬱憤をぶつけ、対照的にフブキは、届く範囲の灰色を潰しながらも、あくまで冷静に戦場を見ていた。
(ん? どうしてあのデカ鬼達が……? マニ姉とイユ姉は何を? やられるわけはない……不測の事態?)
当然、それはカペラにとって予想外のことだった。だが同時に、さほど慌てる必要はないことだと理解してもいた。
仮に、ヒバリとソレイユに不測の事態が起きたとして、その原因となりそうな存在はザインが戦っていた相手以外に考えにくい。
(巨人は消えてない……)
だが、黒い巨人の健在は一目瞭然。ザインは生きている。ならば加勢は必ず来る。
現状、虚軍ではホムラとフブキを止めることは難しい。いっそのことさっさと合流してもらった方が損耗は少ないだろう。
そのように考えたカペラは、敵将を誘導しつつ損耗を減らすため、ホムラとフブキの進行方向の虚軍をバレない程度に薄くした。
「クソッ! だいぶ減っちまってる……!! 鬼主様は無事か!?」
「後ろにはまだヨミさんがいましたもの、鬼主様に届かせるようなヘマはあり得ませんわ」
鬼軍と合流した二体は、カペラの予想通り、損耗を手早く確認し、それぞれ指揮へと戻っていった。そのさなか、偶然にもフブキの視線がカペラと合う。
「――あら、誰かと思えば臆病者の獣人ではありませんか。父親と同じ運命を辿りにきたのかしら?」
無意味なことは理解している。だが、その言葉はカペラにとって到底無視できるものではなかった。
「ん、パパの何を知ってる……!?」
「さあ? わたくしは何も。ただ、メビウス様から、獣人の少女が来たらそう煽れ、と言われただけですわ」
正確には、地獄道が、だが。まあ、そんなことは些事だ。わざわざ言う必要はない。今、フブキにとって重要なのは、新たな敵の脅威度を推し量ること。
「ん……パパは関係ない。マニ姉とチャンクおじさんが心配で来ただけ」
「なら残念だったな。第三明王はとっくにくたばったぜ。ま、ヤったのは第五明王だけどよ」
ホムラの言葉に、カペラは一瞬動揺を見せ、
「……でも、マニ姉は生きてる。なら生きてる人のために戦う」
(どうする、フブキ? 簡単にゃ折れそうにねえぜ)
(煽り耐性も高そうですし、厄介ですわね)
目と目で会話するホムラとフブキ。
(なら、その支柱を折りましょう)
(あ……? っ、なるほど、そりゃいい!)
「――ほお? たかがこの程度の力でか?」
「ん? パッと見、そっちは二千、こっちは一万。こっちの方が圧倒的」
「鬼は人の五倍強えんだよ」
「??? ん、戦争は数の多い方が有利。軍略の基本」
「それが通じないから、わたくし達は鬼と呼ばれているのですわ」
「ん、だとしても、そういう想定で戦えばいい」
「ただの虚像で勝つおつもりですの?」
「ん、余裕」
「「生意気だな(ですわね)、てめえ(あなた)……!」」
無自覚に煽り返され静かにキレたホムラとフブキは、頭上で指と指が絡むように巨大な両手を合わせる。少しずつその輪郭が薄れていき、そこには巨大な炎の塊と氷の塊だけが残った。
「「潰れろ(なさい)っ!!」」
これはマズいかも、と大戦斧に魔力を纏わせるカペラ。周囲の虚軍も構える。たとえ体格差、性能差があろうとも、数的有利があれば対処は可能だ。
ただし、
(――後ろの翼人がな!)
それは相手の狙いがわかっていればの話である。
明らかに後方へと逸れる二つの巨塊を見、カペラはハッと振り向いた。
「マニ姉っ!」
その時、ちょうどヒバリはカペラへの加勢に走っているところだった。翼が焼け落ち、飛ぶことができなくなっているヒバリには、回避する術など――
「ヘヴンズ・ヘイロー!」
「無駄ですわ! あなたの力では跳ね除けることすらできません!」
だが、なおも巨大なチャクラムは空を駆ける。
「――けれどそれは、お姉さんの力なら、でしょう?」
ついに二つの巨塊と激突し、
「メビウス・リンク・チャクラム!」
瞬間、ヒバリが指を鳴らした。巨大なチャクラムがその中心へ向かって収縮し、未来へと飛翔する。
自ら盾を手放すような行為に、ホムラとフブキは疑問符を浮かべ――直後、驚愕に染まった。
障害物が消えれば、二つの巨塊はそのままヒバリを圧し潰すはずだった。だというのになぜ――互いにぶつかり合い、対消滅しているのか。
「どういうことだ……!?」
当然、答える声はない。
理屈を言えば簡単なこと。軌道が内側へズレたのだ。
天道の力は、未来へと飛ばす際に空間ごと切り取っている。この時、接触しているものは例外なくそれに巻き込まれてしまう。二つの巨塊も、接触していたわずかな部分が引っ張られ、軌道が変わった結果、互いにぶつかり合った――とこういうわけである。
そして未来へ飛んだ巨大チャクラムが帰還し、再び複数のチャクラムへと分裂した。
「メビウス・リンク・チャクラム!」
ヒバリが指を鳴らす。ポーションを一口。チャクラムが無数に分裂し、帰還したチャクラムとともに鬼軍を急襲する。
虚軍の相手で精一杯の雑兵にとってはたまったものではない。
「クソが!!」
「うっとうしいですわね!」
「――!!」
三体の鬼将がことごとく叩き壊すが、対処に追われている間隙を突かれ、戦況が悪化する。
全て壊したと思ったのも束の間、再び指の鳴る音。それを二度も繰り返せば、否応なく実感させられる。
(ジリ貧じゃねえか……!)
(ん、これならいける)
――ヒバリが倒れたのは直後のことだった。
駆け出したソレイユの頭には、とにかくヒバリを守らなければ、という思いしかなかった。自身が攻撃される可能性すら考えず、ただ愚直にヒバリの元を目指し続けていた。
故に、そこで持てる力を揮おうとしたのも当然の帰結であるし、間違いなくそれは正しい判断だった。少なくとも、そのことを非難する資格は誰にもないし、また誰も非難しようとはしないだろう。
たとえ、それによって致命的な隙を晒していようとも。
逆に言えば、状況の悪化が連鎖していることに気付けたのだから。
「光武創せ――っ!?」
ドクンッ! と心臓が強く脈打つ。呼吸が荒くなる。
思いとは裏腹に足は止まり、一歩すら踏み出すことができない。
(何、だ……!?)
苦しい。
苦しい。
胸が痛い。
息がしづらい。
知らずに右手が服の左胸を握り締める。
散り散りになりそうな意識を必死にかき集め――原因を考え――ハッと気付き、ソレイユはふらふらと空を見上げた。
(――陽が……!)
いつの間にか、すでに周囲は橙に染まりかけていた。
光を集束させて武具を創り出す「創製の光」は、陽の傾きの影響を顕著に受ける。まして巨大なものをともなれば計り知れない。通常サイズで違和感がなかったために、気付くのが遅れたのだ。
集束速度を緩めれば楽にはなったものの、巨大な盾の創製は遅々として進まなかった。もはや乱立する黒い壁に追い抜かれるほど。
「――――――シールド……ギガント!」
完成するまでに永遠にも思えるような時間を過ごしたのは言うまでもない。何しろ、親友の命がかかっている。
もちろん、居場所はバレバレだが、あえて囮にすることもできるし、敵にそう思わせて惑わすこともできる――などと、そんな言い訳まで考える余裕はソレイユにはなかった。ただ一心に、親友を守りたいがための行動だった。
(……これで……。――いや……何を……! 何をやっているんだ、私は……!!)
そこでようやくソレイユは、自身がどこで何をしていて、どれほど致命的な隙を晒したかを自覚できたのである。
一気に自戒の念が湧きあがり、そんな余裕はどこにもないと必死に振り払って、親友の名を必死に呼ぶ。
「ヒバリっ――ヒバリっ!」
「――――――」
だが返事はない。
口は動いているのに声が聞こえない。
だというのに、頭上で輝く魔力の輪は分裂しようとし続けている。
(どうすればいい……!? どうすれば――!?)
どれだけ自問しようとも、結論は一つしかなかった。
大きく息を吸い込み、その名を叫ぶ以外に選択肢などないのだ。
その直前、カペラは迷いの中にいた。
戦況そのものにさほど変化はない。虚軍は徐々にではあるが鬼軍をさらに押している。
だが、目の前の光景が悪い未来を予感させて仕方がない。まるで大黒柱に亀裂を見つけた時のように。
今、虚軍の一体が頭上から降ってきたものに切り裂かれ、消滅した。
だからこそカペラは混乱を隠せない。その原因が敵の攻撃ではないからだ。
「ったく、何だってんだよ、突然!?」
「厄介とは思っていましたが、これは想定外過ぎますわ……!」
故に、混乱は鬼側も同じだった。指揮に集中する余裕などなく、ホムラとフブキは対処に追われている。
先ほどまでのそれらは、まだ意思があった。注意を惹こうとする意思、妨害しようとする意思、隙あらば傷付けようとする意思が。
だが、もはやそれらには何も感じない。ただ支離滅裂と言っていいほどに空中を乱れ飛び、敵味方を問わず切り裂いている。無数のそれらが近くを駆けるたび、雑兵は体を強張らせ、鬼将は何としても破壊しようと躍起になる。
もはや正体は明らかだろう。
そう――チャクラムである。
だが、ヒバリに確認しに行く余裕はなく、大声で尋ねるわけにもいかない。そのために、何か意図がある可能性を捨て切れない。
故に、
「――――ザインザード!! どうすればいい!!?」
何か悪いことが起こった、とカペラがようやく察知できたのは、ソレイユの痛切な叫びが戦場を切り裂いたからだった。
「っ! マニ姉……!?」
「あらまあ、大切なお姉さんが大変みたいですわよ?」
「煽ってねえで手を動かせ、フブキ! 大変なのはアタシらも一緒だ!」
どうするべきか、と己に問い、カペラはすぐさま次の行動を決定した。
虚軍を退かせ、防衛戦に移行すべきだ――と。
そのためには陣地が必要だった。敵の攻撃をものともしない、堅牢かつ柔軟な陣地が。
(ん……使える)
視線の先には乱立する壁があった。
戦場のもう一方にもソレイユの痛切な叫びは届いていた。
視線が切れる。
「反応はなくとも意識はあるはずだ! とにかく魔力の――」
「余所見とは余裕やなぁ?」
「――くっ、杭! 鎧! 壁!」
当然、そんな隙を黙って見逃すほどマガツは甘くない。杭を出しながら飛び退いて強引に間合いを取り、中身のない鎧を作り、一瞬だけ壁を出して別々に走り出し、それでようやくわずかな時間を稼ぐ。
「っ――――魔力の消費をやめさせろそれで多少はマシになるあとは安静にしておくしかない!!」
その時間も、一気呵成に情報を伝えるだけで消費し切ってしまう。
「まさかどっちもぱちもんで、ほんまもんは壁の裏やなんて、ほんまにおもろいな、黒いお兄は」
声の出どころで騙されたことを察したマガツが一直線にザインへと迫る。
悪手? ――いいや、それすら罠として利用するなら話は別だ。
マガツがその手のひらで壁に触れるか触れないかというその刹那、
「――縛!」
「あら?」
ギィンッ! という音より早く、マガツの足下――正確には進もうとする先の地面――から影の縄が出で、
(こらあかん、避けられへん……!)
その小柄な体を締め上げた。
「百手!」
その上からさらに、斬り裂かれた壁の上半分を吹き飛ばして無数の黒い手が降り注ぐ。
壁が消えた向こうには、右肘を前に構えたザイン。
「杭打!!」
そこから伸びた杭が、マガツの胸を突き破り、背面から飛び出た。
「――――今のはほんまに危なかったわぁ……」
「ちっ……!」
渾身の攻撃が致命傷を与えられなかったと理解するには、その言葉だけで充分だった。
「いや、実際、鬼将やったら今ので殺せとった思うで?」
ギチギチと、マガツを抑える縄や手が悲鳴を上げる。
「そやけど、肺に穴空いた程度で死ねるほど、この体は脆ないねん」
ついにその一部が弾け飛び、目の前の頭にマガツの手が伸びる。
機敏にそれを察知し、杭を引っ込めると同時に、ザインは力任せに右腕を振り払った。
「っと……。うん……ええわ」
危なげなく着地したマガツは、軽く服の乱れを直すと、胸にぽっかりと空いた風穴を愛おしそうに撫でる。
「……それで、一つ質問なんやけど――黒いお兄の影……さっきより強度落ちてるんとちゃう?」
「っ……!」
ザインの表情が初めて明確に歪んだ。
そしてソレイユは静かに語りかける。
「聞こえたな、ヒバリ? 魔力の消費をやめるのだ」
でも――と、ヒバリの唇が動く。
わかっている。
当然、ソレイユもわかっている。
安静にしていろということは、もう戦うなということに等しい。
こんな中途半端なところで脱落するのは悔しいだろう。
だが、ヒバリはもはやポーションを握ることすらできていない。もはや瓶に触れているのは痙攣する指先だけ。
その戦闘力の生命線が、ただただ無意味にこぼれ落ちていく。
「……ヒバリ。今から私は、残酷なことを言うぞ。……チャクラムの動きがおかしくなっている。もう、どう動かしたらいいかわからないのだろう? どう動くかわからないのなら――あのチャクラムは、邪魔だ。――私達が生き残るために、魔力の消費をやめてくれ」
「――っ! ――っ!? ――っ!!」
ヒバリの唇が、声にならない嘆きを紡ぐ。
「――――っっ!!?!!!」
「………………」
ソレイユはもう何も言わなかった。
心を引き裂くような静寂の後、戦場を不規則に飛び交うチャクラムは次々と消えていった。
かくして死闘は決着へと向かう。
虚軍の後退は迅速だった。鬼将達が戸惑うほどに動きは素早く、狙いに気付いた時には、その大部分が乱立する黒い壁の向こうだった。迅速過ぎたせいで、ソレイユは一時、極度の緊張を強いられたが――とにかく、防衛戦への移行は順調に進んだのである。
だが、そこまでだった。
虚軍の動きから、敵の一人が危急の状態に陥ったと察した鬼将達は、これまでの苦戦を逆転させて再現するかのように包囲戦を展開する。
もちろん、カペラは完全に包囲される前に撤退しようと考えたが――マガツがそれを許さなかった。執拗にザインを狙いつつ、乱立する黒い壁からわずかでも外に出た灰色の人影を容赦なく潰し続けた。
沈みかけた陽は容赦なく「創製の光」と「異端の影」から力を奪い、巨大な武具は夢と消え、影の巨人は幻と化した。
(ん……囮……ダメ。あの銀色の鬼は、この陣から出てきたものは全部潰す気。……陣地の移動……ダメ。今、ザインザード・ブラッドハイドにそんな余裕はない。この陣を維持するだけでも大変なはず。……イユ姉を加勢に……ダメ。あの三体の鬼がいる。カペラだけじゃ戦線を維持できない。…………詰ん、だ……?)
いいや、まだ戦うことはできる。
だが、所詮は悪あがきでしかない。
もはや敗北は必至だろう。
死までの時間が少しばかり長くなるだけだ。
(――諦めない……! 諦めてなるものか――――!!!)
たとえそうだとしても、と光剣が舞う。
完成された力を持つ「神に選ばれし者」に、都合の良い覚醒などありはしない。
故に、この結末は必然であった。
もう何度目になるかわからない攻撃を受け、地面を転がる。
もはや痛み以外の感覚がない腕を無理矢理振るい、体勢を立て直す。
「いい加減、諦めてくださいません?」
そこに、声と共に氷塊が襲いかかり、再び地面を転がった。
「ぐっ……!」
何とか立ち上がろうと腕に力を込めるが、支えきれずに崩れ落ちてしまう。
ヒバリは回復しないまま。
灰色の人影は、すでに数百体まで減っている。
「ふわぁぁ……。何や、やっと終わったん?」
銀色の鬼が退屈そうにあくびをした。
その下には、まるで戦利品のようにザインが敷かれていて、もはやピクリとも動かない。
最後の数舜、「異端の影」は明らかに脆く、壁も鎧も雑兵が振るう拳だけで容易く壊された。
「光武、創製……!」
キーワードを唱えても、光は遅々として集まらず――
(…………。ここまで……か……)
諦めが心を蝕んでいく。
――陽は沈み、陰が世界を支配する。
手中のわずかな光が消えた。
もう「創製の光」は使えない――そう認識した瞬間、凄まじい疲労感が襲ってくる。
同時に感じた眠気に抗えず、ソレイユの意識は闇へと沈んでいった。
――――――――。
――――杭。
「「「「は……???」」」」
呆然としたいくつもの声に、意識が上へと引っ張られる。
「縛」
「しまっ――!」
焦ったような誰かの声に、重いまぶたを開く。
目に映ったのは、黒い靴。そしてそこから伸びる足を追えば、ボロボロの姿で立つ男のシルエットがあった。
どさり――と、何かが倒れる音。
「……フ、ブキ…………?」
また、誰かの呆然とした声。理解不能な事態に直面したような――
それでも、ソレイユの瞳は男から動かない。
一心に見つめて離れない。
「「「――バカな……」」」
誰ともなしに呟かれたその声は、誰のものだったのだろうか。
地面が隆起していく。
同時に襲ってきた奇妙な悪寒に、ソレイユは高揚を感じていた。
「――くっはははっ、全く、知識の足らん者は本当に騙しやすい……!」
見たい。
衝動が、ソレイユの中を駆け巡る。
この悪魔が、何をするのか、見たい。
だから――
全身が鈍く痛む。
右足が酷く痛い。
それがどうした?
倒れたままでは見づらいから――再び立ち上がるのに、それ以上の理由は必要ない。
たとえ、次に映るのが別の絶望だとしても。
憧れが戦う姿を見ないまま死ぬのはごめんだ。
――もちろん、未来に生きる者からすれば自明の理だろう。だが、この時代、人々はまだ大地が丸いことを知らなかった。
そのため、「夜とは何か?」と問われれば、「太陽が沈んでいる時間のこと」と答える者がほとんどで、「太陽が沈むのはなぜか?」という問いには、神話的な解釈しか返ってこない。
だが、未来に生きる者は、太陽が沈むという現象が――正確に言えば逆だが――足下に広がる恐ろしく巨大な球体の反対側を照らす位置に移動したに過ぎないと知っている。
ならば、ある一つの理には誰もが頷くはずだ。
夜とは、すなわち影。
星の影である、と――
故に、侮ったな? と悪魔は嗤う。
「さあ――覚悟はいいか? そしてせいぜい足掻け」
影の巨人は再び屹立した。
ゆっくりと、頭上へ掲げるようにその腕が動き、軌跡に残像が生じる。だが、それはまるで本当に別の腕があるかのようで――
「あかん――鬼主を守れ!」
何かを悟ったマガツが叫んだ。その身を縛る縄は堅く、渾身の力を込めてなお、わずかしか緩まない。
我に返った鬼達は、我先にと鬼主の前に身を投げ出し、
「――百手巨人」
直後、黒い嵐が降り注いだ。
衝撃が幾重にも重なる。
大地が悲鳴を上げる。
(ああ……これが、ザインザードの切り札か……!!)
グラグラと視界が揺れる。ただでさえぼんやりとした意識が混乱し、夢か現かわからない。
ゾッとするような悪寒と、内から湧き上がる高揚と、陶酔にも似た感動と、そしてどこまでも落ちていくような絶望。ソレイユの心はめちゃくちゃで、それらをどう吐き出せばいいのかわからず、やがて混沌とした凪になった。
なれるだろうか? と誰かが問う。
(――――いいや、無理だ。私はあんな風にはなれない)
では諦めるか?
(それはない。「創製の光」と「異端の影」は同等だ。あんな風にはなれなくとも、対抗するだけの力が私にはあるはずだ)
ならば覗け。
答えは己の内にしかない。
(――考えろ……私には何が足りない……?)
黒い嵐は焼け野原を蹂躙し続けた。
敵が全て滅ぶまで――視界から動く者が消えるまで。
過ぎ去ったあと、そこにはただ静寂だけが――
「――いいや、まだだ!!」
吠えたのは紅い鬼だった。
いくつかの炎塊が飛び、巨拳の一振りでかき消される。
「力を使え! ヨミ!」
「――鬼主様、願い、叶える」
積み重なった鬼の死体から、むくりと一体が起き上がった。
「斬」
その首を、ザインは容赦なく刎ね飛ばす。
(やはり、少々、乱雑に過ぎるな……)
百手巨人は確かに凄まじく強力な攻撃手段だ。だが、いかんせん、その巨大さと手数の多さ故に、どうしても大雑把になってしまうという欠点がある。有象無象であれば問題にはならないが、「神に選ばれし者」といった強力な敵が相手ともなれば、取り逃してしまうこともあり得るだろう。そういった不確実性を排除するには、あえて別の攻撃手段を用いるしかない。もちろん、非常に疲れるから、という理由もあるが。
一瞬、星明かりに照らされ、左半分の骨がむき出しの非常に端正な顔が見えた。
黒い線は夜闇に溶け、彼女は迫る死に恐怖することなく逝けただろう。
(いや……あの屍鬼にそのような感情が残っているとは限らんか……)
首のなくなった肉体からおびただしい量の血が噴き出した。
死体に。
土に。
門に。
鬼主に。
それがべちゃりと赤を付けた。
「………………」
「ふむ……」
貴重な手駒をまた一つ失ったというのに、鬼主の表情はわずかも変じない。車椅子に深く腰掛けたまま、透き通った微笑みを浮かべるだけ。
どこか薄ら寒いものを感じつつも、気にするほどのことでもないか、と無視し、ザインは巨人の拳を振り下ろす。
「ぁ――」
グシャッ、という鈍い音とともに、紅い鬼将は呆気なくその命を散らした。
(……これであとは、)
ずるり……、と。
(マガツを抑え続けられれば――)
「?」
思考に違和感が差し込んだ。
無視すべきか否かを考え、次に無視できるか否かを考え、数舜の後に、ザインはどちらも否と結論付けた。
夜闇に目を凝らし、一つひとつを確認していく。
つい今しがた潰した鬼にも、最初に串刺しにした鬼にも生きた気配はない。
鬼主は変わらず動かないまま。
刎ね飛ばした首の行方はわからないが、残ったそれ以外に動いた形跡はない。
マガツは未だ「異端の影」の手中にある。
(とすれば、残るは――)
「――――」
一瞬、思考が停止した。
積み重なった死体の山――そのてっぺんに一本の腕が突き出ている。それだけならザインも死体の一部と無視しただろう。だが、それは何かを探すようにせわしなく左右に動いていた。
「…………」
一瞬のためらいもなく、巨人が拳を振り下ろす。
死体の山が一部崩れ、底からにじみ出る血の海がわずかに広がった。
正体が死に損なった雑兵ならば、今ので確実にトドメを刺せたはずだ。
「……!?」
だが、腕は再び現れた。巨拳で塞がれた部分を避けつつ、死体と死体の隙間から突き出て、再び何かを探すようにせわしなく左右に動いている。
一つ異なる点を挙げるとすれば、先程よりも明らかに長く太いことか。
それはやがて死体を一つつかむと、中へと引きずり込みながら消えた。
「なるほど……」
考えるまでもなく、正体は一つしかない。
巨人が拳を振るい、死体の山をめちゃくちゃに吹き飛ばす。その下に、二回り以上大きな鬼がうずくまっていた。
黒い髪に、女性のようなシルエットの鎧――もとい外骨格。たとえ、その額に大きな角がなかろうと、それが鬼であることに疑いの余地はない。見覚えのある非常に端正な顔立ちと、左半分は骨がむき出しの顔面が、何者であるかを強烈に主張していた。
「――屍鬼将ヨミ、と言ったか」
バキバキボリボリと、骨の砕ける音がいくつも響く。
喰っているのだ。おそらくは屍鬼を。
血の染み込んだ土くれすらが、それらとなって。
「意識の分裂による擬似分身……確かに奥の手と言うべき強力な力だが――貴様、もう戻れんぞ」
「「「よミ、オにヌシさマ、マモる」」」
ザインの指摘に、全てのヨミが奇妙な発音で答えた。
同時に、不思議な響きをもって声が木霊する。
「――鬼神、招請」
「残った眼もくれてやったか……」
何もかもを捧げたその肉体が震えている。何かを耐えるように――あるいは、何かを解き放とうとするかのように。
「――あ……あ、あ、あ、あ――――アアアアアアアアアアアアァァァァァァァァッ!!」
地獄の底から響くような叫び、の後。
まず、その額から大きな白い角が三本生えた。
失われたはずの四肢が生え、脱力し、ゆるりと立ち上がる。
「アー……アアー……」
眼球の失われた両目がザインを捉えた。
「――。ァァァァアアアアアアアアAhhhhhhhhhhhhhhhh――――ッ!!」
狂声を上げながら、鬼となった地獄道が迫る。
幾体にも増え、巨大化したヨミが襲い来る。
「――だから何だ?」
それでも、ザインザード・ブラッドハイドは揺るがない。
「AhhhhhhhhhhhhhhhhOhhhhhhhhhhhhhhh――――ッ!!」
「ああ、そうだな、想いの深さはよくわかる」
無数の巨腕があらゆるものを蹂躙していく。
「何かを想う強さ――そういうものがあると、俺も信じている口だ」
何度立ち上がろうと届かない。
ついに黒い縄を引き千切ったマガツが加わってなお、影の巨人は止められない。
「故に断言しよう。想いがなければ勝てん戦いがあるように、想いがあっても勝てん戦いがあると」
完成された力を持つ「神に選ばれし者」に、都合の良い覚醒などありはしない。
「貴様らはさっさと俺を殺すべきだった。勝利が欲しいなら、すべきことを徹底しろ」
故に、この結末は必然である。
「最初から死力を尽くさなかった時点で――貴様の負けだ、地獄道」
「Ahhhhhhhh――! AhhhhWhhhhOhhhhAhhhhhhhhOhhhhhhhhhhhhッッ!!!」
どこか言葉のようにも聞こえる狂声を残響に、黒い嵐は抗う全てを滅ぼした。
正直なところを言えば、地獄道との出会いはメビウスにとってあまり愉快な話ではない。ある初秋の早朝、大寺院の前に捨て置かれていた赤子――それが彼だからだ。
両足が無いのは生まれつきのようだった。冬を前に、育てられるほどの余裕もなく、かといって命を奪うほどの非情さも持てなかったからこその、捨てるという選択。大寺院前に捨て置いたのは、神たるメビウスに許してもらいたかったのか、あるいは憐れに思った誰かの慈悲に一縷の望みをかけた行いだったのか。今となっては知るよしもないが、彼は結局、気紛れでメビウスに拾われることとなった。
そんな彼が明王の力を与えられたのも、実のところメビウスの気紛れである。いや、気紛れと言うよりも、必要に迫られてと言うべきかもしれないが。
結論を言えば、メビウスに子育ての経験などなかったのだ。早々に挫折し――だが、誰かに助けを求めることは、神としての立場と矜持が許さず――赤子に明王の力を与えたのである。
これが幸であったか不幸であったかは、もはや当の本人にしかわからないことだろう。
メビウスの権能――「宿命逆抗」は、願いを叶えるための力を与える。
赤子というのは、とかく生きようとする意志の塊だ。本人の努力次第でその願いを叶えられるようにするのだから、赤子が生きるための力が発現するに違いないと確信しての行為だった。赤子である以上、そう大した努力も求められまい――とも考えていた。
そして実際、そのもくろみは上手くいった。
否、上手くいき過ぎた。
いったい何をどこでどう間違えたのか、と当時のメビウスは頭を抱えたものである。
何しろ、突然、虚空から女が現れたと思ったら、それは左顔面の骨がむき出しで、知識に照らし合わせれば、屍鬼と呼ばれる化け物以外の何物でもない。さらには、赤子をあやしつつ、当然と言うような顔で「あれはどこだ」「これを用意しろ」と指図してくる始末。神としてのプライドを以って断れば、ついにはアイアンクローである。
だが、メビウスは寛容だった。畏れ多くも神に対してそれほどまでに求めるのなら、と自ら奥院より下り、あっという間に必要なものを全て用意してみせたのだ。決して、想像以上に痛かったアイアンクローを恐れてのことではない。
ともかく、そうして赤子はすくすくと成長し――やがて、常に透明な微笑みを浮かべる凡庸な青年が狂信者の列に加わることになる。
彼は常に敬虔な狂信者だった。メビウスのみを神と崇め、その教義を絶対視し、最も近しく最も忠実な明王として振る舞った。
だが同時に、成長するにつれて、メビウスには見えない何かと話していることも増えていった。そのことを彼は隠そうとしなかったし、メビウスもメビウスで、気付いていることは伝えつつ、何も訊く気はないとも話した。少なくとも、ヨミと名乗った屍鬼は地獄道のことを大切にしているように感じていたからだ。
因果が逆であることなど、最初の数か月でメビウスは理解していた。明王の力を与えた結果、鬼との縁ができたのではなく――鬼との縁が深い赤子に明王の力を与えてしまったのだと。
時が経つとともに赤子と屍鬼の関係性は変わっていった。最初の頃、母と子のようだった二人は、ある時を境に姉と弟のようになり、またある時を境に恋人同士のようになった。
仮に、地獄道に家族がいるとすれば、きっとその中にメビウスは含まれていない。だが、それで良い、それが良いのだ――とメビウスは笑うだろう。
そこにもはやかつての面影は微塵も残っていなかった。
林は焼かれ、地は爆散し、黒い嵐に蹂躙された。
一時は一万と二千の軍が殺し合っていた戦場――そこに立つ者は、影の巨人と黒髪金眼の男、数十の灰色の人影と獣人の少女だけ。
「――アハッ……♪」
――いいや、もう一体、銀色の鬼が笑っていた。
その姿は倒れないのがおかしいほどボロボロで、顔面には亀裂すら入っている。
だが、笑みは失われない。
「……あかん、負けてもうたわ。鬼主も死んでもうたし、門も崩壊寸前――もう勝ち目あらへんなぁ……」
大量のヒビが入った門をぼんやりと眺め、負けを認めてなお、マガツは心底楽しそうに笑顔を浮かべ続ける。
「ああ……そやけど楽しかったわ……!!」
そして、ただ一言に万感を込めた。
三体の鬼将も地獄道も死に、奇妙な色合いの門は崩壊寸前だというのに、この自称鬼神は全く堪えていない。
最初から最後まで――地獄道の力の中で、この銀色の鬼だけが異常だった。
いったい、この少女は何者なのか――
誰かがそれを問う前に、ついに門が崩壊する。
同時に、マガツの姿も塵となって消え失せた。
「ほな、黒いお兄――また遊ぼな」
他の死体は残る中、その言葉だけを残して。
「…………くはは――」
フッ、と黒い巨人が消え、限界を迎えたザインはその場に倒れ込む。
「――二度目など、あってたまるか……!!」
細かい話は活動報告にて。