海辺の令嬢
なだらかな丘に、少女がいた。
俺は丘の下の道を歩いている。往来はそれなりにあるのだが、少女は下界に目もくれず海の彼方に顔を向けている。
遠目からでも儚い雰囲気が伝わる、華奢な骨格。上品な白のロングワンピース、ふんわりした黒髪は滑らかに光を反射している。レースのついた日傘で顔形は窺えない。
俺は彼女が気にかかり、顔を上げたまま歩いた。時折躓きそうになりながら、注意を向ける。
横殴りの強風が吹く。日傘が膨らみ、彼女の手から離れた。ころころと丘を転がり、俺の前に落ちてくる。なるべく紳士的に手を伸ばし傘を拾う。
「ごめんなさい、大丈夫ですか?」
ゆっくりと少女が丘を下ってきた。羞恥を含んだようにミルク色の頬を染め、俺を案じるような上目遣いが庇護欲をそそる。十代後半の花開いたばかりの美しさ。初々しい。
凛とした声と、物腰の落ち着きから上流階級の匂いを感じた。
「俺は大丈夫。今日は風が強いですね」
少女は口元に手を当て、微笑んだ。
「失礼。ご旅行の方かと思いましたの。嵐の日はこんなものではすみませんから」
地元の人間か。俺の人相はまだ伝わっていないようだ。慎重を期して話を切り上げる。
「そうなんですね。俺は行商で初めて来ました。急かされて大変ですよ」
後ろでフェイリスが牛乳缶を満載した荷車を引いている。途中で仕事を請け負った。嘘ではない。
「ご苦労様です。サンマリノペリーロは良い街ですよ。きっとお気に召しますわ。ではごきげんよう」
優雅に一礼し、少女は去っていった。彼女の姿が視界から消えると、フードを被ったフェイリスに話しかける。
「おい、見たか。令嬢だ令嬢。ごきげんようだって。育ちがいいんだろうな」
「そんなことどうでもいいから手伝ってください! 重いです」
俺の興奮をよそにフェイリスは目くじらを立てた。
今日は左手がやけにひきつる。でも段々よくなってきた。フェイリスを手伝って、先を急いだ。
白塗りの家屋が並ぶ丘が見えてくる。群青の海と好対称を成していた。
サンマリノピエーロは帝国で一位、二位を争う港を有する。観光地としても有名だ。
船を使えば遠くに逃げられるだろう。
市場で牛乳を下ろし、わずかな金と少しの暇ができた。暇ができるとろくな考えが浮かばない。
売店の新聞が目に入る。魔物の襲撃、百名余りが死傷。もし、獣王の証が奴らを呼んだとしたら。いや悪いのはあの方だ。
金時計は本当に見つかるのか。あったとしても無実の証明になるかどうか。
この広い海から一粒の砂金を見つけるようなものじゃないか。そんなの……
「スミス!」
フェイリスが心配そうに俺の手を掴んでいる。
「なんだ……、どうした」
「どうしたじゃないです。スミスぼーっとしてました。顔色もよくないですし」
「心配するな。飯でも食うか。好きなもの頼めよ。到着祝いだ」
弱気を誤魔化すために言ったのだが、フェイリスは真に受けた。
「ほんとですか! 人間になったら食べたいものいっぱいあったんですよ」
明るく子供めいた笑顔と、おせっかい。塞いだ気分が紛れた。
地元の小さな料理屋に入った。テーブル数も少ない。安ければいいという算段だが、話が違う。
メニューを開いてすぐ逃げ出したくなった。物価たっか! そういえば牛乳も高く感じた。なにが良い街だ、あの令嬢。俺の財布がごきげんようしちゃうだろ。
「肉肉、お肉が良いですねー。料理名だけじゃわかりづらいので全部頼んでみますか。すみませーん」
やはり物価を理解していない。しかも肉! やはり獣の本能に忠実か。飽き足らなくなって人間を食べたくなったら事だ。諭す。
「肉じゃなくてもおいしいものはたくさんあるんだ。試してみないか」
「それもそうですね。ではスミスが頼んだの半分こしましょう。分けあうって恋人っぽくないですか。えへへ、楽しみです」
屈託のない顔に、忌まわしい物価を忘れられた。
肉と物価問題にケリをつけた俺たちは、宿を探す。
「部屋は別々でいいな」
「なんでですか! スミスと同じ部屋がいいです」
腕を絡め、離すまいとしてくる。どこまでも柔らかい二の腕と、胸の弾力が俺を襲う。狭い谷間に腕が飲み込まれる。
こいつ、俺を食う気か。肉をすする気なのか。
危機感を覚えたが、フェイリスはダブルベッドに倒れ込み、すぐ寝入った。横向けで丸くなるのは猫っぽい。しっぽが床に垂れて力が抜けている。よほど疲れたのか無防備だ。
窓から暮れゆく海と港が見下ろせる。
洒落た花型のランプシェードなど、部屋の調度も依然とは比較にならないほど高価だ。
宿泊費も高い。忍から借りた金が底をつくくらいには。