09 鎮魂
やがて神に嫁ぎ、この地を守る巫女となる。
それが嫌だと思ったことはありませんでした。
ですがあの日、あの人に出会い、私は恋に落ちてしまいました。
会いたくてたまらず、触れていたくてたまらず、ただ共にいることが幸せでした。
彼が村にいる間だけ、私が神に嫁ぐまでの間だけ。
そう自分に言い聞かせていたものの、彼が共に行こうと誘ってくれた時、私は断ることができませんでした。
神の怒りに、村が苦しめられるかもしれない。
私の代わりに、妹が神に差し出されるかもしれない。
何もかもわかっていたけれど、私は、どうしても彼とともに生きたかったのです。
村に連れ戻され、目の前で夫と子を殺され。
悪霊に堕ちた妹と戦うため、男に力を与えよと言われ。
私は、そうなって初めて、己が犯した罪の重さに気が付きました──
※ ※ ※
「……罪、ではない」
意識を取り戻した村長の独白に、玲は優しい声で告げた。
「そなたは、ただ……好いた男と幸せに生きたかった、それだけであろう?」
「私は、水の乙女……巫女、ですよ?」
玲の言葉に、村長は消えそうな声で答えた。
「あなたも、でしょう?」
「……そうじゃな」
「神に逆らうことを、罪ではないという……巫女とは思えぬ、その言葉……あなたは、何者なのでしょう」
玲は何も答えなかった。
だが村長は、玲を責めたわけではなかった。硬くなった玲の顔を見て微笑み、言葉を続けた。
「私は、恋をしてしまいました……甘くて、苦くて、とても幸せな、恋を……」
どんな責め苦にあっても、恋した男を思い出せば幸せになれたから。
あの恋は幸せだったと、その思いだけは変わらなかったから。
「ああ、だから神は……私を許してくれなかったのですね」
「そう、かも知れんの」
「それでも私は……あの幸せを味わえてよかったと……思います」
村長の目から、一滴の涙がこぼれ落ちた。
「妹にも……この幸せを、味わってほしかった……」
「恋をすると人は変わるのか。妹御にそう尋ねられたよ」
「なんと、答えました?」
「……恋を知らぬゆえ、答えられぬ、と」
その答えに、村長は静かに玲を見つめ。
小さくうなずいて、目を閉じた。
「では、私から……答えておきましょう」
「うむ」
「ですが、妹は……私に会ってくれるでしょうか」
「大丈夫じゃよ。姉を恨んでごめんなさいと、謝っておった。きっと会ってくれる」
「謝るのは……私の方なのに……妹には、つらい思いを、させてしまいました……」
その言葉を最後に。
村長は、静かに息を引き取った。
◇ ◇ ◇
多々良は、地面に大の字で寝転び、目を閉じていた。
「多々良殿、大丈夫かの?」
「うむ」
歩み寄った玲が声をかけると、多々良は力強く答え、目を開けた。
「ケガは?」
「ふむ。これといってない、と思うがな」
玲はしゃがむと、多々良の体を改めた。確かにケガらしいケガはしていなかった。
「神を相手にしてほぼ無傷とは……頑丈な男じゃのう」
「それだけが取り柄でね。巫女殿こそ、右腕は?」
「少し痛むが……平気じゃよ」
「それはよかった」
「起き上がれそうか?」
「うむ、無理だな」
玲の問いに、多々良は笑った。
「さすがに精魂尽き果てた。指一本動かん。ま、一眠りすれば戻ると思うがな」
「でたらめな男じゃのう。神を素手で投げ飛ばした御仁など、初めて会うたぞ」
「なにせ美しい巫女殿の祈りを受けていたからな。力も沸くというものだ」
「……軽口がたたけるのなら、心配無用じゃな」
玲はあきれた顔になり、ぺしっ、と多々良の額を軽く叩いた。
「村長殿は……逝かれたか」
「……うむ」
「そうか」
ふう、と多々良は大きな息をついた。
「無力だな、俺は」
独白というには大きな声だった。
だが、多々良は返事など求めてはいない、と玲は感じた。
何も言わず、懐から出した手ぬぐいに瓢箪の中身を含ませ、玲はそれを多々良の額に置いた。
「おう、これは気持ちいいな」
「一眠りするがよい。朝まではもう少しあるでな」
玲は静かに立ち上がった。
「どうするのだ?」
「妾は巫女ゆえな。巫女にできることを、するまでじゃ」
痛めた右手で扇を広げ、左手には瓢箪を持ち、玲は村の中央に立った。
「神も人も……ともに安らかに眠らんことを」
祈りを捧げ、玲がゆるりと舞い始めた。
神に弄ばれた巫女の魂を。
悪霊と化した少女と戦い、滅ぼされた村人たちを。
そして元凶となった神を。
その全ての魂を鎮めんとする、美しく優しい舞だった。
(これは……)
その舞は、戦いに高ぶり、精魂尽きた多々良の心も鎮めていった。
(いかん……眠くなって、きた……)
今は眠れと、玲の舞が誘う。その抗いがたい誘いに多々良の目が半分閉じた時。
りん、と鈴が鳴り。
その場の空気が変わった。
(なん……だ……)
これと同じ光景をどこかで見たような、と思った。
(俺は、この光景を……知って……る?)
まぶたが鉛のように重くなり、開けていられなくなった。
まぶたが閉じるにつれ、思考が鈍っていく。
何か大切なことを思い出そうとしている気がするのだが、考えることができなくなっていった。
そして。
りん、と涼やかに鈴が鳴ると同時に。
多々良はまぶたを閉じて眠りに落ち。
大地に生まれたかすかな光が、蛍のように一斉に舞い上がった。