10 かつて戦場にて(完)
──もう昔のことだった。
宵闇に沈む戦場で、一人の巫女が舞っていた。
扇を手に、ゆるり、ふわりと、荒ぶる全てを鎮める優しい舞は、まさに天女の舞だった。
男は、ここが戦場であることも忘れ、その美しく優しい舞に見入った。
あの巫女は何者なのか。
どうしてこんな場所で舞っているのか。
その疑問はとうに男の頭から消え、ただ静かに舞を見守った。
(なんだ?)
舞が佳境に入り、りん、と鈴が鳴った。
その場の空気が変わっていく。
怒り、悲しみ、恨み。そういったものが解きほぐされ、鎮められ、やがて横たわる死者の体から、かすかに光る何かが浮かんだ。
りん、と涼やかに鈴が鳴り。
光が一斉に舞い上がった。
(おお……)
まるで蛍の群舞だった。
いや、もっと美しく、儚く、切ない。ただ見ているだけで心が鎮められていく。
男がこれまでに見てきた、どんなものよりも美しい光景に、全てを忘れて見とれてしまった。
「お行き」
鈴の音に似た声が告げると、光は渦を巻き、はるか空へと飛んで行った。
死者の国へ、行くべき場所へ、行ったのか。
そう思うと男は安堵した。悲惨な負け戦であったが、ともに戦った者たちが──敵も含めて──こうして送られたことに、男は心から感謝した。
(とはいえ)
一人行きそびれたか、と男はため息をついた。頑丈すぎる体も考えものだな、と静かに笑う。
「……え?」
舞を終え、立ち去ろうとしていた巫女が、男に気づいた。
慌てて巫女が駆け寄ってきた。「大丈夫か?」と声をかけられたが、男の喉はすっかりかれていて、声が出なかった。
「待っておれ」
巫女がしゃがみ、男の頭を抱きかかえた。
持っていた小さな瓢箪から、椀に水を注ぎ、そっと男の口に当てがった。
まろやかな口当たりの水が静かに流れ込んでくる。必死で一口飲み下すと、とたんに男の意識がはっきりしてきた。
(なんと)
巫女を見て、男は驚いた。
あどけなさの残る顔をした、乙女と言っていい年頃の巫女だった。
いくら巫女とはいえ、こんな乙女がなぜ一人で戦場にいるのだろうか。
「君は、いったい……」
男の声が聞こえなかったか、それとも答えたくないのか。
巫女はかすかに笑い、男の体を改めた。
「ひどいケガではないか」
巫女は行李から薬箱を取り出すと、できる限りの手当てをしてくれた。
その手の動きは、やや拙い。知識はあるが慣れてはいない、といったところか。思いの外深い男の傷を見て一瞬ひるみ、しかし、まなじりをあげて手当を続けた。
「……すまぬの」
巫女の目から涙がこぼれていた。ほおを伝い、ぽたり、ぽたりと涙が落ちてくる。
「妾のせいなのじゃ……妾が……この大戦を引き起こしてしもうた……」
「君……が?」
「すまぬ……すまぬ……」
涙を流しながら、巫女は何度も謝った。
だが、巫女が何故に泣くのか、男にはさっぱりわからなかった。
「泣いて、くれるな」
男は痛みをこらえて手を伸ばし、巫女の美しい髪をなでた。
「君は、俺を助けてくれた。感謝こそすれ、怒る理由はない」
巫女は小さくうなずき、涙を拭った。
男の手当てが終わったのは、空がうっすらと白み始めた頃だった。
「すまぬの。妾はもう、行かねばならぬ」
巫女は行李を背負い立ち上がった。
「そなたの神が、そなたを守ってくれんことを、お祈り申し上げる」
「俺に、神などおらぬよ」
巫女の言葉に、男はそう答えた。
「だが、約束しよう。俺は必ず生き残る。心配せず、旅立たれるがよい」
胸を張ってほしい。
君は今夜、間違いなく一人の男を救ったのだ。
男がそう告げると、巫女は驚いた顔になった。
そして、止まったはずの涙が、またその目からあふれた。
「……ありがとう」
震える声でつぶやき、袖で涙を拭うと、巫女はようやく乙女らしい笑顔を浮かべた。
「どうか、達者での」
「うむ。巫女殿もな」
行李を背負い、一人戦場を歩いて行く巫女。
何故に、一人で行くのか。
一体どこへ、一人で行くのか。
「……この恩は、必ず返しに行く」
その姿を見送りながら、男は誓った。
決して死ねぬ理由ができた。
何としても生き残ると、己を奮い立たせ、男は折れた剣を杖代わりに立ち上がった。
◇ ◇ ◇
──それから数年が経ち。
名もなき兵士の慰霊のため、美酒が入った瓢箪を手に、戦場を渡る巫女の噂が広がった。
どこから来て、どこへ行くのか、その名すらわからぬ巫女のことを。
人々は、瓢箪の巫女、と呼んだ。