01 泉の天女
夜明け前の森の中、剣を抱えて眠る男がいた。
名は多々良。
旅の剣士、と言えば聞こえはよいが、要するに傭兵だ。大きな体はやたらと頑丈で、腕っ節も相当に強い。武骨ではあるがそこそこの色男。唯一にして最大の欠点は、参加した陣営がたいてい負ける側になる、ということだろう。
「……うん?」
うつらうつらとしていた多々良が、不意に目を開けた。
まだ陽は昇っておらず、森は闇に満ちていた。だが空はうっすらと白み始めている。もうしばらく待てば夜が開ける、そんな時間のようだ。
(どういう……ことだ?)
多々良はそろりと姿勢を整え、剣を手に周囲を伺った。
山の空気が一変していた。
昨日夕方、山に足を踏み入れた時に感じたよくない気配を感じない。あれだけ濃密だった気配が、うたた寝の間に消え去っていた。
この急激な変わりよう、何かがあったとしか考えられない。
(さて、何があった?)
多々良は眠気を振り払うと、気を引き締め、剣を手に立ち上がった。
※ ※ ※
「悪霊が住み着いている山が、何やらうごめいていまして。様子を見てきてくれませんか」
旅の途中、身を休めるために立ち寄った村。そこの村長でもある巫女にそう頼まれた。
一宿一飯どころかすでに三日も滞在し、村人の食い扶持を横取りしていた身だ。否も応もなかった。
「それはかまわないが。よそ者が行っても平気なのか?」
その山はかつて神域だったという。そういう場所は、よそ者が入るのを嫌うことが多いはず。
だが村長は「かまいません」と艶然と笑った。
「もう何十年も人が立ち入っていない場所です。よそ者も何もないでしょう」
それに村には、腕に覚えのある若者がいないという。男と言えば、まるで枯れ木のような、生気のない老人ばかりだった。
「若者は、みんな戦に駆り出されてしまいまして」
「そうか。わかった、では行ってこよう」
※ ※ ※
(はてさて)
悪霊が住み着いている山、多々良はそう聞いていた。昨日足を踏み入れた時は、その気配に「さもありなん」とうなずいた。
だが、一夜にして様相が変わった。
もしも今日この山に入っていたら、「悪霊なんているのか?」と首を傾げたに違いない。
(確か、山の中腹にある泉に、社があると言っていたな)
何十年も人が訪れなかった参道は、ほぼ獣道となっていた。多々良は鞘に入れたままの剣で草木をかき分けつつ、慎重に歩みを進めた。
しばらく進むと、二つの道が合流する場所に出た。
「ふむ」
別の道、おそらく山の反対側へと通じている道を見て、多々良は険しい顔になった。
ごく最近、何者かが通ったと思われる跡が見えた。
その何者かは、どうやら泉へと向かったらしい。
(山の気配が変わったことと、無関係ではない……な)
さて何者か。
「悪霊を使う呪術師、とかでなければよいが……」
多々良は足音をなるだけ消し、慎重に山道を登った。
夜が明け、空が明るくなっていく。それにつれて、森の中の闇も消えていく。
やがて多々良は、視界の先にやや開けたところを認めた。
どうやらそこが、社のある泉らしい、
「さぁて、何が出るかな?」
多々良は猛々しい笑みを浮かべ、鞘を払った。
多々良は気配を殺して、ゆっくりと泉に近づいた。
うかつにのぞき込んでばったり目が合ってはまずいと考え、多々良は大木の影に隠れたまま耳を澄ませた。
パシャリ、と水音が聞こえた。
一度ではなく、二度、三度と聞こえてきた。
獣の気配ではない。
誰か人がいるのは間違いない。水浴びでもしているのだろうかと、多々良は相手を確かめるため、慎重に大木の陰から顔を出した。
多々良が顔を出すと同時に、山の向こうから太陽も顔を出した。
差し込んだ光に目がくらみ、しかしすぐに慣れて、多々良は息を飲んだ。
泉のほとりに、一糸もまとわぬ女が立っているのが見えた。
太陽の光が水面できらきらと踊って跳ね返り、まるで光に包まれているようだった。
手をかざして眩しそうに空を見上げるその横顔には、無防備な笑顔が浮かんでいる。白い肌に映える美しい黒髪が印象的で、その透き通るような美しさは、とてもこの世のものとは思えなかった。
「なんと!?」
多々良はその美しさに心を奪われ、気が付けば立ち上がり叫んでいた。
その声に驚いたのだろう。バシャリ、と大きな水音がして、女が慌てて両手で体を隠して振り向いた。
「まさか……天女殿の水浴び中、か!?」
振り向いた女の引きつった顔には気づかぬまま。
多々良は、夢見心地で、そんなことを叫んでいた。