魔王の本当の願い
恐い話ではなく、悲しい恋の話です。
世界の果てにある深い闇に覆われた不気味な城。ここは世界を恐怖に貶める魔物達の住処で、それらを統べるのは若き女性の魔王だ。彼女は、城の最上階にある自室のベッドで横になっていた。右手に掲げたペンダントのクリスタル部分が、天井のランプの光を受けて七色に輝く。そこに映り込む彼女の顔は悲しげで、魔王としての威厳は何処にもなかった。そこに映るのは、ただの恋をした女性だった。
***
幼い頃、魔王は人里離れた深い森の中に一人で暮らしていた。人族とは関わるなと、母にずっと言われて来た為ここから離れた事はなかった。その母は、もう既に病気で他界していた。
ある日、魔王が部屋の掃除をしていた時、尖った耳に子供の声が流れ込んで来た。滅多にこの場所には誰かが訪れる事はなかったので、魔王は興味津々に窓の外を覗いた。木々の向こうに、数人の人族の子供が歩いているのが見えた。ふざけ合ったりして、とても楽しそうに見えた。魔王も、その中に混じりたいと思った。しかし、窓に映る自分の姿を見て深い溜め息をつき、諦めた。
(人族にはこんな角はない。耳も尖ってない。私は魔族なんだわ)
魔族――――人族とは異なる、禍々しい魔力を持った種族。人族の中にもごく稀に魔力を持ち操る者もいるが、魔族はそれとは比べ物にならないぐらいの莫大な量の魔力を行使する。街一つ破壊するのも造作もない事で、沢山集えば世界すらも滅ぼす事が出来るという。しかし、そんな脅威となる存在を人族が見過ごす筈もなく、魔族は次々と人族によって虐殺されていった。魔族は破壊する事を快楽としている為、当然の結果だった。彼女は、その唯一の生き残りだった。
魔王は窓に背を向け、掃除を再開した。
それから、特に変わった事もなく月日は流れていった。今も魔王の頭には、あの日の人族の子供達が居た。忘れようとするが、その度に気持ちが高ぶった。――――あの子達とお話がしてみたい――――そんな想いが胸を強く締め付けた。
(私にこんな角さえなければ。私の耳が尖っていなければ)
窓に映る魔王はこんなにも人族に近い姿形をしているのに、その二つだけが彼女を人族だと言う事を否定する。魔王は悔しかった。たったそれだけの違い。確かに、魔力量は人族よりも遥かに多い。けれど、それが何だと言うのだろう。魔王はベッドの隅で膝を抱え、そこに顔を埋めた。
薄暗い部屋に、今日も太陽の光が差し込む事はなかった。
翌朝目が覚めた魔王は、自分の頬に涙の跡がある事に気が付いた。どうやら、眠りながら泣いていた様だった。そんな自分自身を、魔王は心の中で嘲り笑った。
所詮、自分の望むものは叶わぬ夢。それを望めば望むだけ、惨めな気持ちになる事など知っている筈なのに。やはり、幼い魔王には割り切る事の出来ない事だった。
今日も、魔王の頭の中には人族の子供達が居る。何故か、昨日よりもその姿は鮮明になっていた。子供達の髪型、服装、声……目にした、耳にした、全てのものが一つ一つハッキリしていた。その中で、魔王の心を動かすものがあった。それは女の子が被っていた帽子。造花の装飾が付いたふんわりとした、可愛らしい大きな鍔の帽子だ。それ自体には興味はなかったが、魔王はある事を思いついた。
(そうだ。私も帽子を被れば、角を隠せるわ)
簡単な事だったが、今まで思いつかなかった。外へ出る事すら殆どなかった為、帽子を被ると言う習慣がなかったのだ。
魔王は早速、帽子を取りに部屋の奥へ歩いていった。部屋の隅のタンスの一番上の引き出しを背伸びして開け、そこから臙脂色のベレー帽を取り出した。これは生前、母が毎日の様に被っていた物だ。母の形見として大切に保管をしていたが、まさかこんな形で使う事になるとは魔王自身思ってもみなかった。
魔王は姿見の前に立ち、ベレー帽をしっかりと被った。血の様な色の角はしっかり隠れ、尖った耳は銀色の長い横髪で隠した。魔王は、その場でくるりと回ってみせた。帽子と同色の膝丈のワンピースがふんわりと翻る。魔王は再度鏡を見て微笑んだ。
(何処からどう見ても、私は人族。これなら、皆とお話が出来るわ)
魔王は期待に胸を躍らせ、茶色いショートブーツを履いて村へ出掛けて行った。
初めて見る人族達の集落に、魔王は驚いた。家々が立ち並び、露店も沢山あった。村の中は人族達で溢れていて、楽しそうな話し声が絶え間なく聞こえて来た。魔王は新鮮な野菜が並ぶ露店の横を通り過ぎて、村のど真ん中に位置する広場に向かった。
時々、魔王の姿を見て気にする者は居た。しかし、皆、すぐに視線を逸らし気に留める事はなかった。
魔王はホッと胸を撫で下ろし、広場の真ん中に集まる子供達の輪に近付いた。そこには、この前家の中から見た少年、少女の姿もあった。魔王は高鳴る胸を両手で押さえ、必死に声を絞り出そうとした。
「あ、あの……」
その声と気配に気が付き、一番後ろに居た少年が魔王の方へ振り返った。それと同時に突風が吹き、魔王のベレー帽が宙を舞った。風で乱れた銀髪から尖った耳が覗き、隠していた角が露になってしまった。それを一番に目撃した少年は叫んだ。その叫びに、他の子供達も魔王に注目をして騒ぎ始めた。
魔王の顔は青褪め、彼女は一歩ずつ後ろへ下がっていった。
「わ……私は…………ち、違うの……」
魔王の震えて縮こまった声は誰の心にも届く事はなく、ただ皆、彼女が魔族だと言う事に恐れを抱いていた。
やがて騒ぎは大きくなり、村中から人が集まって来た。魔王の姿を見た大人達は言う。
「魔族だ」
「生き残りがいたのか」
「まだ子供……」
「しかし、始末しなくては」
いつの間にか、魔王は大人達に囲まれていた。大人達は険しい顔で凶器を握り締め、一人が魔王に向かって石を投げ付けた事を発端に、次々と魔王に襲いかかった。石をぶつけられ、桑で殴られ、足で蹴られ……逃れる術を持たなかった魔王は身を縮めて必死に耐えた。
(痛い……痛いよ……何で皆こんな事するの? もうやめてよ)
魔王の金色の瞳から涙が溢れ落ちた。身体が、心が、崩壊寸前だった。意識も朦朧とし始めていた。このまま人族に殺されてしまうのだろうと、魔王は生きる事を諦めた。そして、魔王は瞼を固く閉ざし意識を手放そうとした――――その時、何処か温かい光が瞼の向こうに舞い降りて来た。
「皆、やめて下さい! 彼女が死んでしまいます!」
魔王が瞼を開けると、そこには少年が立って居た。他の人族よりも質素な格好の茶髪の少年。少年は翠玉の瞳を鋭くし、魔王に背を向けて両腕を広げていた。
少年のその言動は村人達から反感を買い、標的はすぐに少年へと変わりつつあった。そうなる前に少年は素早く行動し、魔王を抱き起こして手を引き、包囲の輪から抜け出した。村人達は怒り狂い、少年と魔王の後を追い掛ける。
魔王は後ろを振り返り、今にもまた泣き出しそうな顔で少年の後ろ姿を見つめた。少年は何も言わず足も止めず、ただ前へと進む。
村の外まで来ると村人達は追い掛けて来なくなり、少年は走る速度を緩めて歩き出した。
「もう大丈夫だからね」
少年はそう言って、魔王の手を離さない。
魔王は俯き、ただ少年に連れられていく。あんな事があった後だ。いくら命を救われたからといって、すぐに笑顔になれる筈もなかった。もしかしたら、この少年にもっと酷い目に遭わされるかもしれない……そんな嫌な予感だけが魔王の心を支配していた。
会話をする事なく歩き、辿り着いた先は丘の上。眺めの良いこの場所には、一軒の小さな家が建っていた。少年は、そこへ魔王を招き入れた。
家の中は入ってすぐの大きな部屋と、風呂場と手洗い場だけで、誰も居なかった。どうやら、少年の家の様だった。
少年は魔王を窓際の古びたベッドに座らせ、隣の棚から木の箱を持って来て彼女の足下にしゃがんだ。少年は箱の蓋を開け、そこに詰まっていた薄緑色のクリーム状の物を少量手に取って魔王の傷だらけの足に塗りつけた。
「――――っ!」
魔王の足に激痛が走った。魔王は涙を浮かべ、足を引っ込めようとした。それに気が付いた少年は、優しい笑みを浮かべた。
「大丈夫だよ。最初は痛いかもしれないけど、これを塗ればすぐに傷は治るから。薬草を煎じて作った塗り薬だよ」
少年は、今度は魔王の腕に塗り薬を塗っていく。その度に激痛が走り、魔王は逃げ出したくなった。まだ脳裏に、村人達の狂気に満ちた顔が浮かび上がる。少年の優しい笑顔でさえもそれと重なって見え、魔王は怖くなった。
薬を塗り終え、少年は木箱を元の場所へ戻して魔王の隣に座った。魔王には俯いたまま。少年が手を伸ばすと、魔王は声を上げて泣き始めた。
困った少年は、懸命に声を掛ける。
「大丈夫だよ」
「もう怖くないよ」と。
けれど、魔王の心には届かない。魔王は泣き続けた。
少年は腰を持ち上げ、足早に木箱をしまった棚の方へ向かった。そして、小さな鍵を手に持って一番上の引き出しの鍵穴に差し込み、引き出しを開いた。そこに手を突っ込み、ある物を掴み取った。
少年はある物を握り締めたまま、魔王の前に立った。
「これを見て」
魔王は泣き止み、フッと顔を上げた。
「……綺麗!」
魔王の目の前に出された少年の右手からは、クリスタルの付いたペンダントが垂れ下がっていた。クリスタルが窓から差し込む陽光を受け、七色に輝いていた。
少年はクリスタルよりも眩しい魔王の笑顔に少し頬を赤く染め、ペンダントを魔王の両手の上にそっと落とした。
「それ、キミにあげる」
「え? いいの?」
魔王は手の中のペンダントを見つめた。
少年は笑顔で頷く。
「僕の母さんの形見なんだけど、僕は使わないし……このまま引き出しにしまっておくよりも、キミが身に付けてくれていた方が母さんも喜ぶんじゃないかな」
「そっか。お母さんの……。あなたもお母さんが死んじゃったのね」
「あなたも……って、キミもなの?」
「うん。数年前に、病気で死んじゃった。それから、私はずっと一人だったの」
「それは寂しかったね。僕も一人だったから、キミの気持ちすごく分かるよ」
性別や種族を超え、二人は同じ年齢と境遇という事だけで仲良くなった。二人は日が落ちるまで、会話を楽しんだ。
すっかり暗くなった夜道を魔王は一人進み、明かりの灯った家を振り返った。少年が手を振ってくれている。
「また遊びに来てね」
「うん!」
魔王は笑顔で手を振り返し、歩き出した。首から下げたペンダントを揺らしながら。
ところが、それを最後に魔王と少年が会う事はなかった。
***
コンコン。
ノックの音がし、魔王は上半身を起こして扉の方を見た。
「何だ?」
「勇者一行が城へ攻めて来ました!」
扉の向こうから聞こえて来る部下の声に、魔王は眉を顰めた。
「そうか。では、わらわも準備をしよう」
魔王はベッドから下り、クローゼットから漆黒のドレスを取り出して肌着の上に纏った。首には先程手に握っていたペンダントを付け、壁に立て掛けていた先端に水晶の付いた木の杖を手に取った。
魔王は床に着く程の長い美しい銀髪とドレスを靡かせ、部屋を出て行った。
魔王が謁見の間へ足を踏み入れると、既にそこには倒された部下と、彼らを倒したであろう勇者と魔法使いの少女が立って居た。
“一行”と呼ぶには人数があまりに少ない。魔王は、自分の部下達がこの二人の仲間を倒してくれたのだと思った。
魔王は王座の前に立ち、口角を上げて二人を見下ろした。
「ほぉ。生き残ったのはおぬしらだけか」
その言葉で勇者は先の仲間達の最期を思い出し、顔を強ばらせて震えた。魔王にとって、それは滑稽だった。魔王は笑みを崩さない。
「すぐに仲間達のもとへと連れていってやろうぞ」
少女がビクッと震え、勇者は翠玉の瞳を鋭くして少女の前に出て長剣を構えた。
「そうはさせない!」
「威勢だけは褒めてやろう……だが、」
魔王は杖を掲げ、呪文を唱えた。すると、禍々しい光が少女を包み、一瞬にして少女を石へと変えた。勇者は後ろを振り返り、目を見開く。
――――遅かった――――勇者は唇を噛み締め、長剣を握り締めた。怒りの矛先はそう、魔王だ。
「お前……許さない!」
「安心しろ。その少女は元に戻る。ただし、わらわを倒せたら……だがな」
魔王は憫笑し、余計に腹を立てた勇者は一気に魔王の懐へと攻め込む。
魔王の強力な魔法に苦戦をしながらも、勇者は確実に魔王を追い詰めていった。
そして――――
勇者は、仰向けになった魔王の胸に剣を突き立てる。
「これで終わりだ。魔王」
魔王は抵抗せず、その言葉を受け入れた様に瞳を閉じた。
(あなたに殺されるのなら私は……)
しかし、魔王に死は訪れなかった。
魔王は瞼を開け、金色の瞳に映った勇者の姿に驚いた。勇者の顔は悲しみと驚きに満ちており、手の力が抜けかけていた。今にも崩れそうな姿だった。
「何故、お前がそのペンダントを……」
魔王の胸元で、ペンダントのクリスタル部分が七色の光を放っていた。
魔王は顔を横へ向け、微かに微笑んだ。
勇者は思い出した。幼い頃の魔族の少女との思い出を。たった一日だけ過ごしただけだったが、今でも大切な思い出の一部だった。今思えば、何故「魔王」と聞いて、あの時の少女を思い出さなかったのか。何故、その二つを結びつける事が出来なかったのか。何故、魔王を見た瞬間に気が付かなかったのか。勇者は激しく後悔をした。
「俺は何をしているんだ……俺の倒すべき相手はこの人では…………」
「わらわに止めを刺さなければ、お前の大切な女は一生石のままだぞ?」
魔王が囁く様にそう溢し、勇者は翠玉の瞳に涙を浮かべた。
(そうだ……俺は彼女をずっと護るって決めたんだ。魔物に殺された彼女の両親の分まで、俺が護らなければいけないんだ。その為には、その為には)
勇者は同時に、死んでいった仲間達の事も思い出した。彼らは旅の途中で出会った大切な仲間だった。共に、世界を恐怖と混乱に貶めている元凶を倒すと誓い合った仲間達。最期の最期まで、勇者を信じていた。勇者は、そんな彼らの死を無駄にしたくないと思った。
勇者は首を振り、真っ直ぐな瞳で魔王を見下ろした。
「うわああぁぁぁぁぁぁっっ!!」
泣き叫び、勇者は剣で魔王の胸を貫いた。
血が迸り、魔王の意識は遠くなっていった――――
***
世界の果てにある深い闇に覆われた不気味な城。ここは世界を恐怖に貶める魔物達の住処で、それらを統べるのは若き女性の魔王だ。
彼女は、城の最上階にある王座の前で横になっていた。目を固く閉ざし、微かに上下する胸からは大量の血が流れ、血に染まっても尚ペンダントのクリスタル部分は天井のランプの光を受けて七色に輝き美しかった。
遠退く意識の中で、ただ一人を想う。
(これで良かったんだ。剣で付けられた傷よりも、もっと辛い痛みから解放されたんだから。あなたに殺されるのなら私は……本望よ)
彼女の死に顔は幸せそうで、魔王としての威厳は何処にもなかった。そこに横たわる死体は、ただの恋をした女性だった。